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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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1940年劉公島租借問題始末

旧イギリス威海衛総督官邸


環翆楼から見た威海衛と劉公島

1930年4月18日、中英双方は南京で『中英の威海衛取交わしの専約と協定』を取交わし、中国はイギリスが32年間租借した威海衛を回収した。ただし『協定』では、威海衛湾の劉公島に対して手配を付加(ふか)した:




威海湾のイギリス中国艦隊

「中華民国国民政府は威海衛の劉公島内の住宅数ヶ所及び利便の数項を添付文書に列挙したように英国政府に借り、イギリス海軍の避暑療養のために使用し、十年を期間とし、期間満了後両国政府の同意を経て、元の条件あるいはその他両国政府の同意した議定の条件を活用して借用を続行(ぞっこう)し、借用期間が終わった時、所有の土地家屋等一切を国民政府に返還する。この協定に基づいて、劉公島は無償でイギリス海軍の使用に、期限を十年として借用された。

イギリス海軍の中国艦隊は租借期間の前半数年は、冬は香港に進駐し、夏は威海で過ごしたので、毎夏到来し、イギリス海軍の中国艦隊の殆どの艦船は皆劉公島に停泊し、随同した水兵はほぼ一万人で、借用期間の数年で、威海に来た艦船の規模と水兵の人数は、威海衛を回収する以前より遥かに上回った。ただしの数年、特に1938年に日本軍が威海衛と劉公島を占領後は、イギリス艦隊で威海衛へ至る艦船は明らかに減少し、海上には群れなし隊を成す軍艦はなく、島に留まったのは少しの海軍の守備である。満期の1940年11月15日になると、イギリス軍は全て劉公島から撤退した。

提言に値するのは、1940年に、劉公島租借満期前にイギリスの駐在中国大使クラーク・カー(KERR)が二通の劉公島に関する外交の覚書を受け取ったが、この二通の覚書は、一通は蒋介石の国民政府から来て、別の一通は汪兆銘(号は精衛)の南京政府から来た。我々はまず南京政府が発行した外交文書を見てみたい。

汪兆銘政府の外交照会

1940年3月30日、汪兆銘は日本の支持で南京国民政府を成立した。その年9月28日、劉公島協定満期の前二日、南京政府は一通の外交文書を発布して、劉公島に関する英国権益の期限に延長の意思がないことを伝えた。この文書は正式の外交文書として、当該政権の外交部部長褚民宜の署名により、イギリスの駐中華大使カー(KERR)卿(きょう)に対したもので、全文は以下の通りである:


外交部文書 外国欧文第五十ニ号

(劉公島に関する英国権益期限に延長意図がないことの声明を為す)

大ブリテン帝国特命駐中国全権大使カー(KERR)卿への通牒:

冠省:本年三月、貴国政府と重慶政府は劉公島内のイギリス権益の期限をあらかじめ延長する事について、本政府は中華民国唯一の合法政府として、また事実上該当の島での権利を行使(こうし)する政府として、今まで全く関与がなかったので、実に同意し難い。ここに中華民国国民政府の名義を以て声明します:この期限について延長する意図はなく、元の協定の所載に基づいて、本年九月三十日の期限を満期として締め切り、貴国の劉公島内で享受する権益は当然解除されるので、よろしくお願いします。

貴国大使は承知並びに貴国政府へ承知を伝達されれば幸甚です

本部長は貴国大使に重ねて敬意を表し

此処に

大ブリテン帝国特命駐中国全権大使カー(KERR)卿へ

      兼外交部長 褚民誼

                       中華民国二十九年九月二十八日


汪政府外交公報中の劉公島に関する照会

この覚書、英国の劉公島での権益期限に延長する意図はなく、元の協定の掲載通り、本年九月三十日の期限を満期として締め切り、イギリスの劉公島で享受した権益の解除を、言明致します。


覚書には「今年三月に貴国政府と重慶政権が協議した劉公島のイギリスの権益の期限を延長したことは、本政府は中華民国唯一の合法政府であり、事実上この島で権利を行使(こうし)できる政府は今まで事実と同意できない」という言葉がある。



では、その年度三ヶ月間、蒋介石はイギリス政府と合意に達し、協議の内容は何ですか?台湾国史館のが機密解除した一連の書類は、私達に答えを提供してくれた。

蒋介石の外交覚書

台湾国史館の記録によると、1940年3月15日、中英双方は覚書を交換し、イギリスが劉公島を借りる期限について、蒋介石政府は1940年10月1日から元の条件の下で10年間延長することに同意した。

1940年3月28日、蒋介石が署名した文書「イギリスは劉公島を借りる期限を交換して報告記録を解決した理由」に署名した。劉公島借期延長の承認過程を完全に納めた:


英国は劉公島の借用期限の進展を求め文書交換で解決するため記録を留め

外交部本年三月十六日の欧29字第24067号によれば

「英国の劉公島借用期限の延長に関して貴院二十八年十二月二十三日呂字第16836号訓令では略開して: この案件は国防最高委員会第二十一回常務会議で議決が通過し、当然なされるべきで、立法院の令知を除いては、即ち通知の命を仰ぎ、此処に奉る。行令に併せ処理の通りにすべきである。などの原因で、ここに奉る。通知に遵いイギリス大使カーは、本月15日に本部で書類交換を解決し、当然往来の中英文のそれぞれ一通を照会し照録する必要があり、当該記録の閲覧を求めた。」

