蒋緯国:国民党はなぜお陀仏(だぶつ)になったのか
蒋緯国:1916年〜1997年,
幼名建鎬、號念堂。蒋介石の次男であり、国民党の装甲軍団長、戦車連隊司令官、装甲軍団長、副司令官、司令官、陸軍指揮参謀および参謀大学の副会学長、国家安全会議秘書長。彼は軍事戦略研究で大きな成果が上げており、台湾から「軍事戦略家」と見做されています。彼の著書には『軍事の基本原則』、『国家戦略概論』、『大戦略の要約』、『柔軟な攻撃』、および「国防システム概論』などが含まれています。1997年9月23日、台湾でなくなりました。
01
民国31年(1942年)、私は隴海線の夜行特急に乗り潼関から西安を巡り、胡宗南将軍の用で私に研究に行くように出かけた。私はトコジラミ下段(げだん)に居るので、上段に眠るのが好きであったが。彼らは私に下段を配分したので、私も下段に座った。
汽車が出発前に、一名の少将がやってきたので、私はすぐに立ち上がって敬礼し、私が敬礼を終え座る前に、彼は「上りなさい」と言った。私は心中、「私が下段を買ったのに、あなたは私に上がれと呼ぶが、これは願ってもないこと」だと思った。そこで私は上着を脱いで、上段に掛けたが、このように掛けると、私のピストル〜銀色のブロウニング、私が部隊を出発する時父親が私にくれたものが露出した。
その少将は私のピストルを一目見るとすぐに「君はこのピストルをどこから持ってきたのか」と質問した。私は「我家の老人が私にくれたものです。」と答えた。彼は私に「彼も軍人か」と聞いた。私は「そうだ。」と言った。彼は「私にちょっと見せてくれ」と言い、私は「どうぞ。」と答えた。そこでピストルを取り出し弾をはずしてから彼に渡した。
彼は見てから大変喜んで、「彼のピストルもブローニングであったが、錆(さび)が発生しています。」と言い、私ははずした弾丸をカートリッジクリップに戻して、クリップも彼に渡した。そして「すみません、私はこのクリップだけです」と言った。彼は「宜しい。」と言い、言わんとする所は煩わし(わずらわしい)そうであったが、その後私は彼のピストルを私のホルスターに入れた。
翌日早朝汽車は西安に到着し、胡宗南将軍が私を迎えに熊副官を派遣してくれ、この少将も熊副官を知っていて、彼を見て恭しく(うやうやしい)「あなたはどなたを迎えに来ましたか」と訊ねた。熊副官は「私は蒋上尉を迎えに来ました。」と言った。おかしいのは、この少将が私とピストルを交換した時も私の名を訊ねませんでした。彼はまた「その車両ですか」。熊副官は「君の後ろにいらっしゃるぞ」と言った。
後でこの少将が歩いてゆくと、私も熊副官と一緒に歩いた。昼近くの時間を待って、ある人が「外で少将が入り口に跪き(ひざまずく)離れず、上尉との面会を求めています。」と知らせた。私はすぐさま出て彼を引き起こすと、彼はピストルを私に返し、私もピストルを彼に返し、気にすることはないと頼んだ。
私は彼に「これに問題は何もない、このピストルは誰が見ても好きになるので、将軍がもし気に入ったのならば持ち帰っても、別に構いません。」と言った。彼は「それはできません、以後大旦那にお会いしたら何と申しましょう。」この事件はこのようにすんだ。
02
他に西安から潼関に戻った時にも発生した。日中は汽車が混雑し、指定席急行であったが、通路に座り込む人も多く、多くの人が荷物を持っていたので、通路に置き荷物の上に座った。汽車が動き出すと、私は上校が彼の所から前に押し出されて行き、まもなくまた彼が前方から押し返されてきたのを見かけた。
二回目に私の席の傍らを通りかかった時、私はすぐさま立ち上がって彼に「上校、あなたは誰か探しているのか、または席を探しているのですか」と訊ねると、彼は「席を探している。」と言ったので、私は「どうぞ。」と言った。
彼は私を見ると、「パチン」と私の顔を平手打ちし、大変怒って私に「さっき通った時にあなたは見なかったのか。」と言い、私は「見ました」と答えると、彼は「君はどうして譲らなかったのか」と言った。
