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悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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孫立人将軍は、なぜ蒋介石の猜疑心で、33年も軟禁されたのか


蒋介石は人を使う道で、独特の基準を持っており、身近の親しい人に対し、たとえ無能であっても、重要な部署に抜擢し、例えばかつて抗戦や、民衆からの剥奪に消極的であり河南の人々から四害の一人とされた湯恩伯(他の三害は水害、旱魃の害、イナゴの害)が、後に寧滬杭(南京、上海、杭州)警備総司令の要職に就き、また80万人の「国軍の精鋭」を指揮して淮海戦役に参加した徐州の剿(=対共産党)総司令長官で、同僚からは「バカ豚」と呼ばれた劉峙らは、究極の縁故採用と言うべきである。


孫立人将軍

相反して、非直系出身の将官は、蒋介石の猜疑、警戒、疎外化を受けて、果ては迫害さえあった。そして本文で紹介する名将孫立人は、この典型的な例である。

清華大学の学長から将軍になったが、信用されず最後は冤罪で軟禁された

清華出身の孫立人(当時の中国男子バスケットチームに入選して主力後衛を担当していた)が、後学業を止め軍隊に入り、またアメリカの有名なバージニア大学(別名(ウエストポイント)」に考察入学した。帰国後、孫立人は四大家族の一つで、財政部系統の税警総団(名義上は税務警察に所属したが、人員の素質、装備上は一般的な国民党の中央軍を超過している)の指揮を負わされた。

第二次世界大戦が勃発すると、孫立人は淞滬会戦(第二次上海事変)、武漢会戦(武漢作戦)などでしばしば戦果をあげた。1942年、国民政府は遠征軍を組織して緬甸へ作戦に入り、前後して第38師団長と第一団軍長の孫立人は大いに神威を現して、何度も功を立て、アメリカや、イギリスなど連盟国の軍事界は「ジャングルの狐」「東洋のロンメル」と読んだ。

武漢会戦

戦功は顕著であったが、孫立人は国民党軍隊での「仕途(官職への道)」は決して平坦ではなく、解放戦争が勃発すると孫立人は東北と中国解放軍の作戦に派遣された。1947年、孫立人はまず東北保安副司令に任命され、後に陸軍副総司令に任じられ、新兵訓練の責任を負い、彼が調教した新一軍も「黄埔系」の潘裕昆の指揮に改められ、孫立人にしてみれば「明升暗降(祭り上げられたに過ぎない)」というべきであった。


孫立人は1949年、国民党が台湾を敗北させた後、陸軍総司令官に就任したが、僅か数年後の1955年、いわゆる反乱を容認し、陰謀を企てたというとんでもない罪で33年間拘束軟禁した。それが何の理由で孫立人をこのようにしてしまったのだろうか。

保定陸軍士官学校

孫立人は直系将軍がなく、蒋介石の狭い垣根(かきね)に入ることもできず、真の信頼を得ることもできなかった


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国民党内の派閥が林立して久しいが、例え蒋介石の中央軍直系将軍たちも保定陸軍学校を卒業して保定系(例え顧祝同、劉峙、周至柔など)に分けれ、日本士官学校を卒業して陸士系(例えに何应欽、湯恩伯など、蒋介石も日本士官学校を卒業)分けれ、その数が最も多く、中流と言える柱の黄埔系(例え胡宗南、杜聿明、張靈甫、戴笠など)と分かれ、これらの派系は協力と闘争の両方を持っており、圏意識が強く、排外思想が強い。

これに比べて、米陸軍士官学校を卒業した孫立人は共通語もなく、圏域にも溶け込めない国民党軍内部のアウトサイダー疎外された。このような身分は、他人にとって最も親しい蒋介石にとって、根本的には真の信頼と重要を与えません。

孫立人は中央軍とは全く無縁であるばかりか、粤系、桂系など地方軍閥も、馴染みがなく、このため、彼も地方派閥に頼る方法もなく、非正規の軍将たち(地方軍閥)が「相互協力」できるわけがなかった。

宋子文

孫立人の「旧指導者」宋子文も蒋介石と背反が少なく、これも蒋介石の態度に影響した

孫立人の伯楽で、旧指導者の宋子文は、蒋介石の義兄で、また蒋宋孔陳「四大家族」の一人であったが、出身の経歴、政治観点、三観「(世界観、価値観、人生観)による人となりが」蒋介石と全く異なり、また二人は利益上でも衝突し、二人の衝突も絶え間なく、ややもすれば逆上して、蒋介石は何度もこの親戚に手をあげた(1949年に宋子文は蒋介石と分かれてアメリカに行く時に、蒋介石に対して「あなたが私を打った回数は、私も覚えている」とまで言っている。)。

