一 設行建点
モービル製油会社は、アメリカロックフェラー財団に属し、1870年にジョン・ロックフェラーの創業。1877年に初めて石油を中国に運び、1894年にモービルが煙台で、「モービル洋行」と称し、煙台山下の海岸街32〜33号の住所で、実施した。
実施前には、「盛昌」号と礼和公司が共にモービルのエージェンシーとなっていた。実施後、上海総弁事所に属し、1915年にモービルが青島に支社を設立後は、青島支社所管となった。洋行(外国商社)内には、東西二ヶ所の帳場(ちょうば)があり、東を洋帳場とし、西を華帳房(また中国帳房という)とした。
洋帳房(海岸街33号)は、アメリカ人が事務する場所で、外国商社の中心で、外国人経営と中国人駐在員(西洋人代理経営)等により組成された。その最初の経営者はアメリカ人V •G•リーマンで、彼は煙台モービル洋行で15年働いた。この期間に彼はまたモービルの済南での設立状態と安東(今の丹東)、大連石油貯蔵庫の建設を兼任した。1914年、彼は上海に異動となり、モービル石油会社駐在中国の第二代総支配人となり、後に、西洋人は煙台に常駐しなかったが、不定期に煙台に検査作業に来て、商社の管理作業は青島支社の派遣した中国人駐在人が責任を果たした。
華帳房(海岸街32号)は、即ち仲買人事務所で、中国人により組織され、その創業者は孫老柱であった。孫老柱は社長を務めたが、支楚孫家荘の人であり、初潤生も副社長となり、煙台初家の人であった。孫老柱、初潤生の死後、またその子孫の孫偉堂、初志英が華帳房の正副社長の職務を交替(こうたい)した。この期間に、華帳房は全て15人で、正・副社長を除いて、会計孫紹醇、副会計李副堂、上街の孫徳賓、鄒国容、梁栄広、李人濤、従業員王利明など4人、コック1人、石油タンク保管員2人であった。
美孚(モービル)洋行(スタンダード石油)は1908年8月23日(光緒28年)、アメリカの煙台駐在領事館登莱青道署で登記記録があり、芝罘東口張姓の土地30畝5歩6厘3毫(約20アール)を租借した。
1904年にその租借地内に長150英フィート、幅75英フィート、高さ18英フィートの倉庫三ヶ所を建築した。倉庫は石材領で建築され、木の梁鉄屋根で、一ヶ所毎に灯油9万箱(一箱は5ガロン2樽、およそ31市斤)が貯蓄され、この倉庫はアメリカ人の責任で、他に5名のインド人看守と8名の中国人看守を雇用した。美孚洋行は始めこの倉庫を、牛荘、安東、大連と天津等の地に保存した石油商品を提供する計画であったが、後に大連、天津、済南などの倉庫設備を発展に従い、煙台に入港する関裕量は減少し、この3ヶ所の倉庫は次第に放置された。
1930年代になると、ディーゼルの経営量は激増し、芝罘島の石油橋はディーゼル石油経営の需要を満足し難くなってきて、美孚洋行(スタンダード石油)はまた外商が中国で石油プールや、埠頭を建設するという批准した政令を経たという中国政府への報告を無視し、1931年に私的に東口貨物桟橋の南端にまた直径50フィートの原油池を増設し、ディーゼル専用池とした。そのほか、美孚洋行は1908年に威海衛に倉庫一ヶ所を建設し、煙台山西側にも一連の石油備蓄倉庫を建造した。
美孚洋行は煙台での石油商業の経営以外にも、早期には中国人を大いに「子豚」として売買し、中国人作業者を掠奪し、海外に運送し、奴隷として、労役に服させ、植民地開発のため命懸けに働かせた。1904年に美孚洋行は欺瞞(ぎまん)手段を取り、煙台で中国人作業者4千名を募集採用し、南アフリカに運送しようと企画したが、途中で労働者により発覚し、アメリカ汽船に舵(かじ)返し帰港を迫った。激怒した中国人労働者は美孚洋行を包囲し、当洋行こ扉窓(とびらまど)を破壊した。
美孚洋行(スタンダード石油)に続いてきたのは亜細亜石油会社であった。亜細亜石油会社は英蘭殼牌石油会社(ロイヤル・ダッチ・シェル・グループ)の子会社で、総会社はロンドンとハーグに設置された。