私は「上校、さっきあなたが私の後から来たとき、待っている私があなたを見かけた時にもう通りがかっていて、私はあなたが誰かを探していると思い、そしてあなたがまた押し戻されてきたので特別にお訊ねしたのです」と言った。思いかけず彼はまた「パチン」と平手打ちをし、「何を面倒なことを言っているのか」と言い、あなたが席を譲らないことを意味した。実際私は傍らに立ち、「どうぞお掛けください。」と言い終わるとトイレのオマルの上に坐った。
後で車掌が検票(切符を確認する)に来ると、列車内の私を知っている人が車掌に「あの将校がさっき蒋緯国をぶった。」と言った。車掌は「どの蒋緯国ですか」と訊ねた。その人は「彼はトイレに座っている、彼の席をその上校に上げたのだ。」と答えた。
車掌はその上校に「あなたは人の席にいますね。」と言った。そしてその上校はもともと切符がなく、車掌は一方で彼に精算票を求め(その時軍人に精算票を言うことができたのはやはり進歩であり)、同時に彼にあの上尉は蒋緯国であると教えた。
彼は聞くと、精算票を持ってからトイレの入り口に駆け寄り「ハハっ」との一声で跪き、何度も謝罪した。これはかえって私をびっくりさせたが、逆に普通に思えたが、ただし上校がわが上尉の目前に跪くのを見て、私は驚いて、すぐに彼を助け起こした。
その上校は絶対に私に彼を許すよう、彼の家には老母がいて、まるですぐに彼を引っ張り出さなければ銃殺ものであると言った。私は彼を助け起こして彼に座席に戻るように頼んだが、私はまだトイレに居たので、彼は私に座席に戻るように固く求め、トイレ内は臭うだろうと言ったが、その時トイレは当然臭いが大変であったが、長く座っていたので感じなかった。
こういう事情で中国の軍隊はどのような人々で組成されているのか、このような人を連れて戦いに行き、精鋭(せいえい)の日本軍に対立し、戦いに勝つことは、実に容易ではないことがはっきりした。
03
ある時我々はドイツに駐在する武官を交替し、新武官は酆悌(ホウタイ)であった(いわゆる「((蒋介石麾下の))十三太保(補佐)の一人、武官の守備を失ってから、湖南省の知事張治中は長沙の焼き払いを命じ、彼は良くないことを明察していたが、加えて言わなかった。中央は芦苅して、焼き払い城壁を固め抗戦するために、完全な都市を日本に渡すことができず、都市を焼き払う時は中から外に焼くべきであったが、彼は逆に四つの城門から焼き始め、人々は撤退できずに、都市民たちは中で焼死したので、軍法を執行して死刑を判決し、銃殺を執行された。当時彼は長沙警備司令であり、階級は少将であった」。
彼は私が美しい762ピストルを持っているのを見て、それを私と交換したいと思っていました。彼は私に25のピストルをくれました。彼のピストルの遊底を開けることさえできませんでした。完全な錆び付いた。そんなピストルで、自ら装着し、私と交換しようと言うのだから、度胸(どきょう)がある。
軍人の銃は命に次ぐ大事な物なのに、どの銃も撃つさえもできないほど錆させていた。中国軍人には本当に失望した、しかし彼は私が誰なのかを知りながら、加えて私からうまい汁を吸おうとしたのだ。階級を利用して他人に高圧的な態度を取る事以外何が出来るのか、私は彼の知能を疑った。
そして最悪なのは、彼自身が身につけている銃が錆びていて使えない事だ。それを恥ずかしいと思わないのは大問題である。たとえ彼が私に礼儀正しくしたとしても、それは封建的な考え方に過ぎないのだろう。
確かに我々の国家制度には批判に値すべき部分が多い。役人の仕事能力が欠けていたり、仕事の取り組み方が悪いのは間違いない。しかしこれは中国国民党の過ちではなく、伝統的についた習慣なのだ。こういった習慣は民間や政府内に残存しており、誰であろうと僅かでも権威を持てば、それを頼みに大威張りし始めるのだ。
一度権威がこの話について弁論をしたが、私は本当にこのように論争する価値がないと考えており、重要なのは、我々は現実を承認し、是正(ぜせい)する努力が必要なのである。例えば極小な二等兵でも、橋のたもとに監視の取り調べに派遣された時、自身は権威があると考え、任務を執行する時に民間に対して大声でしかり付けた。
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