山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ロックハートの『山東紀行』青島

汽車が濰県駅から三駅目まで来た時、鉄道会社の運輸責任者ハインリッヒ(Mr.Heinrich )が我々を接待した。彼は自分が膠州から連れて来た私用の馬車を我々が使っても良いことを話した。

高密では、そこに駐在していたドイツ軍の指揮官が我々を訪ねて来て、彼の手下にはドイツの正規軍の最初の歩騎兵150名がいることを告げた。高密は中国領土であるのでドイツ文が此処に駐在することは少々珍しいことであった。

膠州では、ドイツの指揮官と知事が我々を訪ねて来た、知事の英語は大変滑らかであった。膠州城と威海衛城は共に中国の管轄下であるが、城外の区域はドイツが租借していた。


青島桟橋と小青島

威海衛のエドワード港によく似ているドイツ総督府のある青島に到着すると、参謀長のフンケ大佐(Captain Funke)と砲兵中尉シューマン(

Lieutenant Schumann)が我々を迎えてくれた。膠州に滞在していた時に、シューマン中尉が副官として我々のために呼び出され、総督のクルマで我々をホテルへ送ってくれている。


旧青島ドイツ総督府前のホテル

5月25の月曜の夜から5月30日の土曜まで、我々はずっと膠州に滞在して、総督の熱烈な歓待を受けた。彼は職権の範囲内で最大努力をして我々を楽しませてくれた。我々は昼食と晩餐をご馳走になり、晩餐の席上高官達にあった。大法官や文部行政長官、鉄道会社の総支配人ヒルデブラント氏(Mr.Hildebrand)も我々を宴会に招いてくれた。シュウーマン中尉は我々を率いて主要な社会機構を参観させ、我々が郷内を視察するために馬匹を提供してくれた。

ロックハートは青島にいった時、トゥルペル総督家族との集合撮影

4月30日『華北毎日新聞』に見かけた青島に関する報道を添付する。第2,758号概況と領事の年度報告の『膠州1902年度収支予算表』も添付する、膠州の人口は約80,000人と推定されている。租借地を管理するために、政府部門は100人余りのドイツ人を雇用し、「作業員の給料」だけで27,000ポンドを要したと聞いている。1902年の予算表規定では、政府部門の項目に13,171ポンドを材料に使われ、89,781ポンドが政府と軍の共同管理費に使われた。このため行政官の支出は邪悪のようで、人件費は26,806ポンド、材料費13,171ポンド、軍民連合管理費の半分44,890ポンド、合計84,867ポンドである。総支出の見積もりは626,400ポンドである。

威海衛1903ー1904年支出年国家予算16,000ポンドで、補助は9,000ポンドであった。特別要点は、威海衛の人口が120,000人で、膠州より40,000人多い。

膠州の巡捕隊は140人で、その中40名はドイツ人で、100名が中国人であり、主管1名はドイツ人であった。この中国人は以前はドイツが募集した兵団であったが、現在は解散している。40名のドイツ人は軍隊から来ている。此処には五つの租界警察署と一つの小さな探偵団があった。威海衛には三つのヨーロッパの租界警察があり、およそ12名の中国人が警官になっている。

膠州には、捕らえられたヨーロッパ人を収監する堅実強固な大監獄と、他に中国人を収監している一ヶ所がある。我々は中国人の監獄を見物したが、中には100人余りの犯罪者が押し込められていた。監獄の人間は此処では犯罪が普遍的だと言っていた。威海衛監獄では一度に収監する犯罪者は20人に満ちず、しかもそこでは重大犯罪の発生は大変少ない。

膠州では、裁判長一人と地方裁判官三人がいて、みな仕事が大変忙しい。威海衛には地方裁判官が一人居るだけで、政府の秘書官の仕事を兼任している(くらい手が空いている)。

総督には参謀長、三人の副官と多くの部長が仕事場を補佐していた。実際膠州の行政機構は香港と同様に完全で、ドイツの国民はドイツの役人が自身の価値のために如何に満足な仕事を見つけてくるのか不思議であった。

何人かのドイツ人居留民は多くの職人が暇を持て余しており、三年の任期の時間を埋めるのは困難であると素直に語った。郵便局の管理権は不可解で、租界総督が管理するのではなく、ドイツ本部長の指令を執行していた。この制度は明らかに膠州では一致した不満を引き起こし、多くの人がこの事に恨みを懐いていた。

慣例の公務員制度を確立しようとする人はいなかった。現任の官員はドイツが任期3年で委任しており、彼らはこれまで海外に出かけたことがなかった。のである。私が逢ったのは中国語に精通した官員で、彼は宣教師から転身した地方裁判官であった。現任の総督は海軍士官であり、その参謀長は海軍の大佐である。此処の管理はドイツのその他の植民地のような植民部の管理ではなく海軍部が管理していた。


