威海衛の戦いの三つの異聞
1895年2月、日清戦争の終結後、日本軍の一個旅団が賠償費用を請求する為に威海衛を占拠した。
司令部は北竹島村の南、部隊は劉公島、寨子、北竹島、南竹島、城子、海埠などの場所に駐屯した。
1895年5月23日に撤退した。
威海衛の戦いでは、三つの泣くも笑うもできない珍事が発生した。
一目: 栄成には駐屯軍がなかった事
栄成には膠東半島の最東端に位置し、海岸防衛の重鎮であり、このような重要な軍事基地なのに、清国兵士は一人として駐在しなかった。
派遣する兵がいなかったのであろうか。
そうではない。
史料では、当時清国軍は、煙台以東に43キャンプが駐留し、人数は21,000人に達している。
栄成は如何ともし難く、栄成県知事が紳士に命令して栄成の海防総団を組織するしかなかった。悲しくも笑うべきなのは、この民団の性質性質の部隊には何の銃も弾薬もなく、普段の訓練も欠乏し、実践経験も問題にもならなかった。普段の訓練では、兵士は太鼓に合わせて数回なぞるだけで、まるで舞台の表演であった。
二目:戚家軍の大砲の鎮海侯が日本艦隊を「撃退」した事
日本軍は威海衛への進攻を大変重視し、清の守備軍を分散するため、一路を主力攻撃を特に決め、栄成から上陸し、威海衛を攻撃した。また一路を陽動作戦とし、登州(蓬莱城)、蓬莱水城を目標として攻撃した。
登州の守備隊は倉庫から300年前に戚家軍が使用した「鎮海侯」という名の骨董の鉄砲(銅砲の説がある)を引っ張り出して来た。
陽動してきた日本聯合艦隊は清軍が根本的に守備を組織する力量がないことを見て、陽動は全く無意義と成り、艦隊を返して撤退した。mこれを見た守備軍は、戚家軍の神武器が霊威を現し、日本軍を驚かし逃亡させたのだと思った。
三目: 一通の電報である
栄成を主力攻撃する日本軍には、当然何の抵抗にも遭遇せず、遠くを真っ直ぐ栄成電報局に到着したが、電報局の従業員は既に風聞して逃亡し、ちょうどこの時威海衛の清軍が発行した電報が届き、日本軍の上陸状況を聞いて来た。
日本軍はすぐさま返電して、「一人の日本人もいない」とうそを報告した。そしてすぐさま煙台と威海衛間の通信電線を切断した。
威海衛方面では枕を高くして楽観していた。
強大に見えていた威海衛と劉公島は日本軍の迅速な口撃に敗れ、北洋海軍は消滅した。
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