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朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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孙多慈:師匠の徐悲鴻との12年の悲恋は、世論により別れさせられ、長らく往来できなかったが、晩年は夫の家で三年の喪に服した。


1931年、中央大学のアトリエで、舒新城と徐悲鴻は膝を交えて語り合い、「徐悲鴻の兄貴よ、私は愛してはいけない人を愛してしまったが、こういうこともあるのですね。」と口を開いた。

徐悲鴻は聴き終えると、静かに「私も愛していけない人を愛してしまったが、私も君より悩んでいるよ。少なくとも君は未婚であるが、私はもう妻も子供もいるので、更にどうして良いかわからない⋯⋯」と答えた。

話し終えると、二人は、それぞれ思い込んで、黙ってしまった。

徐悲鴻が愛してはいけない人と言ったのは、彼の学生の孙多慈であった。

彼女は結局、画家の巨匠徐悲鴻をこのように落胆させることをしたのであろうか。


孙多慈は、旧名を孫韵君、安徽の学者の家に生まれ、幼少より聡明利発であった。

彼女は生まれてから、父親は彼女を目に入れても痛くないほど可愛がり、いつも人に「息子より更に娘が可愛い」と言っていた。

高校卒業目前に孙多慈は父親に、美術を学んで、将来は中国のトップの女流画家になりたいと訴えた。

しかし今度は、彼女を愛して止まない父親は普段とは打って変わって、彼女に文学への道を進むことを要求してきた。

孙多慈はいつも父親の話を聞いていたので、最終的に南京中央大学文学部への考査入学を決定した。

考えもしなかったが、ある意外な事件が彼女が落第させた。

1930年の秋、孙の父親は不注意で党派闘争に巻き込まれ、密かに拘束された。

孙多慈は父親が心配で、ずっとびくびくと不安になり、学業成績が急降下し、最終的には中央大学の文学部の入試に落ちた。


半月後、孙多慈は一人で中央大学に来て、父親の盟友の宗白華教授にあった。

彼女は宗白華に「宗先生、私は中央大学の芸術部で傍聴(ぼうちょう)して、来年また中央大学芸術部の試験を受けたいのですが、協力していただけませんか。」と言った。

宗白華は孫多慈の情況を知って、彼女を連れて芸術専門の教授徐悲鴻に合わせた。

宗白華は徐悲鴻に孫多慈を紹介し、彼に孫多慈を聴講生として受け入れるように求めた。

徐悲鴻は聞くと、冗談めかして「文学部で不採用となったきいているが、それで私を見つけて傍聴したいのかね。私の担当する芸術学部は他の学部の残飯であるかね。」と言った。

孫多慈はこれが冗談も知らずに、顔を急に真っ赤にして、頭を下げて敢えて彼らを見ることが出来なくなった。

とはいえ、孫多慈はやはり徐悲鴻の門下に入れられ、芸術専攻科の傍聴生となった。

この時二人はまだ知らなかったが、この運命的な出会いが、その後の悲惨な一生の始まりであった。


中央大学の芸術学部は毎年多くの聴講生が居たので、開講当初は、孫多慈も徐悲鴻の目には止まらなかった。

それは校外講義まで続いた。

その日、徐悲鴻は西洋画教室の学生を引き連れ、棲霞郷村師範学校へ参観と、講演に出かけたが、その中に孫多慈もいた。

郊外の道路は歩きづらく、ハイヒールを履いていた孫多慈は後に遅れてしまった。

徐悲鴻はこの事に気づいて、立ち止まり、彼女が追いつくのを待って、「あなたは社会経験がないようだが、遠距離を歩く時はフラットヒールのパンプスを履くべきだ。どうだ、脚は痛くないかね。」と言った。孫多慈は聞いて後、顔が赤くなり、目を向けて笑いと「大丈夫です」と言った。

