山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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2021年8月のブログ記事

  • 中国に貢献した女傑達

    一 ガルヴィン夫人 ジュリア(Julia A.Brown、1837〜1898)は、母方の伯父(はくふ)の家に身を寄せていて、18歳で自立し、25歳でガルヴィン(Calvin Wilson Mateer)と結婚した。結婚してまもなく、ガルヴィンの申請に従い、海外布教を計画し、1864年に、彼らは山東... 続きをみる

  • ネビウス夫人の回顧録節録

    ネビウス(John L. Neivus、1829〜1893)、19世紀後半の有名な来中のアメリカ宣教師。1854年、ネビウスはキリスト教北米長老派教会の派遣委任を受け、妻を伴い中国へ到来して、まず上海、寧波、広州などの地で布教した。 1858年、清政府と西欧列強は「天津条約」を締結して、登州(今の... 続きをみる

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  • 蓬莱古船の前世今生

    600年以上前のある日、高麗と中国の間を往来する一隻の商船が、登州の小海で突然沈没した。この船は何処から来て、どこへいくのか、沈没の原因はなにか、どうしてこの港で沈没したのか、船上の貨物は海底に置き去りにされたままなのか。 これらの問題は商船と海底で泥砂(でいさ)に埋もれ、打ち寄せ(うちよせ)波と... 続きをみる

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  • 「北洋艦隊の黄海決戦」の前夜

    清朝海軍は、北洋、南洋、福建、広東の四つの海軍艦隊に分けられ、その中で北洋海軍は実力が最も強大であった。 北洋海軍は、中国の清朝末期に設立された新式海軍である。同治6年(1867年)に提案され、13年(1874年)に計画された。清朝は毎年400万両の白銀を支出して設立した。 海軍は三海域に分け建設... 続きをみる

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  • 日本スパイ網ジェームズ情報ネットワーク

    日清戦争が勃発する前、日本政府は、計画的な戦争の必要性に応じて、いくつかの緊急情報ネットワークを事前に配置し、その中でも最も重要かつ秘密の一つは、おそらく英国のジェームズが日本の為に設立した情報ネットワークでした。 では、このイギリス人のジェームズは、何者ですか?そして、どのようにこの情報ネットワ... 続きをみる

  • 米国兵士と青島人の酒文化

    1945年8月に日本が投降した後、米軍は青島に進軍を開始した。まず9月16日に、9隻米軍艦が青島港に到着し、青島駐在の日本海軍の武装を解除した。ついで10月に、アメリカ海軍陸戦隊第6師団が青島に上陸したが、これはアメリカが中国で前例のない軍事力であった。 中国に対する影響力を強固する為、中国への軍... 続きをみる

  • 威海の建制

    明朝の始め、中国沿岸は日本の浪人武士や不当な奸商による掠奪にたびたび苦しんだ。そこで、明政府は彼らに対して大規模な海岸防備の建造を開始した。例えば、多くの軍事施設(歴史的に衛と呼ばれる)が海岸沿いのいろいろな戦略上重要な場所に建造された。これらの場所の内、威海衛は1398年に建設された一つで、どう... 続きをみる

  • 威海の返還と民国

    日本が1905年に旅順と大連の支配権を握ったという事実は威海の悲運に直接の影響を与えた。軍当局と同盟国日本双方が反対したので、イギリスは威海を香港に付属(ふぞく)させる計画を立てた。そこで清政府は1906年に条約に準じてイギリスから威海の返還を求めたが、イギリス政府は断絶した。そういう事情で威海を... 続きをみる

  • 人々の生活(威海衛)

    「威海は海辺にあり、人々は健気(けなげ)で純粋であった」。特殊な地理と歴史は彼らの先祖が古風な生活を過ごしたのと同じような代々を生み出した。地元の人間は単純で正直だが、大変保守的であり、威海は条約港として開いたので、地元民は世界となじむために初めての努力を初めた。近代的な産業と商業の躍進に伴い、社... 続きをみる

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  • 故郷と国家

    近代の中国は内外の問題に満ちていたので、国民の救済と洋務運動(自強運動)はその時代の最も強い特色となりました。 この期間に、中国は清朝末期から中国民国へ、即ち、君主制から共和国へと大きな転換を遂げました。 中国の一部として、当時、威海は外国勢力に支配されましたが、愛国心に満ちた地元の中国人は遅れを... 続きをみる

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  • ビジネスドリーム

    威海は貧乏人と不毛の農地の海岸の町であった。日清戦争は地区人口を減らしてより過疎化させた。しかしながら租借の当初、西洋人はその優秀な風土と、地理的な利点と海運の利便性で、拠点の威海の将来性についてはまったく楽観的であった。自由港政策の実施により国内外の貿易商がここで通商を展開して、再輸出貿易と観光... 続きをみる

  • 西儒統治(威海衛)

    イギリス本国は伝統的で実践的な国で、折衷(せっちゅう)と徹底的な改革には反対する良識があった。威海の近代化はイギリスの保守主義と実用主義の影響を深く受けた。早くも1900年には、フランク・スウェッテナムは、威海を統治する最も良い方法は、古い地方制度に従いできる限り信望を維持することだと提案した。そ... 続きをみる