山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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イギリスのニューマン一家とゲストハウス

近代煙台の東海岸に、かつてランドマーク的な建築物が屹立(きつりつ)していて、それはゲストハウス(Family Hotel)であった。ゲストハウスは近代煙台で大変影響のある外交旅館であり、イギリス人エドワード・ニューマン(Edward Newman)が創設し、その家族が20年間経営した。ニューマン一家は長く中国で仕事や、生活をしてエドワード・ニューマンの長女及び女婿(じょせい)は近代威海衛最初の大規模な外国資本の商社を創業し、長男フランシス・ニューマン(Francis Newman)は長期にわたり郵務局長を担当した。ニューマン一家は近代中国の歴史上深い印象を残した。

エドワード・ニューマンとゲストハウス

メリーと長女アニー・ニューマンの撮影(1870年)

ゲストハウスの支配人エドワード・ニューマンはイギリス人で、1831年にロンドンのブルームズベリーに生まれ、父親は鋳銅職人で、エドワードは8人の子供の第6子であった。エドワード・ニューマンはまず香港に行き発展の機会を探し、1863年に廈門の有名なイギリス商人マディソン(Henry Davies Margesson)が世話するパートナーとなった。まもなくエドワードは香港の大英汽船会社(P&O、Peninsular and Oriental Shipping Co)に加入した。これは本部がロンドンにある海運会社であり、エドワードはこの会社の従業員を務め、まもなく事務員となり、後に会社経営に昇進した。1869年3月にエドワードはメリー(Mary Ann Sait)を妻に娶った(めとる)が、メリーは大英汽船会社の同僚でありであり良友サイト(Sait)の未亡人(みぼうじん)であった。当時メリーはイギリス南部のサウサンプトンのあるホテルで副経理を務めていたが、結婚後、エドワードと香港に住んだ。メリーは香港の暑湿(しょしつ)な気候に適応せず、1874年、エドワード夫妻は北方の開港都市、西洋人に「中国のブライトン(Brighton、イングランドの海辺の一都市)」と呼ばれる煙台に来た。
煙台に到着後、メリーは自己資金で旅館業を行い煙台で発展する見込みを建てた。すぐに、エドワード・ニューマン夫妻はドイツ人ビーレフェルト(A.Bielfield)が経営するゲストハウスを引き継いだ。
当時のゲストハウスは一階建ての平屋で、敷地20畝、エドワード・ニューマン夫妻は引継(ひきつぎ)後二階を加えて。客室を34室に増やして、主に夏季に煙台に休暇に来る西洋人にサービスを提供した。ゲストハウスは一度『馬関条約』の交換儀式に立ち会った海浜旅館(Beach Hotel)と同様に有名となった。
1883年、エドワードが煙台で亡くなると、毓璜頂外国人共同墓地に葬られた。1891年、ゲストハウスの経営責任を負ったニューマン夫人(メリー)が煙台で亡くなった。それから、僅か21歳のアニーがゲストハウスの経営の主役を開始した。同時に滋大洋行の経営者ウェイク(J.P.Wake)と東海税関のオタウェイ(E.F.Ottaway)が管理委任人を担当した。
1893年、アニーは結婚後、ゲストハウスは経営する人が無くなった。1894年、上海の有名なオークションルイスムーア洋(Moore&Co.,Ltd,L)がゲストハウスオークションにかけ、最後に上海と煙台で組織した連合商業が1.93万両税関統一銀で落札した。アメリカ人マイレ(H.Meyeren)がゲストハウスの支配者を担当した。6年後の、1900年に、ゲストハウスは芝罘学校がオークション形式で購入し、後に芝罘学校の初期校舎となった。