1913年に正式に中国で取次(とりつぎ)機構が設立され、1916年に煙台で、「亜細亜石油会社煙台支社」と称し、大馬路85号に設立された。
亜細亜支社の石油倉庫は海港路16号にあり、平屋30間余りで、東西2列のになる四合院で、一列には石油、ジーゼル、ガソリンなどの燃料油、別の一列にはそのほか各種の石油産品が貯蔵された。
徳士古石油公司、またの名得克薩斯石油公司(共にテキサコ・ペトロリアム)は、1902年に成立し、本部はニューヨークにある。1927年に青島支社のN・M・ゾベルが煙台に来て設立し、「徳士古洋行」と称した。
商社社長は後に中国人による担当に改められ、1935年に当商社の社長は中国人徐某となり、その販売業務は中国商「致興和」代理により、住所は煙台山下の順太街16号にある。徳士古洋行の石油倉庫は海港路にあり、北面と亜細亜会社の石油倉庫とは隣接している。亜細亜とテキサコの内部組織の結構は、早期には美孚洋行(スタンダード石油)と基本は相同(そうどう)で、不同(ふどう)なのは美孚洋行の質量がより良く、販売も大きく、管理人と業務人員は、亜細亜とテキサコに比較して些か多い。
上述(じょうじゅつ)の米、英三外商は1920年代に石油カルテルを組織し、世界の石油市場を独占し、彼らは中国人の買弁(ばいべん)(列強支援の中国商人)に頼って、中国に取次機構を設立し、大区、中区、小区の三級に分けた。大区には華南、華北二ヶ所が含まれる。福建、浙江省境界以南の各省は、華南大区に属し、総事務所を香港に設置した。福建、浙江省境界以北の各省は、華北大区に属し、総事務所を上海に設置された。各大区の下には上海、蕪湖、九江、漢口、重慶、天津、青島の7中区が設置された。当時の煙台は青島中区管轄下の1小区であった。中区、小区には共に支配人が置かれ、各商店の責任を分売(ぶんばい)する責があった。小区の下には直接機構を設立せずに、販売業務を中華商人に委託した。実際3外商は煙台地区に朱橋、沙河、掖県、龍口、黄県、蓬莱、煙台(市区)、牟平、威海衛、石島など10ヶ所の取次代理店を設置し、各代理店には皆各会社が発給した石油取次の看板が掲げられた。
1941年12月に太平洋戦争が勃発後、日商三井物産出張所は日本軍軍部の命令に基づいて、米、英三外商の煙台企業を差し押さえ、その全部の財産を没収し、煙台の石油市場の支配権を日本帝国主義の手中に移動した。
当時煙台で経営していた石油産品の日本商業には出光商会(1938年6月8日に煙台で開業)、三井物産出張所(1900年煙台で開業)及び岩城商会などである。米、英の石油、ガソリンは輸入を中断し、日本の石油製品は全て軍用に帰したので、実際煙台の石油市場は停滞(ていたい)した。
二 経営方式
米、英三外商は煙台の石油市場を半世紀の長きにわたり支配しており、その三家の経営手段はほぼ同じであった。
第一に、買弁(ばいべん)(中国の仲買人なかがいにん)とエージェント(代理商人)を選択して煙台で大量に石油製品をダンピング(不当廉売)した。
エージェントが選択されると、3外商の規定により、まずエージェントより会社へ一定数の補償金が交付され、その後会社より直接無料で門口まで油が送られた。エージェントは既定の価格で石油製品を販売した後、会社の決算に向かい、販売額の多少によって一定比率の定数料を受け取る。販売が多ければ、得る手数料も多い。石油製品は不同で、手数料も異なった。最高は百分の10で、最低は百分の1、一般には百分の5前後であった。買弁とエージェントに発給された貨物は、販売前には当社の在庫に属して、販売後は即刻会社へ速達(そくたつ)を出し、販売数量を清算した。この種の方法を「委託販売」と称した。
委託販売はエージェント(代理商)に保障されており、もし水難、火災、及び漏出(ろうしゅつ)などの意外な損失に遭遇しても、会社の責任による。石油製品は産地から販売を終えるまでに、保険会社の保険があり、この期間に意外な損失があっても、保険会社は賠償を負担した。