宋子文本人も野心満々で、「金づる」を掌握するだけに甘んぜず、税警総隊を組織し、孫立人を発掘抜擢し、軍界の指揮に手を染める野心も暴露した。これに対しては蒋介石もよく理解していて、それで、宋子文が一手に養育した孫立人に対して、蒋介石も自然と大変防備して、信任できなかった。

孫立人の「アメリカを背景」とする素養は蒋介石に忌避と警戒を抱かせた

蒋介石のアメリカに対する感情は相当複雑で、一面では、藁屋の駆け出しの頃から台湾へ敗退するまで、背後にはアメリカ人の一手の支持があった。しかし一方では、蒋介石はアメリカの庇護を充分受けると同時に、その部下にアメリカという「黒幕」に手を出させず、「ダブルスタンダード(二重規範)を意識したというべきである。

その寵臣戴笠が典型的な例で、「戴御大」の職業生活の後半では、蒋介石の対応も信頼から権利の消失を警戒するように変化した(戴笠の最後の航空事故での死は今なお謎のままである)。戴笠の勢力が蒋介石の脅威になっていたことを除いて、重要な要因は戴笠が抗戦時期にアメリカと密接し、アメリカ人の支持で海軍総司令に就こうとさえ考えていたことである。これは当然蒋介石容認できないことであった。

そしてアメリカの陸軍学校を卒業し、また極めてアメリカ人に称賛される孫立人には、蒋介石が大変忌憚していた。台湾へ敗退したとは言え、彼はアメリカ人の建議で意思に反して陸軍総司令に命じるしかなかったが孫立人は当時の戴笠同様になることを恐れていて、「外国人を挟み込んで自重」する局面が出現した。これで、数年後囚人となった。蒋介石はアメリカ人の言いなりになりたくなかったというより、蒋介石は自分がアメリカという「大保護の傘」を共有したくなく、ただ自分の地位に脅威が生じることを恐れたのである。

蒋介石は金門に海軍の兵士との撮影

孫立人の傲慢不遜の性格も蒋氏らの心に不興を与えた

迎合するより、他人の言いなりの黄埔系の将官には、孫立人将軍は単刀直入で、傲慢不遜で、あけっぴろな性格で、蒋氏親子に対してご機嫌を取らなかった。例えば蒋氏が台湾で敗退してから、ずっと日本にコンプレックスの在った彼は島国(台湾)へ旧日本軍の軍官を顧問に招請して軍隊の訓練をした。孫立人はこれを相当見下し、憚ることなく、「蒋氏の搞白(=むだな)軍団(日本の顧問団の符丁)は、中国人の民族感情と自尊を大いに傷つけたが、例え反抗しようにも、彼らがわれらの軍官の訓練に来なくさせることもできなかった。」と罵った。そして蒋経国はある会食で駄洒落を喋ると、将官達は皆符合して大笑していいたが、ただ孫立人は厳粛に座って、少しもメンツを立てなかったが、この後継者に対する態度と見ることができる。

また参謀総長の周至柔に対して、孫立人はその公権乱用の生活方式を見下し、その敬礼を回避するため、いつも軍事会議参加に遅刻した。以上で、孫立人の人格は相当独立的で、無論蒋氏親子もやはり軍部の先輩も盲従することはなかったので、これも蒋氏らの人々は極めて不満であった。

孫立人将軍家族集合撮影
軟禁後の孫立人の生活は極めて零落し、需要に迫られ自分で花卉や果物を栽培し、家族に露天を出させ生計を維持(その植えていたバラは台湾民衆に「将軍バラ」と呼ばれ、大変売れ筋であった)し、かつての名将の花である。国民党陸軍二級上将の零落はこのようで、人々を啜り泣かせた。孫立人のほかに、地方派閥の白崇禧、薛岳等のかつて風雲を突いた名将は、台湾に渡ってから例外なく蒋氏の粛清に遇った(薛岳は嘗て家財を没収され、白崇禧の末期には疑問が残っている)。

蒋氏は人を使う方面でグループ化を好み、セクトを信用し、身辺の人間を抜擢したが、真材実学のある腹心の首領以外は、ずっと警戒し、迫害さえした。この点で、薛岳は「才能よりも奴隷を使う方が良い」などの「金句」を使って、蒋介石の雇用についてコメントしました。これが蒋介石の最終的な失敗の重要な要因になりました。