山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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観象山の前世

詩人蒲鳳は『青島』詩中で、天主堂は青島の両目であり、観象山は「彼女の突起した髪」に例えている。静かな観象路をすすむに順って、観象山山頂の登ることができます。ここにそびえる7階建ての「石積塔」が、かつてのドイツ占領時代の観象台(気象台)である。

1931年、中国初の自作ドーム型天文台がここに誕生し、当時の青島十景の一つ「穹台窺象(ドーム観天)に選ばれた。

この静かな小山は中国気象学会の誕生地であるばかりでなく、青島人によく知られた「火の見櫓(みやぐら)である。御存じないかもしれないが、実はチョモランマの海抜もここから測量され、青島市の都市座標も山頂にあり、山の麓の曲がりくねった二本の小道には有名人の旧居がたくさんある。

🔴石板銘文
青島気象台旧跡
1910--1912年の建設、ドイツ近代古城様式の建築で、「皇家青島気象台」と名付けられた。ドイツの建築私ポール・フレドリッヒ・リヒャルトの設計である。塔の高さ21.6メートル。1931年、中国はここに初めての大型天文台を建設した。
青島市旅遊局 青島市文物局 2000年5月

観象山上の「石積塔」

かつて「極東三大気象台」で

青島水族館はすば抜けた建築である

「郷里を離れたドイツの使者は、この楼台を異国の海岸に建てた。暴風波乱にままに、あるいは雷鳴稲妻を避けた。緊急時には、運航の船舶よ、安心しなさいと報せる。この高くそそり立つ要塞は、まるでドイツ人が世界に向かってご機嫌伺いをしているようである。

1912年、青島気象台屋内に詩が刻まれた。

古人の伝教旧例で言えば、大抵「夜天象を観、掐指(こうし)一算す(夜間天空を観察して吉凶(きっきょう)を占い(うらなう)」の一句で語られる。そして青島には、この「観象」と言う名の山がある。

「観象山は小山の山頂であり、以前人々は信号山を大石頭山と呼んだ。ここは小石頭山と呼んだ。」青島郷士史学者は、市南区の観象山はかつて荒涼地であり、正式名称もなかった。1897年にドイツが青島を占領してから、この山に貯水池が建設され、ここはやっと「水道山」と呼ばれ始めた。そして、風雲変化にしても、誰もが目にもとめぬ小さな山が却って後日青島となって、ひいては近代中国の「科研の山」となるとは想像だにしなかった。

旧市街の中を歩くと、赤瓦と緑樹の間に引き立つ褐色の「石積楼台」を見ることができる。これは観象山山頂の7階建てドイツ式建築で、つまりこれが青島気象台の始めの事務棟である。1905年、ドイツが占領した青島に設立した測候所(そっこうじょ)を当時の「水道山」上に移転した。

資料の記載によると、測候所が山上に運ばれたすぐには、二間の粗末な観測室があるだけであった。1910年にやっとこの21メートルの高さの天文台ビルの建設が始まった。「この楼台はヨーロッパ中世の城砦(じょうさい)様式の建築で、1921年に完成し、とても勇壮である。私が入って見ると、内面の壁上に中国大理石の碑がはめ込まれており、碑面に一句のドイツの詩が刻まれ「この高くそそり立つ城塞は、まるでドイツ人が世界に向かってご機嫌伺いをしているようである。」そしてドイツ海軍の備忘録(びぼうろく)には、当時の状況をこのように記載している。「完成した建物には主事務所を包括(ほうかつ)している。中には事務室、広々とした実験室、図書室、一般閲覧室、時報の鐘のある常温地下室、金工作業場とその他の付属室が設けられた。この他に、地磁(ちじ)観察室も計画内にあった。」

「石積楼台」が完成すると、ここは「皇家青島観象台(気象台)」と命名された。当時天気予報以外に、ここでは天文観測、時報、地磁気地震、水文(すいもん)測量、地形測図など多くの項目をも担当し、また済南及び膠済鉄道沿線に設立した10余りの観測点をも管轄していた。

だがその後の歳月は、詩歌中に歌われるそのようなことは無く、1914年に日本軍が青島を占領し、ドイツ人にここから発出していた(詩中の)「ご機嫌伺い」を突然止めさせた。気象台も「青島測候所」と改名させられた。

日本軍はここの科研価値を大変重視していて、1922年に中国が青島の主権を回収した時、「中国にはまだ気象の専門人材がない」ことを理由に気象台の明け渡しを拒ん(こばむ)で、継続してここに占拠した。当時気象台の接収の派遣されたは北京中央気象台気象科科長蒋并然と、ほかに気象学家竺可楨、天文学家高平子であったが、結果は日本人は彼らに引継(ひきつぎ)作業をさせず、気象台内の職員も日本時代の雇人(やといにん)のままであった。

1924年になって、蒋并然、高子平、宋国模などの人材が無事気象台を接収した。同年、中国気象協会が観象台に成立し、現在に続いている。

同時、「極東三大気象台」に属していた上海気象台は、「フランス人の掌握に帰」していて、「香港気象台」はさらに1997年になってやっと中国政府が接収した。それなので、ここは当時唯一の中国主権下で独立して科学研究を進行する気象台であった。

主権回帰後の気象台は迅速に発展し、1928年にここに海洋科が成立、中国の海洋科学研究はここから始まった。1931年になると、山上にまた中国初の自作でドーム式天文台を建造し、翌年にはフランスで製造された天体望遠鏡を導入した。そして1932年に建てられた青島水族館と海産博物館も始めは青島気象台により設計建造された、管理が進められた。ドイツ人の残した地磁気観測室を加えると、気象台の係った学科は一度は「陸海空」三大領域をカバーした。