少し考えて、「徐先生ありがとうございます。」と付け加えた。

孫多慈の澄んだ目は、徐悲鴻の琴線に弾いた。

この出会いから後は、教壇上に立つ徐悲鴻は多くの学生の中から、最初に孫多慈を見分けることができるようになった。

当時、孙多慈の絵画の基礎はクラスで最悪でしたが、2ヶ月後、彼女は中流と上流にランクされました。

徐悲鴻は、孙多慈を再検討する必要があることを発見しました。


絵画のレッスンで、徐悲鴻は孫多慈の絵をアートボードから取り出しました。

教室で皆に絵を見せた後、彼女のアートボードに絵をもう一度挟み直し、彼女に言った:

「私はあなたの絵を賞賛していない、あなたは進歩していると言うことができます。」

徐悲鴻はどの学生を褒め称えたことはありませんでした。そして、しばらくの間、クラス全員の目は孙多慈に集まりました。

その後、徐悲鴻は孙多慈にますます関心を寄せています。

毎日教室に入ると、彼は最初に彼女を探し、彼女が遅く来るか来なかった場合、彼は常に動揺していらいらしました。

この時、徐悲鴻はこの女性学生に異質な感情を抱いているのに気づきました。しかし、孫多慈の目には、徐悲鴻であり、見て、遠くに立って、頭を下げ、丁重に「先生」と呼ぶでしょう。