等の事情で、指令の許可記録、並びに国防最高委員会秘書庁に通達する転術記録を除き、当然原件等しい写しにすべきで、中国語と英文の通信する各一通の写しを申請した。

監察備案 謹呈

国民政府 

                          行政院院長蒋中正


蒋介石関与「英国は劉公島借用期限換文解決方案

文書によると、1939年年末には、英国政府は既に劉公島の借用期間の延長を開始していた。

1939年11月21日、蒋介石政府の外交部は行政院に一部の文書を提出したが、それは、イギリスは劉公島の借用期限の延長を請求したが、文書番号は外交部欧字第21375号で、署名者は時の外交部長王寵恵であった。

上申書からは、英国政府と蒋介石政府はこのことについて一度に止まらない接触と談判を進行していたことが、見て取れる。王寵恵は上申書で、1930年の協定で規定した劉公島に関する「満期後は両国政府の同意を経て、元の条件の適用かあるいは両国政府の同意を経て適用し、元の条件の適用あるいはその他両国政府の同意を経て議定した条件で継続借用をするものである。借用期間終了の時は、所有の地所上屋などは全て国民政府に返還する」とはいう規定で、英国政府は上述の継続借用の約款の規定を実行をする予定で、また元の条件で十年の延長も提議されていて、期限後再び元の条件を再適用するかあるいはその他両政府の同意した議定の条件での継続借用を期待した。

イギリスの要求に対して、外交部部長の王寵恵は受け入れをしなかった。王竉恵は、「民国十九年四月十八日の中国英国の威海衛受取契約付属協定を調査すると、民国十九年十月一日に発行し、明年九月三十日を満期とし、協定第一条の規定に基づき、英国方は満期後の更新の請求は、元よりできない。ただ元の条件を活用して協定の十年間の延長を要求できるほかは、また満期後元の条件を適用しあるいはその他両政府の同意を得た条件で継続を求めることができるが、満期後は、借用の継続は必至(ひっし)である。本部はこの項目の提案は受け入れていない。」と言った。この事から外交部が英国政府が初めに提出した、元の協定の照合した劉公島の10年間の継続借用の要求を受け入れなかったが、ただし、理由は借りることができないからではなく、この後また10年借りた後に、英国政府は合意を根拠に、また元の協定に基づいて租借を継続することを恐れたからである。「相互協議」で、イギリスは11月19日の書簡で、元の提言の改修が進められた。

「英国政府は、更新条項に関する同協定第一条の規定を適用し、更新条項に関する同協定第一条の規定を適用し、同協定を10年間延長することを提案し、その期間満了後も、いずれかの締約国がその終了を通知する権利に従って、同協定は効力を持ち続けるものとするが、本契約は、当該通知の日から1年後に効力を失うものとする。」外交部は研究を進行して、英国の今回提案した方案は、当初の提案に比較して妥当であると認め、「あらかじめ同意できるようである」とした。上申書が報告された。「貴院の二十八年十二月二十三日呂字第一六八六三号訓令でこの報を聞いて、国民政府は密字第一五八号訓令に換え展開し、この案は国防の最高委員会第二十一回常務会議で決議通過した。」

ここに至って、劉公島の借用期限の延長は蒋介石の国民政府によって通過している。1940年3月15日、中英双方は照会を交換し、この照会で「両国政府はこの協定を構成したと見做し」ている。

一年以内に、蒋介石政府と南京政府は劉公島の借用期間延長に対して英国に対し外交の紹介を発出したが、この時になって劉公島はどのような状態になったのであろうか。

日本軍に占領された劉公島

1937年の盧溝橋事件後、中国の軍隊は抵抗を奮起し、全面抗戦が勃発し、戦火はいつでも威海衛を燃焼する可能性があった。威海衛の占領と劉公島への上陸に対して、日本軍は威海衛の占領を期していたが、ただし劉公島への上陸に注意深い態度を持っていた。

資料は、1938年1月末に、日本海軍は艦艇を侵入させて威海湾へ停泊させ、中国方面の動向を監視・偵察させていたことを示している。

重慶政府は嘗て日本軍の秘密電報を獲得し(1938年1月24日東京から北平、上海、長春、青島、天津までの電報)、「威海衛の治安は、(盧溝橋)事件後比較的良好で、皇軍が膠済鉄道方面に進出し、人心はこれにより動揺し、十六日から、重要な官吏は、皆逃げ出し、無政府状態に陥った。停泊中のイギリス艦5艘は、陸戦隊を別に上陸し、元の教導隊の兵舎に駐在した。公安局などの場所は、英国人の混入のため、市内の治安も、イギリス人の管理の下に在り、一般民衆はイギリスが8年前の租借地の警備を回復できると信じていた。」


