山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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来中のドイツ科学観測隊(煙台)

金星の太陽面通過は一種稀覯(きこう)な天文現象である。1874年(甲戌年)に一度金星の太陽面通過が発生し、見られる区域は主に中国、日本、朝鮮等の国である。このためイギリス、フランス、ロシア、アメリカ、ドイツなどの国は続々と人員を中国とそのほかの区域に派遣して観測を進行しました。これは近代最初の大規模な国際科学観測活動で、煙台はこの科学活動中に重要な観測点の一つとなった。

甲戌年金星凌日

金星が太陽と地球を掠め(かすめる)すぎる間、その影が太陽表面を通過して黒点を形成するのが、金星の太陽面通過である。金星の太陽面通過を観測する意義は大変重要で、それが直接太陽と地球の距離の測定と密接な関係があり、太陽と地球の距離はまた、太陽系の大小の天文単位のものさしである。「太陽と地球の距離が基準となれば、すなわち星の遠近が推察できる。故に天地の測量は、太陽と地球の距離から始める外はなく、太陽と地球の距離の推測は、また金星が太陽を通過する日の法則を基準とする外はない。」これによって太陽と地球の距離の測定は「最も崇高な天文問題」と称賛されている。夙にニュートンの時代には、金星の太陽面通過は天文学家の注意を引き、例えばハレー(慧星すいせい)が、金星の太陽面通過には太陽との視差(しさ)で、太陽の直径を確定するのに利用されていた。遺憾なのは、彼(ニュートンの)は遂にその一生では、この天文現象を観測できなかった。この後天文学家は金星の太陽面通過の観測を勤勉に追求した。1761年に世界で初めて金星の太陽面通過が観測されてから今日に至るまで、1761、1769、1874、1882、2004年の5回の大規模な金星の太陽面通過の観測活動があった。その中で甲戌年(1874年)に発生した金星の太陽面通過は西洋天文学者の重視を大いに受けた。
西洋人から言えば金星の太陽面通過を観測するのは「太陽と地球の遠近を験する」ものである。西洋人に取って金星の太陽面通過は「太陽と地球の距離の遠近を測るも」である。中国では金星の太陽面通過には特別な意義を含んでいる。中国では金星の太陽面通過はまた「太白星が日(太陽)を貫く(つらぬく)」と言われている。中国の伝統的占星(せんせい)解釈では、太陽は帝王を代表し、もし太陽がその他の星体の侵犯(しんぱん)を受けたら、帝王、あるいは国家の統治者が挑戦を受けることを象徴している。言い換えれば金星の太陽面通過等の異常な天体現象は皆大変厳しい凶相(きょうそう)である。清末の士大夫(上級官吏)は、この異常な天象(天の変化)は帝王統治と連係して起こるととらえていた。このように1874年7月に「西北に彗星が現れる」と、内閣学士翁同龢はウテナ(台)で注目した。彗星が出現していないあの時間にも翁同龢は、毎夜のように自ら観測して、彗星の出現を「国事を突変(とっへん)」させると深く憂いた(うれう)。
近代の有名な中国へ来た宣教師マーチンは金星の太陽面通過原因の形成とその観測意義の普及を進行した。1873年10月出版の『中西見聞録』で、マーチンは『金星の太陽面通過』の科学普及の文章を発表し、文章で語った。「明年甲戌年十月三十日の金星の太陽面通過日には、八年で再び見られ、それから百年余りはもう見られない。現在ヨーロッパ諸国は天文に詳しいものを派遣し、各所へ観察に分け、ロシア人は北極へ、イギリス人は南極へ行かせたのは、ほぼ(神話の帝堯が伏義氏と和氏を宅南や宅西に命じた故事のようであった。あるいは西洋人がこの事をして、障害を恐れず、遠く南北の氷雪荒寒の地を渡り歩き、測度を競い、胃は星象を占い、災祥、各国の興衰治乱を観察したが、そうでなくても、西洋では禍福の久しきを天象をもってせず、ここでこれを丁寧にするのは、おそらく金星の太陽面通過で、太陽と地球の遠近を検査するものである。」ただし当時大部分の中国人はこれに半信半疑であった。金星の太陽面通過日には、あたかも同治帝が天然痘(てんねんとう)を患い(わずらう)のに遭遇し、これは疑いもなく人民の憂慮(ゆうりょ)を増深させた。