孫多慈に近づくために、徐悲鴻は彼女にモデルになるよう頼んだ。

孫多慈は耳を傾けた後、驚きの顔で、最終的に、徐悲鴻の説得で、孙多慈は彼の排他的なモデルとして受け入れた。

それ以来、孫多慈は徐悲鴻のアトリエを頻繁に訪れるようになり、徐悲鴻は良く彼女に絵を教えています。

孫多慈は彼に兄弟のような温もり(ぬくもり)を感じ、2人の関係は日に日に親密になっていった。

孫多慈は徐悲鴻の愛と教養に感謝し、日記に「徐悲鴻はとても親切な長老です。彼は知識が豊富で、教養があり、礼儀正しく、優しい心を持っています。」と書いています。


その時、孫多慈は徐悲鴻と教師と生徒の関係を持っているだけで、愛の痕跡はありません。

徐悲鴻は孫多慈への愛をペンに注ぎ、一幅「台城月夜」は彼の感情的な行き先を表現しています。

しかし、孫多慈は自分の気持ちに応えようとはせず、幼い頃から受けてきた教育がそれを許さなかった。

物事の発展の方向性は、しばしば人々の手に負えないというだけです。

ある日、徐悲鴻の親友である欧陽竟無と盛成は、徐悲鴻の妻である蒋碧薇と出会い、一行は徐悲鴻のアトリエを訪れました。

しばらく此処へ来なかった蒋碧薇がアトリエの扉を押し開くと、アトリエには、画板に青い布を掛けた、イーゼルがあるだけであった。

蒋碧薇は何かおかしいと察知して、すぐさま前に出て、力いっぱい青い布を引き下げると「台城月夜」が衆前に現れた。

彼女の顔色はすぐに蒼白になり、殆ど自分の身体に耐えられません。

初め、蒋碧薇が宜興で闘病していた時、徐悲鴻は彼女に手紙で、もし戻って来ないならば、自分は別の恋に情が移るだろうと書いてきた。

蒋碧薇は南京へ戻り、徐悲鴻を問い詰めたが、彼はきっぱりと否認した。

そして眼前のこの画中のしなやかな少女の、この旭日のように湧き出でる愛は、いったいどうであろうか。

この細心の筆のタッチは、蒋碧薇は徐悲鴻が自分のために描いた絵の中でしか見たことがない。


間もなく、新聞上に孫多慈と徐悲鴻の間のコラム記事が掲載されると、学園内にも根も葉もない噂が広がった。

彼女と徐悲鴻の事は、安慶の実家にも伝わり、孫の父親は全く信じてはいなかったが、大変心配し、故意に話の鎌をかけてきた。

徐悲鴻との間の感情に対して、孫多慈は、きっぱりと否認し、徐悲鴻とは師弟関係でしかないと声明している。

1934年10月になって、一枚の写真によってこの不倫の恋を暴露された。

その頃徐悲鴻は校外での講義を終え、学生と天目山へ写生に行くことを企画した。

翌日早朝に、彼は孫多慈に彼女一人を連れて獅子岩へ来た。

20か月余り会わなかった徐悲鴻はつい思わず孫多慈を抱きしめキスをしてしまった。

この一幕をちょうど学生が撮影して、写真がされてしまった。

元々孫多慈に嫉妬の止まらない学生は、彼女を恨んで、噂は更に増した。


後に孫多慈は徐悲鴻の親友舒新城に「もともと私と先生とは、単純な師弟関係なの。先生は才能を愛し、私に対しても細かく面倒を見てくれ、却ってこれで多くの疑いをもたらしたのです。元々私はこういう気持ちが無く、皆さんが色々話題にするうちに、私も黙認したのです。」と言った。

師弟の気持ちから師弟の恋愛に向かった背景には、深い感情の基礎があったわけではなく、水を走る舟のようなものであった。

天目山での恋の後、徐悲鴻は孫多慈との将来を考え初めた。

彼は孫多慈に「君は間もなく卒業するが、私は君に海外留学を考えている。卒業後、君は出国し、私も後から行くよ。」と言った。しかし、この事は蒋碧薇の耳にも聞こえてきた。

蒋碧薇はすぐに校内に駆け付け、孫多慈を恐喝し剰え彼女の絵を破り捨てた。

その後、彼女は秘かに孫多慈の留学計画を妨害する人を探し、一方で孫の父親に彼女の娘と称す第三者が手紙を書いた。


孫の父親はすぐさま南京に来て、情況を理解し、孫多慈にこの感情を諦めるように求めた。

父親の要求に対して、一言も反論しなかったのは、彼女は自分の父親を愛しており、彼の要求を拒めなかったからである。

海外渡航の計画が流れてから、孫多慈は安徽の生家に帰って仕事を探し、徐悲鴻との文通の日々を開始した。

やがて、孫多慈は南京に来て徐悲鴻と面会し、徐悲鴻に「私は本来先生には何の意識もなかったが、先生が私を大変愛してくれたので、これに答えるのが礼儀というものです。このような苦しい結果を知っていたならば、私は絶対に中に踏み入なかったでしょうし、今結婚も茫々として期日も決まらず、いったいいつになったら終わるのでしょう。」と言った。

