山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台にいた音楽家の狄師娘(ドリー)

民国時期に、煙台には大変有名な西洋の女性宣教師があり、当地の人に「狄師娘」と尊称された。狄師娘(メアリー・グレース・フレンチ・ドリー)は当然煙台が毓璜頂病院の院長狄樂医師の夫人であった。1921〜1942年に煙台での仕事中に、彼女は積極的に煙台の音楽教育と社会公益事業に参加し、煙台の近代史上に抹消できない印象を止めた。

毓璜頂病院院長夫人

狄師娘の夫狄楽医師(フレデリック・エドワーズ・ドリー,1867〜1937年)はアメリカペンシルベニア州出身で、狄師娘はアメリカオハイオ州で生まれで、二人はフランス系アメリカ人であった。狄楽夫婦はアメリカ長老派教会の宣教師で、1970年アメリカ長老派教会が派遣して中国に来た。中国に来てから、二人は共に北京協和病院で仕事をし、後に狄楽は協和病院の院長となった。狄楽は外科が得意で、特に耳、鼻、喉の専門で有名で、当時北方名医であった。1921年、狄楽はアメリカ長老派教会から煙台毓璜頂病院に転勤され、狄師娘一家は煙台に引っ越した。
煙台に来て間もなく、狄楽は優れた医療技術、高貴な医療論理で膠東で有名になった。1924年、毓璜頂病院の初代の院長オスカー・ヒルズ医師が辞任してアメリカに帰ると、狄楽が毓璜頂病院の院長となった。この外に、狄楽は煙台当地の社会慈善事業を積極的に支援し、煙台啓喑学校(聾唖学校)の理事となり、煙台アメリカ海軍YMCA(キリスト青年会)の理事長、煙台また煙台の半自治の都市管理機構華洋管理機関である国際委員会の六名の外国人理事の一人であった。狄楽医師は煙台各界に高く評価を得ていた。

音楽家

狄師娘と真光女子女子中学の学生
狄師娘は優れたピアニストです。家族全員が煙台に引っ越した後,煙台キリスト教長老派教会から、新設の教会学校「煙台真光女子中学」で音楽を自主的に教えるように手配となった。真光女子中学は煙台最初の女子中学で、1922年に煙台キリスト教長老派教会の資金援助で、アメリカキリスト教長老派教会が、学校のために校舎と英語、音楽、医学等の義務教師を提供した。この学校は国内で、ピアノと英語教育で有名であり、半数の学生がピアノを専修課として、社会に大きな影響を与える音楽才能を育成しています。真光女子中学校の音楽教育の特徴は狄師娘の功に帰している。当時、真光女子中学校には2人のピアノ教師しかおらず、一人は狄師娘であり、音楽長を担当し(学科主任に担当する)、もう一人はピアノ教師のスーザン・F・イームズであった。
狄師娘はピアノ教育の領域で大変貢献があった。彼女は主に学生にヨーロッパの古典音楽の巨匠(バッハやモーツァルトなど)の作品の演奏を教授して、クラス分けに従うことを堅持して、速習を求めず、学習に注意と当時最新の教授法を研究した。この他、狄師娘は厳格を以て名高く、病気で病床に横たわっていても学生に教授業に出ることを堅持させた。
20世紀上半には、真光女子中学は中国のために優秀な音楽人才を養育し、後に多くの学生は国内音楽界で影響のある専門家となり、中国の早期の西洋音楽の発展とピアノ教育事業に重要な貢献をなした。ある学者は、煙台のピアノ発展は青島のピアノ文化に影響して、青島の多くの有名な音楽家、滕維芳、王愛瑜、王芸蕾などは嘗て真光女子中学で学んで、狄師娘のピアノ指導を受けたと指摘している。
この他、狄師娘はいつも煙台で学生のピアノ演奏家を挙行し、当地の人に無料で観賞に招待した。彼女はまた家でピアノの個人教授をしたが、一銭も受け取らなかった。毎年アメリカ太平洋艦隊の水兵が煙台で夏季「避暑」の時、狄師娘は彼らのために招かれてピアノを演奏した。
真光女子中学の義務教育の音楽の授業以外に、狄師娘は熱心な社会事業者で、彼女は積極的煙台社会の公益事業に参与した。

社会の工作者

皆周知のとおり、近代煙台は世界のレース、ヘアネット、シルクなどの工芸品の生産と集散の中心で、大量の工芸品が欧米各地に販売された。実際煙台及び周辺地では大量のヘアネット、レース、シルク工場が集積し、多くの郷村の若い女工が煙台に乗り込み、盛んな時には女工の数は2万人余りに達した。
しかし、これらの女工のほとんどは教育を受けていなかった。従業員の素質を高めるために、大量の未婚女性を都市に引き受け発生する社会問題を免れるために、煙台のキリスト教派の中外キリスト教信者の組織は益工会の成立を組織した。益工会成立後、狄師娘はいつも教徒と煙台の各工場に深入して、「女工に手芸、習字を教授し、道徳を講演(中には宗教の宣伝も少々あった)」、「自然の足(纏足をしないこと)を提唱」し、夜間学校を設立し、文化知識を伝授し、「女性のために講演大会、親交大会を開き、女工はそれで大変役立つことがあった」。益工会は煙台で社会活動をし、婦女の権利意識を最大に高め、社会意識を最大に高め、女性の社会地位を引き上げ、当時の封建保守的な社会的雰囲気に衝撃を与えた。
これ以外に、狄師娘は煙台の各キリスト教会団体で組織する各種の社会救助活動に積極的に参加し、例えば煙台救世軍の難民救助の活動などに参加した。
天には不測の風雲がある。狄楽夫妻が煙台であふれる激情で自分の仕事に身を投じていた時、狄楽医師は胃癌があることを検出した。1937年8月、狄楽医師はアメリカのクリーブランドで亡くなると、享年61歳であった。
狄楽医師はアメリカが亡くなると、狄師娘は中国へ戻り、煙台の音楽教育と社会公益事業を継続した。1941年の「真珠湾攻撃」以後、狄師娘は米国籍の教師として翌年日本軍により国へ送還された。1974年9月、狄師娘はアメリカフロリダで亡くなり、享年94歳であった。