この種の委託方法は各エージェントに乗ずる隙があり、分不相応(ぶんふそうおう)な利潤を希望して、漏損の損失などを多く報告した。三外商はこの破綻を補填(ほてん)するために、専門的に外国人、中国人の検査員を設置し、定期的に各代理店の在庫の実情の検査を進行した。また、調査員の確実な損失を経ていなければ、会社は売上(うりあげ)の見積もりを認めないと、規定した。李福堂はかつて臨時の命を受け、外国人の小型自動車に坐って、牟平などの地の代理店に出向いてストックを確認したことがある。各エージェントは上司の派遣してきた審査員に対して、招待は特別慇懃(いんぎん)に行われた。飲み食い歓楽、金銭賄賂、その他一切の損失を報告を求め、漁夫(ぎょふ)の利を得るため、この種の欺瞞は公開の秘密となり、西洋人も片目開けつつ、片目を閉じて、真実の追求を求めず、目的は些かの損失を釣餌として、中国人エージェントを籠絡して大量の石油産品のダンピングに尽力する事であった。
第二に、広告宣伝を大変重視していた。石油を例に取ると、最初、人々は灯油照明の利点を認識しておらず、主に火災、爆発の引き起こしの危険を恐れていた。一般大衆が恐れただけでなく、当時の清朝官吏も、石油の燃焼(ねんしょう)に反対した。また人々は長期間植物油や、魚油(ぎょゆ)の照明に習慣付いていた。
数千年来沿用してきた旧式の植物油灯火も、灯油の点灯に不相応であった。当時新式の石油灯があったが、製造価格は頗る(すこぶる)高く、民間は貧窮していて、購買力が無く、これらは皆灯油の販路に影響した。これに対して、米、英三外商は一方で広告宣伝を大々的に行ったが、石油は未着で、広告のみ先行し、「モービル石油を灯せ(ともす)」、「亜細亜石油を灯せ」、「テキサコ灯油が届いた」などの大字広告が、城内街に普及した。老人の話を聞くと、外商たちはまた特に上海から外国人のバンドを招いて、馬車上に座らせ、吹弦、弾唱させ、街宣(がいせん)で石油を点灯する長所が宣伝した。また一方で、彼らは各種に適用する、貧富に適宜(てきぎ)な灯火具やストーブ、例えばフロアスタンド、シャンデリア、手元灯、ヘッドライト、石油バーナーなどの販路と開発に躍起(やっき)となった。
当初、誰が石油を買ったかというと、米英外商へは無料または半値でオイルランプ一つに売った。このように経営項目を増加し、さらに石油のダンピングを促進した(龍口のモービル洋油の「政興公」は、通常は顧客に、石油箱の鉄釘(くぎ)をこじ開けるための羊角ハンマーが贈られた)。
第三に、絶えず石油製品の品種を増加し、販売の数量を拡大した。三大外商の販売する石油製品は、1913年以前には全て石油のみであった。1913年以降は、欧州戦争が勃発し、西洋の帝国主義は東方を顧みることもなく、煙台は全国と同様で、民族の工商業と漁業と、交通運輸業も迅速な発展の隙を得て、これと適応して、これにディーゼル、ガソリン、潤滑油、グリースなどの石油製品も続々と煙台市場に殺到した。当時煙台の亜細亜支社は、シェルラベルの、ガソリン、機会油、また石油、蝋燭と燃料油、潤滑油脂などの経営をした。1930年代になると、ディーゼルは市場で主要な石油産品となり、その各種石油製品中に占める比例は、1911年の0.02%から57%、潤滑油も4%から8.5%に上昇したが、灯油は95.6%から34%に下降(かこう)した。1922年から1930年の期間に煙台市場の各種主要石油製品の構成情況の詳細は次表の如きである:
煙台が初めて石油を輸入したのは1867年で、小型帆船で上海から運ばれ、数量も少なく、僅かに500ガロン(1ガロンの石油はおよそ3.1キログラム)で、主要は外国の駐在煙台領事館と外国人の照明用油を満足させるものであった。
後煙台の石油市場は不断の開拓に従って、石油の輸入量は不断の増加で、美孚公司(モービル石油)が煙台で施行の初めの1901年には、石油の総輸入量はすでに8,798,334ガロンで、当年の全国の石油輸入総量の百分の七を占めた。当然、これらの石油は全部が煙台市場で販売されるわけでなく、その中の一部分は山東、河南、河北、山西等の内地に運べれ、また一部分は朝鮮などの地に再輸出された。
