邵元冲:女神を口説く度に難題を出されて来た。13年間奮闘して、晴れて帰国将軍になり、再度アプローチしたら、やっと願いを叶えられた。
1924年、十数文字程度の手紙を読み終えて、当時孫文の秘書である邵元冲が、歓喜の声を上げた。
「やった!彼女がやっと結婚してくれる!!」彼はすぐさま駅に向かって飛び出した。愛おしい彼女に逢いに行った。
お
駅に向かう途中、彼はふと足元に目をやった。なんと、左足は革靴で、右足はスリッパだ。
自分の滑稽(こっけい)極まりない様子に、邵元冲は泣くも笑うも出来ず、頭を振るった。
孫文先生の秘書として、普段は冷静沈着だが、男女のことでは咄嗟に(とっさに)振る舞いができなかった。
邵元冲が、丸々12年も待って、ようやく慕ってた張黙君が結婚してくれた。
その手紙に、張黙君がこう書いた:
「私の心が鏡のように清らか、あなたと末長くいたい。」
民国早期のトップ才媛として、張黙君は子供の時から書籍を読み漁って(よみあさる)いたので詩歌や文章に長けていた。
それだけでなく、父親の影響で新鋭思想にも受けて、とても前衛だった。
1904年、張黙君は試験に合格し上海務本女子校に入学し、在学中に同盟会に加入して、また積極的に革命活動に参加した。
辛亥革命の時期には、張黙君は同窓生と共に、「上海女子北伐決死隊」を創設し、内外に衝撃を与えた。
この驚きの行動に、孫文先生は彼女を刮目(かつもく)の目で見て、彼女を志のある青年女子であると称した。
この時の張黙君は、溌剌(はつらつ)果敢な性格で、世俗を超越した気質は、邵元冲の関心を強く引きつけた。
惜しむらくは、落花情あれども、流水意なし(一方通行の情)であった。
自分より六歳若い青年に対して、張黙君は全く意に介していなかった。
この時、彼女は既に心に決めており、革命軍のリーダーで湖北の人蒋介作賓を好きになっていた。
ある時、彼女は口実を設け蒋作賓を自宅に招いて、家族が娘の意中の男性を見て、自分を手伝いに係る事を希望した。
しかし考えもしないことに、蒋作賓はついに自分の三番目の妹に一目惚れし、しかも大胆に告白し、張黙君の母親に三番目の妹に自分と結婚するように頼んだ。
意中の人は意外にも妹の夫となり、張黙君の傷心は止まず、誰と結婚しないと誓った。
この事を知って、邵元冲は再び張黙君へ攻勢を展開し、自分の愛慕の気持ちを伝えた。
邵元冲の無差別攻撃で、張黙君は相変わらず彼に対して興味がなかったが、直接拒絶するわけにもいかず、そこで三つの大変過酷な条件を提供した:
【海帰高知=海外留学で才を付ける、文武全才=文化財に万能となる、官位顕赫=官位を顕著に上げる】
この三つの条件を同時に満足させれば、彼女はやっと結婚を許し、そうでなければ妄想(もうそう)も不要であった。
元々、張黙君は邵元冲を引き下がらせたいだけであったが、邵元冲が本気になるとは思ってなかった。
右上は邵元冲
これ以来、邵元冲はゼンマイ仕掛けの動力車のように、身分のために鍍金(メッキ、ときん)を重ねた。
孫文の注意を引くために、有名な革命家宋教仁が殺害された一件の捜査には、自ら命令を受けた。
僅か1ヶ月で、彼は殺害犯を順調に逮捕して解決し、着実に孫文の目を輝かせた。
邵元冲の傑出した顕示で、また孫文も次第に彼に対して重責を任せるようになった。
孫文が広州軍政府の元帥となった時、邵元冲も地位の大変高い、重要機密部秘書に任命された。
1919年に、邵元冲はアメリカへ留学したが、張黙君と偶然に再会した。
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