数千年来、封建社会で鎖国的政策の籠目(かごめ)に閉ざされて、農耕文明はずっと中国の社会生活に影響した。煙台は古代には「転附」「芝罘」と称し、明洪武31年(1398年)に、倭寇の襲撃撹乱を防ぐため、明政府は芝罘湾南岸に築城し、奇山所守禦千戶所を設け、合わせてその北部海岸の小山に烽火台を建設したので、... 続きをみる
2021年12月のブログ記事
-
-
最近、ある人が私に難問を出しました。それは、日清戦争に於いて旅順戦地の日本軍が清軍の戦争捕虜をどのように扱ったのかという問題です。 この問題は簡単です。旅順戦地には一人の捕虜もいなかったので、そもそも清軍捕虜の扱いに関する問題は存在しなかったのです。旅順に総攻撃を仕掛ける前、日本軍第一師団長の山地... 続きをみる
-
世界絵画の両体系から見ると、中国画を代表とする東洋絵画と油絵を代表とする西洋絵画は、それぞれ独自の基本的特徴と歴史伝統があり、従っておのおの不同の表現形式と観賞の特徴がある。 中国絵画は、国画と略称し、世界美術の領域では独自の体系をなし、単独の特色があり、東洋絵画体系の主流となっている。西洋絵画と... 続きをみる
-
1871年、メルベンというアメリカ人宣教師が山東済南に来て、アメリカ北長老会の山東での最初の布教所を建設した。1878年、自分の布教所の近くに、メルベンは診療所兼薬局を開き、周囲の民衆への簡単な診療と常備薬の提供を担当し、「文璧診所」と称した。 1890年、アメリカ北長老派教会のもう一人の重要人物... 続きをみる
-
-
清光緒6年(1880年)、北洋大臣李鴻章は大連湾軍港建設構想上奏文中に、初めて大連湾について言及した。 清光緒6年、李鴻章は北洋艦隊と軍港を設立する視察でこの入江(大連湾)に来たが、後に入江は広すぎるて、防衛によくなく、後に旅順を選んだ。ただそこに旅順を退路を守る海防砲台5基と陸上防衛砲台1基を建... 続きをみる
-
-
旅順三里橋にあるソ連軍烈士陵園の西南角の壁外近くに、日本人の合葬墓がある意味墓碑が墳墓の上に立つ、典型的な日本の墓葬習俗である。 墳墓は円形で、直径310センチメートル、高さ120センチメートル、墓碑の碑座は直径110センチメートル、高さ28センチメートル、碑本体は直径70センチメートル、碑高11... 続きをみる
-
1898年、ロシアが旅順大連を強制租借すると、旅順地区に三ヶ所の病院を建設したが、二ヶ所はロシア軍軍隊のもの、一ヶ所はロシア赤十字会のものであった。 軍隊病院は海軍病院と旅順混成野戦病院があり、軍隊病院は軍人の体を対象としたため、社会一般には解放されなかった。ロシア赤十字会病院は、ロシアと欧米人の... 続きをみる
-
乃木の柳樹房屯は旅順北部に位置し、百年前は、従数戸の家庭があるに過ぎない小村であったが、日露戦争で一挙に、史書に掲載された。 1904年に日露戦争が勃発すると、乃木希典(のぎまれすけ)の統帥する第三軍は旅順の包囲を担当し、司令部を柳樹房屯近く東の五間の藁葺家内に設置した。真ん中の家を主屋(しゅや)... 続きをみる
-
-
望台砲台は旅順市東北に位置して、海抜182メートルで、ロシア軍東部保衛戦の制高点(標高)である。清代にはこれを将軍台と呼び、ロシア軍は大鷹巣砲台と呼び、民間は両桿砲(二丁大砲)と俗称した。現在も2基の艦砲が山頂に残る。この2基の大砲はサンクトペテルブルクのオブホフ兵器工場1899年鋳造の150セン... 続きをみる
-
辛汪巡検司創寨碑 等級:一級文物 数量:1 件 時代:明 明洪武2年(1369年)、明朝は威海衛寨子村に辛汪寨巡検司を設立し、同時に設立したものには、赤山巡検司、温泉巡検司があった。 孫諒は辛汪寨巡検司首任巡検に任じ、陣内に兵百人が駐屯し、営塁を築き、塹壕を深くし、烽火台を建て斥候し、武装を整備す... 続きをみる
-
-
-
膠東地区は、山東半島東部に位置して、海浜は渤海、黄海に臨み、狭義(きょうぎ)には今日の煙台地区と威海地区を包括して、その内3/4の面積が煙台地区である。清初、膠東地区には登莱道が設置され、登州府、莱州府を管轄し、康熙39年(1700年)青州同は登莱道に合入して、登莱青道と改称された。 清代前期とは... 続きをみる
-
-