劉公島がイギリス海軍の避暑療養の使用(借用)にしたした3年目の、1933年7月に、南京政府は海軍を再編し、張学良が反旗を翻した東北海軍を改変して国民政府のために海軍第三艦隊に改編し、艦隊司令部を威海衛に設置した。艦隊の大部分の軍艦と航空隊、陸戦隊と学校等の全ての部署は青島に在り、威海に駐留する海軍教導総隊の下に二個の大隊を設置し、威海衛と劉公島に分け交替で守備した。史料の記載では、中国の海軍基地は1938年11月に閉鎖し、2月の初めには島には制服を着た中国海軍は既にいなかった。上記の日本軍情報も、1938年1月中旬より、威海衛の制服官員は、陸上及び劉公島の海軍の教導隊は既に徹底し、威海衛と劉公島は一種無政府状態であると、はっきり見ることができる。


旗頂山


1938年3月7日に、日本軍は威海衛の東埠頭から上陸し、北大営と威海衛行政総督官邸を占領し、威海衛は陥落した。劉公島にイギリス軍の駐留部隊と懸念して、3月22日に、日本軍は初めて30人の陸戦部隊の官兵を上陸させ、旗頂山信号所に日本国旗を立ち上げて、劉公島は陥落した。


イギリスのキリスト教会

1938年3月12日、威海衛イギリス領事館で乳母をしていたスターリング嬢は領事の子供を連れて、市街の領事館から船に乗り撤退し劉公島に行った。彼女は26日にその父母へ書いた手紙で、「劉公島は現在も日本人の手中に在り、これについてあなたは驚くかもしれない。私はいつ‘占領’されたのかはっきり覚えていないが、おそらく火曜日であった。」と書いた。要するに、一艘の潜水艦が海岸に向かい、日本人が国旗を掲げ、意気揚々と四方へ走り回ったのである。

日本軍は登記したイギリス区域とイギリスの財産には、侵入を試みなかったが、日本軍は武装上陸と日本国旗を掲げることでイギリスの特権を弱小化し劉公島と陸上の人員や物資の流動も制限を受けた。

日本軍の制圧の下で、島のイギリスの人員は続々と離島し香港に行き、少数の留守人員があるのみであった。1940年9月から、ロンドンはドイツ軍の連続爆撃が開始され、イギリスは暗黒時代に進入し、自国の事で精一杯となった。

威海衛と劉公島は共に日本軍と南京政府(汪兆銘)が支配していたので、英国の劉公島の継続借用の問題で、汪兆銘征服は英国に対して「劉公島内の英国権益の期限延長の意思無し」の通知を発出し、流れに乗りつつも、実際は明らかに親日的な態度を持ち、嘗てこのような決定を造出したことにさらに多くのリスクを担う必要はなく、国民の面前でその「愛国」の熱い思いを展開するのに、なぜ喜んでやらないことがあろうか。

重慶政府に対して言えば、劉公島の借用期間の延長は面目的な事情ではなく、このため、国民政府のこの事に関する文献では、右上に「不登広報(公報に載せず)」の四文字があり、1940年3月の国内新聞を調べても、関連するニュースはなく、1930年に威海が復帰した時、国内各紙や雑誌のニュースは盖天動地の騒動であった。かえって1940年に汪兆銘の政府が延長を拒絶した写真を発出してから、日本政府が支援する第一線の新聞・雑誌に、劉公島の回収と中英協定に対して、ニュースと論表記事が発表された。

1940年10月17日発行の週刊誌『更生』(親日政治性の刊行物で、1939年に上海で創刊)で、一名「不ニ=富士)」と言う記者が発表した論文『劉公島と中英の協定』の、文中で(前項の劉公島協定では、重慶政府は既に本年三月に、延長を許可している。元の条件あるいはその他の条件で適用されるかは、知ることはできない。しかし数千里(千数百キロメートル)離れた地方政権の重慶政府に、権利の及ばない領土に、英国に媚びる(こびる)贈り物をするのは、滑稽(こっけい)さを免れない。たとえ一万歩引いても、重慶政府が、劉公島に到達出来たとしても、やはり、どうあっても彼が権利を失い国辱(こくじょく)的やり方は許容されない。」

1940年11月10日発行の『新東方』雑誌(1940年上海で創刊、汪兆銘政府が務めた刊行物)で、一篇の「劉公島の回収』の言う文章が発表された。記事には次のように書かれています。「此処では、英国の帝国主義者が今日の極東の状況をはっきりと見て、中国人が国家の解放を求め、国家の独立と自治能力を持っているのを見るのは、1898年の中国ではなく、違法な手段で中国の土地を侵略するときではない。目覚めた中国が全ての権利と利益を取り戻す時が来た。」

汪氏が政府が発表した照会(メモ)や、汪氏が支援するメディアでは、重慶蒋介石政権を標的に批判し、蒋介石政府は反応せず、いかなる場合においても、土地を返還することは良いことだと見積もっており、これ以上の議論は必要ない。

1940年11月15日、イギリスはは「威海衛艦隊を撤退させ、香港に集中する」と発表した。これまでの所、英国の劉公島の租借は正式に終止符を打った。

添付:英国政府と蒋介石政府との間の劉公島租借期間の延長に関するメモ:


著者 威海 邵華媛