アニーと康来洋行


ニューマン(左一)クラーク(右一)1898年の煙台撮影

エドワード・ニューマン夫妻には二男二女があり、長女のアニーと長男のフランシスは香港で生まれ、次男と二女は煙台で生まれた。エドワード・ニューマン夫妻が相次いで世を去ると、僅か21歳のアニーは煙台で一人でゲストハウスを何年も経営した。1893年4月、アニーと東海税関に出仕していたスコットランド人ダンカン・クラーク(Duncan Clark)が結婚した。結婚後、ゲストハウスはオークション方式で譲渡(じょうと)された。
1898年、イギリスが威海衛を租借した。同年、クラークは東海税関の仕事を辞め、一家を威海衛に移して、独立して店を出し商売と貿易を経営した。クラーク夫妻は劉公島で近代威海衛最初で規模が最大の外資商社〜康来洋行(D.Clark&Co.)を創業した。
ホテル業出身の妻アニーの影響で、クラークはホテル業に夢中になった。1898年、威海衛に来て間もなく、クラークは妻の提案で、劉公島の元北洋艦隊軍官宿舎に康来飯店を開設した。一定の資金を蓄えた後、またその地所を買い取り、ホテルを再建し、規模を拡大し、施設も完備し、劉公島のイギリス海軍軍官家族と威海衛に駐在の外国人の重要なホテルとなった。康来飯店開業間もなく、1906年に、クラークはまた中国軍団(イギリス)住所にまたホテルを創業した。1910年クイーンズホテルが譲渡された時、クラークはまたこの大規模で、高級なホテルを、人と共同で購入することを躊躇わなかった(ためらう)。
クイーンズホテルの部分所有権を獲得したが、クラークは取得の成就(じょうじゅ)に満足していなかった。3年後、彼は共同人の株を買い取り、自己で完全にこのホテルを保有した。
経営規模を拡大するために、クラークはまた1911〜1919年の6度、東北側の道路上方に30畝余りの土地を購入し、同時に1921年にまた威海衛イギリス政府の手中からホテル前の崖の場所を租借し、環境を美化し専用の遊覧埠頭を建設した。アニーの協力で、康来洋行は猛烈に発展した。1920年の末になって、康来洋行の業務は観光、不動産、貿易、市政、交通、教育などの領域に及び、当時威海衛で実力が最強で、規模が最大を総合した外資企業となった。いわば、康来洋行は近代威海衛の現代経済と教育に重要な作用を果たした。