青島景色

私が済南と山東のその他の地方を旅行をした時、中国の官員が膠州の中国人が虐めを受けていると訴えたが、当地の中国人居留民も同様であった。彼らは総督が彼らによくすると言っても、その部下は望むことは異なっていることに不平があった。膠州を訪問し、またその他の多くの地方に行ったことのあるアメリカ人が手紙に、「ドイツ人は現地の住民を虐待し、彼らに文明的な管理を偽装していることに同意できない。」と書いて来ている。

当地の巡査は大変腐敗していて法律を悪用していると言われている。中国の各階層の人士達は夜間の出向には必ず提灯(ちょうちん)の携帯が定められていたが、これは香港支配の初期の流行した制度で、随分前に廃れてしまった。この制度は元々人民が不敬を侵さないように保護するためであったが、実際には悪人に(襲撃などの)勝手の良さを提供してしまったのである。

青島には中国語の週刊誌があり、毎号発行前に当局に必ず版下(はんした)を提出し審査の上承認を得てようやく発行できた。

これはヨーロッパ人のために建てられた、280床位の大病院がある。我々が参観した時、病院内には120人の病人があり、その内65人は性病であった。また中国人を専門に診察する病院があり、これは中国で有名な宣教師のフェイバー博士(Dr.Faber)が出資したものである。

ヨーロッパから募集した男子のための政府の学校が建設され、ヨーロッパの女子はフランシスコの修女のカトリック修道院で教育を受けた。また中国の学生を募集するカトリックとプロテスタントの宣教師が管理する学校もあった。

此処の植林は大変よく行われていて、多くの山で植林されたり植林中であり、聞くところでは毎年5,000ポンドを費やしていると言う。


青島景色

青島の市街は、街路が広く、一棟一棟の建物が大変美しく、設計が大変行き届いている。中国人の居住区域は、市街区域内とは区分されている。

此処ではあらゆる天気に対応できる吃水の深い船舶に、停泊地を提供する港を大規模なに建設していた。完成後の港は800エーカーを占有することになる。工程の総費用は1,600,000ポンドであり、1906年の完成予定である。石炭用の埠頭は本年末までに建設され使用される。

膠州の交易については諸説紛々としている。瑞記洋行(Arnhold & Karberg & Co.)の支配人は、会社に利益がなく、将来的にも楽観視できないと私に言った。また別のドイツ人は、現在の膠州の輸入貿易は政府との契約形式で、契約が終了すれば、貿易もこれに準じて停止してしまう。また香港に長く滞在するドイツ人商人はどうして本部を膠州に移転しなかったのだと質問された時、「此処は商売に向いてないと思う。私がそこに土地を買ったのは、条件が政府はいつでも私が当時土地を買った価格でこの土地を回収するというものだったからだ。」と回答している。

しかし、膠州税関の税務司オールマー氏(

Mr.Ohlmer)は熱心に私のために2通の報告書(後に添付)を提供し、この港の繁栄の様子と規模に満ちた展開を熱弁している。

私も上海滙豐銀行の副総裁アディス氏(Mr.Addis)の所から得た一通の報告も同封する。この報告書は膠州の交易の将来に肯定的であるが、此処にはドイツの企業以外にはヨーロッパの企業はなく、またドイツの銀行があるだけである。

報告書からは、現在の貿易の中心は輸入であるが、推測では輸出が増加するとしている。芝罘で商売をしているイギリス商人は私に、本省で生産する野蚕糸(タッサシルク)は以前のように芝罘の間の水陸交通を改善しなければ、この港は現存のほとんどの交易を失う可能性があるのので、膠州湾は山東の交易を鉄道の吸引(きゅういん)に依存する事になる。

鉄道は既に山東中部の青州府に延伸され、まもなく済南にも至るでしょう。その時、ドイツはこの地域の貿易を開発し、この地域は一貫して芝罘から輸入して需要を満たし、同時に商品を芝罘に輸出することになります。しかし、もし芝罘が小清河入口の羊角溝より頻繁で安定した船舶貿易を確立すれば、芝罘は内陸水域と汽船を利用して大部分の港の貿易を占有できるはずで、前述のように小清河水道の改良は山東巡撫の注意を引き起こしています。

威海衛の貿易の展望については、この地域が本省内陸部との鉄道交通の連結が不足していることを考慮する必要があります。一方が膠州で、もう一方が芝罘であり、中国人をこちらにビジネスをしに引き寄せることは容易ではありません。しかし、威海衛は天然の利点を持ち、優れた港を有した関税を徴収しません。一部の商品にとっては、威海衛への輸送が芝罘への輸送よりも便利です。そこにはイギリスの旗が掲げられており、中国人はそこで公平な扱いを受けることを知っています。従って、威海衛は現在は明らかに幾つかの劣勢が存在しているにも関わらず、貿易が行われるでしょう。威海衛と山東内陸部を結ぶ鉄道ができれば、おそらくすぐに膠州や芝罘を超えるでしょう。他の国がこのような鉄道を建設することを望むなら、私は喜んでいます。例えドイツがイギリス人がそれを行うことを許可しなくても。」。