美孚、亜細亜、テキサコの三外商が煙台の石油市場を掌握した後、煙台に輸出された石油製品は、その種類、数量は時に変化があったが、全体的な趨勢(すうせい)は増える一方で減ることはなかった。太平洋戦争勃発前の1940年には、煙台に輸入された石油数量は1921年に比較して減少したが、ただしディーゼル油の輸入量は600倍余に増加し、ガソリンも40倍に増加し、潤滑油も倍増して、1921年から1940年の20年間に、米英三外商が煙台で石油13,651,100ガロン、ガソリン12,101,727米ガロン、潤滑油1,191,215米ガロン、ディーゼル29,810トン、潤滑油494キンタル(49.4トン)をダンピングした。
第四に、有効な石油原料輸送系統がある。美孚、亜細亜、テキサコの三外商が煙台で販売している石油産品は、皆アメリカ、ホノルル、ジャワ、オランダ領東インド(インドネシア)、中東と香港などの地から運輸してきた。
三外商は中国で各自の石油原料の運輸系統があり、遠洋の大口運輸品が来中するばかりでなく、中国で海浜沿海に運送した石油製品は分散保存が進められ、各会社の持参のタンカー、機械船が担当した。機械船が航行不能の所は、民間船舶を雇って運送した。
煙台美孚(モービル)洋行の例を以ってすれば、モービルは一般にタンカーで石油製品を煙台港外に運び、その後艀船(はしけふね)で芝罘東口の石油桟橋内に運んで保存し、再びサンパン船で煙台山西側の埠頭倉庫内に運び、そこから売り出された。威海衛、龍口、黄県、牟平、文登、栄成、石島など沿海都市町村の代理店が販売したモービル石油の、多くは煙台から民間帆船で運ばれた。
美孚洋行の早期にはモーターボート1隻、艀船(はしけふね)3隻、ほかに中国産の平底帆船があった。1912年11月美孚洋行の2隻の大艀船が港外で作業時に風波(ふうは)で沈み、装着(そうちゃく)していた石油原料は皆海中にこぼれ落ちた。その後、煙台美孚洋行はもはや船舶を備えておらず、沿海で運輸した石油製品に求められたタンカーは、皆オンス洋行または和記船行から租借したものであった。
第五に、商品包装に拘った(こだわる)。煙台石油市場の美孚、亜細亜、テキサコの三外商が経営する石油製品はその包装も大変研究された。包装資材(しざい)から分ければ、容器は以下の5種である。その1は大鉄桶があった。その2はブリキに角、円缶で、容量は5ガロンの角缶で、主に灯油とガソリンを入れた。容量1ガロンの角缶は、主に潤滑油を入れた。また5ポンドの円缶があり、主に潤滑油に用いられた。
ブリキや、円缶は、都市農村の買手(かいて)に歓迎られた。人々は石油製品を使い果たした後に、水バケツや糧食保存に用い、この種の包装は石油市場でいつも見かけられた。その3は木箱である。主要なものに2種あり、1種は大木箱であり、内容は各5ガロンの二つの角缶で、保護作用を起こして、角缶の破損を防止する。その4は紙包装で、主要は油紙及びフェルト紙であった。その5は麻袋(またい)で、各種の固体の石油製品、石蝋などであった。上述の包装の表面には、それぞれ美孚、亜細亜、テキサコの印刷があった。これらの包装は、石油産品の貯蔵運送を助けるだけでなく、同時に買手やその他の需要を考慮し、石油製品の販売を促進するのに疑いもなく有利的である。
三 価格、利益とその特権
美孚、亜細亜、テキサコの三外商が煙台で開業の初めに、競争は大変激烈で、相互に「敵業」と称し、謀略を巡らせ、各々法術を施し、値下げ販売を競った。一番激烈な競合(きょうごう)の後、最後に協議を達成し、販売価格が統一し、共同して煙台の石油市場を独占した。
