2021年4月のブログ記事
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1920年5月7日、イギリスのパイロットが操縦した「ハンドレページ式飛行機が、北京南苑空港より離陸、1時間で天津佟楼競馬場に到着する。 機上には、交通部の代表3名と中国駐在イギリス公使を含む15人が同乗し、午後の飛行機で帰京した。 今回の初飛行を記念して、郵政当局は初飛行記念印を作って、初飛行期の... 続きをみる
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日本のスパイのことは、近代中国史の研究に避けられない内容である。 早くは日本の明治維新の頃、日本の「脱アジア西欧列強入り」で世界強国に分け入り中国は仮想敵国となり、大勢の日本のスパイや公人身分、あるいは私的な身分で中国に潜入し、日本政府と軍部の為に計り知れない量の各種の情報を探った(さぐる)。その... 続きをみる
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1938年2月3日、日本軍は煙台を占領した。煙台に対する7年半に及ぶ統治が始まった。 この間、近代税関元老の王文挙(王亜居)は東海関税関で6年間に及ぶ勤務し、最後は東海税関副税関司長官となった。彼は回顧録の形式で煙台でのこの間の経歴を記録していて、又後人のためとなる東海税関の重要な歴史資料を残した... 続きをみる
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サンパン(舢板)は過去の地域の海岸で良く見られた一種の簡単な小型木船で、製造が簡単で、使いやすく、動きが機敏であるなどの優点を備えていたので、海上の人員の渡岸や貨物輸送に用いられた。 北洋艦隊の結成地で日清戦争の戦場となった劉公島は、威海湾内に横たわり、距離は市街から21.1海里である。1898年... 続きをみる
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ネビウスは、近代に中国に来たアメリカ長老会の宣教師である。 彼は1854年に中国に来て、当初は上海、寧波、杭州で伝道し、1861年に登州府治の所在地蓬莱に移転し、1871年に煙台に移住した。1893年、ネビウスは煙台で病死、享年64歳であった。ネビウスは煙台に20年以上寄寓(きぐう)し、多くの面で... 続きをみる
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1911年1月17日、旧暦の己酉年の師走(しわす)初七日、翌日は臘八節であるが、東北でペストが発生したという、人々を驚愕(きょうがく)させるニュースが煙台で急速に広まった。 このニュースは東北と海を挟んで向かい合う煙台人の肝を冷やしたのは、煙台がこのような打撃を受けるのは一度のみならずであったから... 続きをみる
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清・金農『古仏図』軸:縦250.8、横70。 図中の紅衣の古仏は、双眼を僅かに閉じ、穏やかで安定し、厳かである。袈裟は地面に付き、右手を捧げものように、紅布の下に覆われ、片肘(かたひじ)をあらわせに拱手(組手の礼)でたたずみ、説法の様子である。「遊糸描」で地面に及ぶ上着を描き、線条の起伏はうねりな... 続きをみる
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アメリカペンシルベニア州ワシントンタウンの公共墓地には、特殊な墓碑があり、上面には「謹んでこの碑を自己の祖国を深く愛する一方で、生命を黄龍旗に捧げた勇士の為に建立す」と刻む。この墓碑銘はフィロ・ノートン・マクギフィンに捧げられたもので、それは簡略な言葉でこの勇士の一生を概括している。マクギフィンは... 続きをみる
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煙台革命に対する日本友人の支援。 1911年の辛亥革命の間、煙台の革命活動は日本の友人から熱心な支持を受けました。日本人倉谷圭三は、徐鏡心の親友でした。辛亥革命以前は、煙台毓材学堂の教師として教育活動を通じて、学生に革新思想を伝えました。その後、日本の桑名貞次郞によって創刊された「芝罘日報」で記者... 続きをみる