ドイツ人は濰県の炭鉱産炭に多いなる期待を寄せています。アリウェン氏は彼の報告書(後に添付)で、1902年の炭産量が3,300トンであり、年末の日産量が55トンに達し、日産量が200トンに増加する可能性があると指摘しています。炭の品質に関して、アリウェン氏は私に手紙で伝えてくれました。

「現在までに、商船や軍艦に五つの炭が試用されました。報告書によれば、一般の蒸気に使用すると、この炭は日本の炭よりも優れていますが、風を送るためには適していません。一方で、青島の海軍工場は非常に満足しており、彼らは全てこの炭を使用しています。冬にはこの炭を注意深く試用しましたが、民間用の炭としては日本よりも優れていると考えます。ただし、現在の供給量は限られており、常に手に入るわけではありません。」。

ドイツが膠州で実施している政策は、偶然にも私達の国が通常従っている政策と正反対です。ドイツは強制的な手法を採用していますが、私は待機型です。植民地の状況から見て、どちらの政策がより安全で成功しているかは明らかです。膠州がどれほど繁栄していようとも、過去と現在に大量の資金を投入し、利益を得るには時間がかかるでしょう。

私はドイツ人が中国東部の管理に成功することは永遠にないだろうと考えます。彼らは中国人に対してほとんど理解がなく、どのように接するかを知りません。

ドイツの租借地や山東省全体で、ドイツ人が中国人に対して取った方法は中国人の敵意を引き起こしており、彼らは sooner or later この問題を考慮する必要があるでしょう。山東の幾つかの宣教師は私に語ってくれましたが、中国人は嘗てないほど外国人に対して分断し、ドイツ人を強く憎んでいると言います。

中国の官僚と山東の人々は、ドイツ人の目的は山東を支配しようとするものであり、彼らの手法について多くの社会経験を持っていると気づいています。彼らは「勢力範囲」の分割がやがて直接的な併合に繋がることを恐れています。ドイツが山東の他のヨーロッパ諸国に対する態度は、この恐怖を増幅しています。

ドイツの威海衛の開発を妨げる試みは、彼らの「犬が馬の飼い葉を占拠する」政策、即ち「山東はドイツのもの」ということを充分に示しています。

私は1902年の総合報告書で、威海衛の金鉱会社は鉱業の発展を考え得てるが、その採鉱位置はイギリスの勢力範囲にあったが、中英両国の共有区域に属していた。この難題を解決するために、私は山東巡撫に、鉱区の問題は山東巡撫と威海衛の行政長官が共同で起草した規定で解決した。採鉱が成功した場合、鉱区の土地の使用料はイギリス政府と中国政府とで折半する必要があった。山東巡撫と中国の専門家が鉱区を視察してから、この公平な提案金額を大変喜んで受け入れた。だがドイツの北京駐在大使は北京の外交部に対して、前任の山東巡撫との協議では、ドイツの会社は芝罘を中心とする250里地区に採掘権を所有していると抗議した。

私は北京で関連事項を担当するイギリスの官員へ内密の報告を送り、ドイツが声明している採鉱地区には威海衛の全租借地と東経120度40分以東のイギリスの勢力範囲が包括されることを指摘し、ドイツの大使が道理正しく厳格にこのような要求をするとは信じ難いが、私は威海衛の現在と将来の発展に関係して、イギリスの利益に関するこの問題を解決するための、必要な措置を講じることを陛下に要求したい。

ドイツ側のこの行動は、彼らが山東でイギリスが鉄道を建設しなかったことに感謝の念を抱いていないことを示しています。同時に、ドイツは他の国々が此処で自分達の勢力を発展させることを可能な限り租借する決意を露わにし、それらを山東の門の外に排除しようとしています。


青島景色

5月30日(土曜日)、私達は膠州への訪問を終え、ドイツの船に乗って威海衛に向かいました。5月31日(日曜日)に到着し、長い6週間の威海衛での不在が終わりました。

全体的に言えるのは、この旅行は非常に楽しいものでした。山東巡撫とその他の中国の役人達は、私達に対する友好と熱意は比類ないものでした。他のイギリスの役人が中国でこのような熱烈な歓迎を受けたことがあるかどうかは分かりませんが、中国の一省で私達のように公式な支援を受けた例はほかにないと確信しています。人々は自然に私の訪問を、膠州総督の済南訪問と比較しています。済南に長く住んでいたアメリカ人が教えてくれたところによれば、トゥルッペル総督の訪問は比較的正式でした。欧州人と中国人の両方が私の訪問を明らかに友好的で熱烈なものと考えています。前述のように、山東巡撫は私に、私をもてなす目的は英国政府に対する彼の敬意を表すことであり、山東の人々が欧州人にどのように接するべきかを示すものだと語りました。明らかに、彼の目的は達成されました。私達は山東巡撫と他の全ての役人が私達に対して旅行全体で示してくれた心遣いを永遠に忘れません。

青島での滞在も素晴らしく、トゥルッペル総督と他の役人も同様に私達を非常に温かくもてなしてくれました。

     行政長官 ロックハート

      1903年6月26日