帰る前に、徐悲鴻は彼女を埠頭に送って行った。乗船の時、孫多慈は徐悲鴻に、十年を限りに、独自に外で仕事をしたいと伝えた。

もし縁があれば、10年後には、例えそれぞれが離れていても、昔の感情を再続できるであろう。

一年後、日本軍が侵攻し、戦後の安徽は焼けたため、孫多慈は家人に随い長沙に避難した。

逃走の日々は、生活もよりどころもなく、定住できる場所もなく、孫多慈は内心惨めな思いであった。


この時、彼女ははるか桂林の徐悲鴻を思い出した。彼女は一家を連れて頼って行った。

孫多慈一家の到来に面して、徐悲鴻は大変気に掛け、四方八方を奔走し、彼女らに替わり部屋を探し、仕事を探した。

しかし徐悲鴻は一介の教授に過ぎず、できることには限りがあり、孫多慈に見つけた仕事だけでは、その一家を養うことはできなかった。

このため、孫の父親は内心満足せず、徐悲鴻にも不満を抱くようになった。

本当に抱きたい美女が嫁ぐことができるように、1938年7月に、徐悲鴻は妻の蒋碧薇との同居関係を解消すると新聞に公告した。

そして、彼は親友の沈宜甲に媒酌(ばいしゃく)し、孫家への縁談の申し入れを求めた。

しかし、一行の人の意向を聞くと、孫の父親はきっぱりと拒絶した。

彼は娘が徐悲鴻に嫁入りすることに断固反対し、孫多慈の母親も日々泣き暮らした。

家族の反対に面して、孫多慈は反抗する勇気もなく、彼女は命に服した。


多くの現実と要素の影響を受け、孫多慈は徐悲鴻との別離に追い込まれた。家族を連れて浙江麗水の親友に身を寄せた。

また此処で、孫多慈は意外なことに別の縁が始まった。

孫多慈が麗水に来てから、友人李家応では彼女の恋愛が困難であることに耐えられず、郁達夫の妻の王映霞に相手を探すように託した。

そしてこの対象者は、当時の浙江の教育庁長許紹棣であった。

当時許紹棣は相手を亡くし、二人の女児を抱えていた。

理屈で言えば、自分の家の未婚の生娘を継母とすることは一戸の頗る(すこぶる)名家の最良の選択と言えなかった。

しかしこの結婚は、孫の父親を大変喜ばせ、孫多慈にこの当時高官へ嫁ぐことを極力進めた。

1941年春の末、孫多慈は父親の命に従い、許紹棣と結婚した。

新婚の時、孫多慈と許紹棣はやはり互いに敬意を払ったが、顔には新婚の喜びは微塵もなかった。

従妹の陸漢民は好奇心で孫多慈に「従姉さん、あなたは本当に許紹棣の嫁に行くのですか。本当の事を教えて下さい。あなたは心中ではまだ徐先生を諦めていないのではありませんか。」と訊ねた。

孫多慈はため息をついて「時も過ぎ、諦める、諦めないはもう言われなきことです。人生は、いつも少しずつ間違っています。」と答えた。

陸漢民は聞いてから「叔父さんの横やりを責めるべきで、もし彼がいなかったら、あなたたちも一緒に入れかもしれない。」と言った。

孫多慈は「私は父親を責めないが、戦争を責めるだけです。」と言った。


1949年、孫多慈は許紹棣と台湾に移住したが、この生で徐悲鴻とは会うことはなかった。

以前彼女は徐悲鴻に描くことを捨てないと答えたが、台湾へ来てからも彼女は画筆を放さず、芸術界でも同様に一天地を切り開いた。

1953年、孫多慈はアメリカの芸術会議に出席したが、会議の途中で、主催者は中国の絵画の巨匠徐悲鴻が亡くなったことを公表した。

この知らせに驚き、孫多慈は涙を満面に流し、しばらく悲痛極まりなかった。

彼女は震える両手で、旧友の王小陵の電話にダイヤルし、徐悲鴻の訃報(ふほう)を確認した。電話を切った後に、孫多慈はぼんやり部屋に座り込んで、言葉を失った。

彼女は自分がどれくらい座り込んでいたのかわからなかったが、ただ夜が明け、また暗くなり、また明るくなったのが分かっただけであった。

彼女は無理して身を起こして、書択の前に来て、画仙紙を広げて、『春去』と題した中国画を描き、「老春は暮れて寒く、山霧は四起し、繊弱な女子は身単(ひと)つ影孤独m(ひと)つ,独り渓辺に坐して落紅の水に随いて流れ逝くを看る。」


孫多慈は、徐悲鴻のために三年の喪に服し、自分の彼に対する10年間の感情の追憶を、示すことに決めた。

この後18年間で、孫多慈は徐悲鴻の事を口にせず、全精力を絵画に注ぎ込んだ。



1970年、孫多慈は乳腺癌に患っていることが検査で見つかり、三度アメリカに行き治療したが、結局医療も甲斐なく、5年後にアメリカで病死した。

臨終前に、孫多慈は昏迷の中で覚醒し、彼女は旧友の呉賢雄に、今日は何日かと訊ねた。

呉賢雄は、今日は2月13日、明日はバレンタインデーだと答えた。

孫多慈は目をしばらく閉じて、旧友の掌に「慈悲為懐(慈・悲を懐かしむ)」と4文字をなぞった。

慈と悲は、正に二人の名字であった。

世間の人は常々、愛情と悲劇の核心は行き違いであることは、遺憾であると考えているが、徐悲鴻と孫多慈のように、鏡花水月のような幻影の感情は、結局平穏ではなかったのである。


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