石油製品の価格を調整するごとに、膨張(ぼうちょう)暴落して、皆三外商の共同で議定したことで、その後電話で各地の買弁(協力中国人商人)と代理商に告げて、厳しく言行した通りにする。煙台の石油市場で、美孚洋行の経営するモービル牌、イーグル牌の灯油は、質量ともに最適で、燃焼時に煙も少なく、同類商品の価格中で価格も最高であった。販路も多かった。亜細亜支社経営の馬蹄銀牌、鉄錨牌、僧帽牌の灯油は、燃焼時の黒煙がやや多く、質量がこれに次ぎ価格は美孚に比べて低く、テキサコより高い。
三外商は表面では共同議定した価格に従ったが、秘かに万策かけて販売価格を争奪して、相手を圧倒することを探り、「秘かに油量を増加」するのと「サービス券貼付(てんぷ、ちょうふ)」するのは常用された2方法であった。いわゆる「秘かに油量を増加」するのは1缶の石油量を標準より些か増やすものである。「サービス券貼付」は、秘かに販路代理店が補助金を支給するもので、一般に一缶に1、2角銭を貼り付け、最多の時には毎缶三角銭以上が秘かに貼り付けられた。このような方法は各地の代理商の販売価格の競争を大いに刺激し、常に特定の外商の石油製品の一定期間内の売れ行きを良くし、別の両家の売れ行きを留めた。別の両家が発覚後は、反撃されたり、あるいは値下げされたり、あるいはサービス券貼付や油量増加し、三家の激烈な競争を造成したので、三家外商を強いて坐させ(ざする)共同協商について、価格を安定させなければならなかった。
三外商が石油製品の価格を交渉する時、彼らは一般に卸売(おろしうり)小売(こうり)価格差を実施し、卸売小売の価格差を使用して石油市場を競争します。市場競争が激しい場合、卸売り小売り価格差は率が高いです。それどころか、それは低いです。美孚を例に取ると、1930年から1936年までの卸売り価格と小売り価格の違いを次の表に示します:
上記の表からわかるように、1935年の美孚灯油の卸売から小売の普及率は19.6%と最も高かった。これに続いて1930年は19.4%でした。再び1934年に、それは16.8%でした。これは近年の煙台市場において、美孚からの灯油が亜細亜、テキサコ、日本商人などの灯油の影響を強く受けており、日本商人からの灯油の密輸が最も激しいためです。
日本商人が中国に対する石油の密輸は、初め華南一帯で、その糸口が始まり、香港、マカオ及び広州湾を根源として、ついで全中国海岸に及んだ。1931年の「満州」事変以後、日本軍の蹄鉄で満州を踏み躙り(ふみにじる)、満州と朝鮮を踏板(ふみいた)として、密輸の魔手は華北、華東に向かい、不法商船(小型船)が、三々五々群をなし、密輸の風が日に日に盛んとなった。1934年の『海関貿易統計』の記載:「関東租界地は遥かには北海岸を臨み、密輸の活躍する地区で、加えて大連及び東北その他各埠頭から進出します船舶及び貨物は、中国税関の無法管理であり、密輸のHIは、怖れるものがなく、ますます販売は猛り狂っ(たけりくるう)た。」。煙台は山東半島の東端にあり、満州、朝鮮、日本と海を隔てて互いに向かい合い、日本商人はここで石油製品の密輸をしたと、1927年に記載がある。
この年の日本商人は大連から民間船舶を雇用して灯油3〜4万箱を龍口に運び、秘かに各地へ分売し、ボロ儲けがした。1930年代になると、密輸活動は猛威を振るい、三外商の石油製品は煙台でひどく売れ残った。
1929年から1933年までの5年間で、三外商が煙台に輸入した灯油は、前5年間に比較して326万5千ガロン減少し、前5年間の輸入量の三分の一となり、1932年には遂に100分の98に減少し、三外商の煙台石油市場に対する制御権は厳重な脅威を受けた。イギリス人は『税関貿易統計』では:「煙台貿易は、本年異常に式微(しきび)し、人を極端に失望させた」と叫んでいる。日本商人の石油の密輸の厳重な挑戦に対して、三外商は各自自己(かくじじこ)の利益を確保するため、内部競争もますますひどくなった。この種の情況のもと、身が外商トップである美孚洋行は0差額率の方法を高める方法を採用せざるを得なく、しばらく一部の利潤を中国人代理店に分け与え、中国屋号(やごう)と日本屋号を互いに対抗させ、煙台石油市場の覇者の位置を強固(強固)としようとした。