フランシス・ニューマンと中国郵政

郵便局長ニューマンと中国人妻梅蘭

フランシス・ニューマン(1873〜1937)はエドワード夫妻の長男で、1873年に香港に生まれ、1歳の時に、父母に随って煙台に移った。フランシスはゲストハウスの中国人従業員たちの中で成長して、本場の流暢な煙台方言を話すことができた。
1881年、フランシスはゲストハウスの芝罘学校に入って勉強し、芝罘学校予備校の第一期小学生となった。1890年、フランシスは煙台の老舗商社滋大洋行で仕事をした。滋大洋行は香港大英汽船会社の煙台代理店で、フランシスはここに勤めて、その父のエドワードはかつて大英汽船会社の仕事で大いに関係があった。二年仕事をしてから、フランシスは煙台東海税関に転職し、最下位の室外ガードマンから仕事を始めて、後に乗船税関監視官(tidewaiter、検査官)となった。
1896年3月20日、光緒皇帝は大清郵政官局の設立を命じた。大清郵政官は税関内部に設置され、清国政府税関総務司によって運営の責任を負った、フランシスは大清郵政官局の仕事に転出した。フランシスにとって、郵便局の仕事は体裁(ていさい)のいいホワイトカラーの仕事であるばかりでなく、より良い発展の前途があった。新しく成立した東海税関の大清郵政官局で、フランシスの仕事は大変堅実であったので、幹部や同僚の好評を深く得た。1902年、フランシスは東海税関郵便局の普通職員から巡査員に昇進した。間もなくフランシスはまた清国政府総税務司に太原の郵政業務長担当に配属され、その後各省の郵政業務長を担当した。彼が重慶の外国商社が『北華捷報』に一通の書信したため、書信にはフランシスの郵便局の仕事に対して高度の称賛を与え、「中国にこのように気配りのあり、勤勉な指導者がかような良好な仕事をさせる地区は一つもない」と認めている。フランシスは中国の郵政局で傑出した仕事をしたのでイギリス政府から勲章を授与された。1921年、陝西都督は民国政府に)辺境守備の奨励に尽力した郵政業務監理局長フランシス・ニューマンに、二等銀色勲章を給与する予定」を申請した。
キャリアが上がった時、フランシスは中国の西洋人を信じ難い事をした:1903年、彼は梅蘭(メラ)という名前の中国人女性と結婚した。梅蘭は成都の実業家の娘で、幼い頃から纏足させていた。
フランシスは花嫁の家族によって認可されたが、中国人との結婚に対して英国コミュニティの偏見は、フランシスを駐中国の英国コミュニティから差別し、彼のキャリア生涯のための不合理な行為であると考えられた。その後、フランシスの郵便キャリアは、山西省、陝西省、貴州省、湖南省など、中国の遠隔地の郵便局で過ごし、沿海の繁栄した都市で働く機会を失ってしまった。
1912年に中国国民政府が設立されて以来、フランシスは地方郵便局長を務めた。しかし、革命的な状況の変化に伴い、帝国主義に対する国内の反対の声が高まっています。1927年、フランシスは西安の郵便局長の職に就いた時、「愛国的な将軍」馮玉祥によって追放され、間もなく郵便局長の職を辞任した。
郵便局長以外に、フランシスは中国文物の収集家でもあった。彼は中国でほとんど一生を過ごし、地道(じみち)な中国通であった。
彼は大変中国文化を好んで、中国文物の収蔵と観賞に熱中し、先秦三代の銅銭、漢・唐の陶器、貨幣、磁器など珍品は皆珍蔵し、また中国の近代の有名な収蔵家で、清末直隷の総督、北洋大臣端方と密接な関係があった。フランシスが収蔵した文物で、最も有名なの古銭貨幣に「国宝金匱直万」がある。「国宝金匱直万」は新朝王莽時代に鋳造した貨幣で、字体は優美、鋳造は精良、造型はユニークで、収蔵家により中国古銭貨幣の値の付けようのないものに認定されている。光緒27年(1901年)、西安の農民は二枚の完全無償な「国宝金匱直万」を掘り出し、その中の1枚が時の西安郵便局長フランシスが獲得した。フランシス・ニューマンはそれを上海の家に保存し、後に上海の収蔵家張絅伯がニューマンの貨幣蔵品の鑑賞に招かれた時、「国宝金匱直万」を発見し、遂にそれを買い取り、後に収蔵家陳仁濤に転売された。1949年前夜、この銭幣は陳氏と共に香港に流落した。1950年代初め、陳仁濤は経済困難のため、全蔵品を売り出しに掛け、最終的に中国政府は大金を叩い(はたく)て「国宝金匱直万」を包括する陳氏の蔵品を購入し、中国歴史博物館に収蔵した。

1937年、フランシス・ニューマンは青島で心臓衰弱で世を去り、64歳であった。

ニューマン家族の末裔

ルイズ・マリー・ニューマンと「大英帝国勲章」

ニューマンと彼の妻には3人の女児があった。長女はジェシー・ニューマン。他の二人は中国の娘を養女とした。ドリー・ニューマンは西安で引き取り、三女ルイズ・マリー・ニューマン(後に夫の姓ルイズ・マリー・ギルに従った。)は1916年に長沙で引き取った。
ニューマンの三女ルイズ・マリー・ニューマンは上海で育って教育を受け、ロイター新聞社の駐上海本部で仕事をして、二次大戦前には上海市長の補佐を担当した。後に香港に逃避(とうひ)し、1941年に日本が香港を陥落すると、ルイズ・マリー・ニューマンは日本軍隊に香港の強制収容所へ3年囚われ(とらわれる)た。戦争終結後、ルイズ・マリー・ニューマンは国連機関で仕事をして、ジュネーブ事務所の主任の個人秘書を担当した。1977年ルイズ・マリー・ニューマンは国連機構での傑出した仕事で、イギリス女王から「大英帝国勲章」を授与された。2006年、ルイズ・マリー・ニューマンは脳卒中のためにイギリスで亡くなった。