二時間あまりの天が与えた星見のチャンス

金星の太陽面通過日の為に、「西洋各国は天文に詳しい学者を選抜派遣し、各地に観察に向かわせた。」。イギリスは10ヶ所、ロシアは27ヶ所、「ドイツ人は、中国、ニュージーランド、オークランド諸島、インド洋、モーリシャス、イランなど五つの科学チームを派遣し、煙台の観測隊はドイツ初の科学チームであり、これは近代煙台最初の外国観測隊による科学的観測活動となった。
ドイツの観測隊は天文学者のヴァレンティノ(1832-1921)をリーダーとし、メンバーに天文学者アドルフ、ライマン及び撮影技師カルデッツ、画家エシュケ等がいた。観測隊は大量の設備を、107個の箱、重さ14トンを携帯した。彼らはイギリスから汽船に乗りサウザンプトンから出発、2ヶ月後、上海に到達し、1874年10月27日に煙台に到着した。
煙台に到着後、観測隊は滋大洋行のパートナー、クラークの煙台山東側の高台あたりの土地を租借して、観測所の建設を開始した。ドイツは特に一艘の軽巡洋艦アルコナ号を付近の海域に派遣して、観測所建設に協力した。一ヶ月あまりの緊張した設置と、試運転の作業を経て、観測設備の設置が完了した。観測隊は煙台山の東側に設置され、三面は土金で囲い、他の一面は崖に向かっていた。観測所の主要な「屋根あり三ヶ所」は「天体望遠鏡設置、子午線鏡設置、撮影機材設置であり、屋根は木で作り、電線でその間を連係した。天体望遠鏡は長さ5尺余り、径は約4寸、運行は滑車により、日月五星と共に回転することができた。ただし太陽を観察する方法は、星の観察の直視と異なって、太陽を観察するには旁視した。子午線は南北方向に移動して、上にレンズが二つあり、一つは水平、一つは垂直で、その垂直レンズは星光を取り入れ水平レンズに反射したが、人は水平レンズから観察し、子午線上の星を観測し、随時図として記し、恒星の所在の考察の便とした」。観測隊の「天文学者は皆準備万全で、専ら(もっぱら)時を待ち測図して、天行を観刷し太陽を測量する好機会だと考えたていた。
天には不測の風雲がある。金星の太陽面通過の前日、煙台は暗雲が立ち込めて、空は暗く沈んでいた。だが、ドイツ人の観測隊は大変幸運なことに、12月9日午前3時に、風向きが改変し、暗雲を吹き去ると、間もなく太陽が東方の海面から、ようやく頭を出した。早朝7時観測隊が各人各位置に着いた。当時、現場の軽巡洋艦「アクナ」号艦長ライプニッツ(Reibnitz)男爵は、「この観測所は、「この観測所は、随時戦闘できる巡洋艦の甲板のようなものだ」と語った。この時煙台港内では、所在の船舶はドレスアップし、領事館や多くの個人宅上空には旗や幟(のぼり)がはためき(はためく)、市内の中国人は早朝から爆竹を打ち鳴らし、快晴な天気を祝うようであった。快晴な天気は二時間あまり持続し、観測隊も二時間あまりの観測時間を獲得した。偶然に一致したのは、観測が終了した時、金星の太陽面通過を撮影した湿式(しっしき)コロジウム板ガラスが最後の一枚を使い果たしたことである。この時、煙台の空はまたは暗雲が覆い被さった(おおいかぶさる)。翌日は煙台はずっと雪と霰(あられ)が降った。これでドイツの観測隊は金星の太陽面通過の科学的観測活動は、煙台で円満終息を果たした。事後『中西見聞録』上には「この頃ドイツ人が煙台で金星の太陽面通過を観察できた」の報道がある。

ドイツの撮影師が描述した煙台の見聞

煙台に科学探測を進行したドイツの随員撮影師カルデッツで、彼は煙台開港後4人目に煙台に来た撮影技師である。カルデッツはドイツの著名な撮影技師で、ベルリンで自分の名字を命名した写真館を開いた。1869年末、清朝第一回外交使節団蒲安臣団がベルリンを通過した時、カルデッツは、施設団の正副代表税関道志剛と礼部郎中孫家谷のために写真を撮影して記念を示した。一名の撮影技師として、カルデッツは独特の視点で自分の煙台での奇遇を描述している。ドイツの科学探測隊が煙台に到着してから、煙台に駐在していた登莱青道東海税関監督龔易図が拝訪してきた。龔易図は一名の通訳を通じて彼に儀器の用途を解釈して、同時に一枚の太陽の写真を撮影して彼に送った。龔易図は贈り物を受け取ってとても幸せでした、そしてそれから彼が地面で物事を写真に撮ることができるかどうかカルデッツに尋ねました。カルデッツは龔易図と彼の2人のフォロワーの為に集合写真を撮りました。龔易図はカルデッツに感謝し、彼が好きなものの写真を撮ることができることを期待して、彼を自宅のゲストに招待しました。カルデッツはこの丁寧な招待にすぐには応じず、それを検討すると言っただけでした。写真家として、カルデッツは煙台でよく扱われました。恐らく彼が最初にここにカメラを持って来たからでしょう。地元の人々の目には、写真は単なる奇跡であり、写真家として、カルデッツは何処へ行っても常に人々に追われ、見守られています。
更に、カルデッツは煙台で嘘つきの写真家に会ったとも述べた。当時、煙台には大規模な写真スタジオもありました。この写真スタジオの写真家は中国人で、一日中いつも長く待たずに写真を撮ることができます。この写真家は撮影技術の新進展には興味を感じず、特に人との業務交流も退避しているようであった。この中国での写真家の部屋の装飾は占い所の接客室のようで、中にはカメラの一台もレンズの一枚もなかった。元々彼には肖像のネガがたくさんあり、ある顧客を接待すると、彼はよく観察して、その後自分の荷物の中からずっと似ている一枚を選び出した。中国人の大人は似ていて、弁髪の長さもほぼ同じで、それで難なく匹敵する写真を探し出すことができた。顧客は喜んで代金を支払い、明らかに結果は満足げであった。見たところ、この嘘つきの写真家は、煙台人の大多数が未だに写真を撮るのを視たことがなかったのを利用して、この方法を大々的に行った。
要するに1874年の金星の太陽面通過の観測活動は、中国近代史上最大の大規模な国際科学観測活動で、また最初の科学の普及活動でもあった。重要な観測点の一つ煙台がその時に遭遇して、この近代人類が宇宙を探索した壮挙を目撃した。