三外商が石油製品の価格を議定する時、地区差額も規定した。例えば1932年に、煙台市区は毎箱灯油価格は5元前後であったが、棲霞県では毎函5元1角前後であった。ほかに、地方上の課税雑税は、三外商は一概に関わらず、当地により加算された。
羊毛は羊の身体から出て、多く増加される部分は全部消費者〜煙台の消費者の身上に転嫁(てんか)された。三外商の代理店は、大多数が自分の上司に対してとても信用して話し、命令も従うが、ただし利用価格に文章を作り、投機に巧みをする人も少なくなく、例えば会社が灯油の価格を引き上げている時、彼らは保存量を少なく報告し、値上げ前の低価格で会社と決裁し、その後報告しなかった保存油を、値上げ後の価格で販売し、利潤を多く得た。会社が石油製品を下げた時には、代理店は保存量を多く報告し、現在の調整抵価格で会社に入金した。
会社は調査員を実際の調査に派遣したが、代理店では空桶を満油桶の底に横たえたので、調査員も発見しがたかった。またある代理店は甲地で売り出された石油を、価格の比較的高い乙地で売り出されたと称して、地区差額を儲けた。
三外商はこの漏れ穴を発見してから、また「限定販売」の方法を採用して制限に加えた。「限定販売」は代理店の販売状況を根拠に、一つの販売限定価格を制定した。同時に区画販売方法を規定し、代理店投機の立ち回りを防止した。例えば美孚洋行の中国帳房会計の経理で、中国商人孫偉堂は、煙台市区と福山八角より東、牟平県城(城内を含まず)より西と棲霞県などの地で石油製品を販売した。同様に、龍口の政興公代理店、威海衛の福泰代理店も、それぞれ龍口、威海衛などの地の代理店で美孚石油を販売した。彼らは各地に地盤があり、互いに侵犯(しんぱん)することなかったが、皆美孚洋行の所轄に属した。このようであっても、各代理店は八方手を尽くして価格情況を探った。毎回の価格変動は、皆三外商の主要な首脳の秘密研究により決定し、決して他人の打診には譲らなかった。
三外商は煙台で石油製品を経営して、驚くべき利潤を奪取した。この一点は、煙台の東海税関の通関価格と煙台の発売価格の比較上、見るべき一斑がある。1930年三外商が煙台で輸入されたディーゼル燃料の通関価格は毎トン36元(銀元、以下同じ)、当時煙台のディーゼルの発売価格は毎トン81元で、差額は45元、差率は100分の135であった。輸入後、包装、運送雑費、損失、人力及び卸売手数料の項目の費用を除き、毎トンのディーゼルの利潤は40.5元に達し、その通関税の1.13倍で、誠に暴利を言うべきで再び灯油を例とすると、1931年の灯油の通関価格は毎トン233.7元で、しかし当時煙台の灯油の発売価格は毎トン373元、差額は139.3元であった。
もし通関価格の100分の10を各種費用として差し引くしてもその差額は100分の60に達する。この計算を以て、毎トンの灯油の利潤は125元に達し、この年の三外商は煙台で3,000トン余りを販売したが、この1項目で、1年38万元の利益を獲得でき、もし同時期経営のガソリン、ディーゼル、潤滑油、潤滑油脂などその他石油商品の獲得した利潤を加えれば、獲得した数字はさらに驚異的であろう。
この外、三外商は煙台でまた種々の政治、経済特権を享受した。その納税(のうぜい)項目を以て言えば、関税一項目だけである。当時の中国関税は外国人の手中に掌握され、税関の輸入関税は世界上最低で、三外商が経営するガソリンは「税関納税制度」を実行し、ガソリンを輸入する時はまず外商の石油倉庫に貯蔵し一年以内に売り出してからやっと課税された。三外商が関わる税関税は、本当に九牛一毛に過ぎない微々たるものであった。
煙台美孚洋行旧址
整理 煙台 呂昭義
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