🔴歴史優秀建築 青島気象台
観象二路19号、1910年建
ドイツ式建築、始めの皇家青島観象台で、青島最初の気象観測機関である。建築師ポール・フレデリック・リヒャルトの設計である。

青島市の位置する緯度経度は「東経120°19、北緯36°04」で、この経緯点は青島の観象山山頂にある。青島市座標点は旧観象台(気象台)子午儀室内の基礎の中心位置上にある。

「この部屋は現存していて、もとのドーム屋根は開閉(かいへい)できる鉄木製シャッターである。後に「大躍進政策」時代に、このドーム屋根は炉にぶち込まれ、その後現在のレンガドームとなった。」

現在、観象山上にはまた万国経度測量記念碑があるが、これは1987年に落成した。

このほか、高平子はまた中国最初に天文望遠鏡を利用して太陽黒点の観測研究をした人であり、1925年に彼は、青島気象台にドイツ時代に残された赤道儀を利用して、太陽黒点の活動を連続観察し、毎日一枚作図したが、この資料は現存し、高平子の天文回に対する貢献の記念となっている。1983年に国際天文連合会は月の一つのクレーターをその名に命名した。

都市の「元標」であるほか、観象山はまた中国の恒久的な水準原点の所在地でもある。「この原点は各地の海抜高度の測量に用いられ。我々のチョモランマの高さや、泰山の高さは、皆この点により測量できたものである。

観象山上にはまた神秘的造型の石積小屋があり、外面は二層の高いフェンスと、内面には三本の鉄鎖がある。屋内は2メートルの深さの空井戸があり、井戸の底に球形の水入りメノウがあり、メノウの頂点にある赤い点に『ここは海抜72,260メートル』と明示されていて、これがすなわち中国の「水準原点」である。中国の海抜高度は黄海の海面平均値を基準とするが、ただし実際は操作中に海上に出て測定することはできなく、波浪は変化して(平均を)見つけられない。従って観象山のこの地点を基準として、測量の結果を、72,260メートルと追加した。

ここは旧青島の「消防司令本部」で、観象山西麓に位置する八角形の「望火楼(火の見櫓)」高さ16メートルは、内側の螺旋階段に沿っていくつかの粗石(すていし)を台にした小窓がはめられ、上部に8本の花崗岩で柱を立て上面に二面折の銅葺屋根を支えるが、ここは一度ドイツ占領時期の市区の最高地点であり、青島のランドマークの建築であった。1940年代初期になると、歴史的使命を完成した望火楼は閉鎖された。青島解放後は、ここはまた倉庫として使用されたので、今日まで残存している。だが、2009年に望火楼は「修繕」中に崩壊して、現在は再建である。

蒋介石、朱徳は嘗て山に登って視察した

観象山に有名人の旧居が偏在している

“患难交情五十年,濒经生死又开颜。

松花江畔飘蓬日,观象山麓秋暮天。”

              1979年,萧军《赠舒群诗》


1947年蒋介石は青島を巡視し観象山に登り前海を眺望した

観象山の小径に多くの史上有名人の足跡が重なり合うのを眺めたが、彼らの中には名の知れた気象、海洋、天文学者、また文学家や政治家及び名士があった。1947年、蒋介石は観象山に登りここでの観測作業を視察した。青島解放後、朱徳、蕭勁光が観象山に臨場(りんじょう)した。そして山下の観象1路は1918年に日本が青島を占領した時期に敷設(ふせつ)され、始めはただ一条の「千葉通り」と言う名の小径(しょうけい)で、進行方向は大変不規則であった。観象一路は作家蕭紅、蕭軍、舒群三人の古巣(ふるす)である。



観象二路も同様に曲折して、それは膠州路の入り口から山頂に向かい伸びて、二本に分かれ、一本は車両の通行できる正路で、旋回しながら山頂に至り、もう一本は歩行用の石階段で、やはり山頂に達す。

観象ニ路1号は赤色の聖パウロ教会で、1940年に観象ニ路に建築されたが、ロシアの建築家ユーリフの設計で、ローマ様式を模倣して、教会本堂のほかに高須24メートルの鐘塔があるが、これは青島五大鐘塔の一つである。記載によれば、物理学者で両弾(原子爆弾と大陸間弾道ミサイル研究)功労者の王大珩(おうだいこう)が青島にいた聖パウロ教会の傍らに住んでいた。そして観象ニ路は観象は観象山上の石積楼屋と同時期の建て始められたドイツ式建築で、かつて観象台長官公邸として使用され、ドイツ占領時代の台長メルマンから回収した蒋并然も嘗てここに居住した。

今でもここの紺碧(の空)は昔のままだが、気象は千万多様である。しばらく前にドイツ占領時代に記録された青島気象資料がドイツハンブルグ気象局から青島へ送還され、引継式に参与した中国海洋大学気象学教授傅剛が語った。「私達はいつも気象千万と口にするが、実際気象はとても千万に留まるものではない。ある人はドイツがこの資料を送還したのは、中国が強大な表れであるという。しかし私はこの事の意義はそういうレベルではより遥かに高く、これは一種の文化の融合であり、ある種歴史的物証であるのだ。」。確かに、観象台のあの石ブロックの楼屋は今も昔ながらに青空に屹立し、そのドーム式天文台も依然として「穹台窺象」(青島十景の一つ)としてあり、それらは青島百年の風雲変幻を目撃し、また無数の歴史人物がこの街に施した文化貢献の目撃者なのである。