北魏仏造像:迫真の出来ばえで、荘厳な仏像
1960年代以来、山東博興、无棣、諸城青州、昌邑及び恵民等の地で続々と千体近い仏教の石造像と百件余りの金銅造像が出土した。
北魏から東魏、北斉、隋、唐を経て北宋に至るまで、時間は500年以上にわたりにその数量の多さ、質量の優れていること、風格の鮮明さで、山東に中国東部の仏教芸術の中心的地位を確立した。

最も得難いのは東魏、北斉時期の作品の出土は比較的多く、また地方色に富んでいて、いよいよこの方面の資料不足を補填している。青州地区は仏教の発展の南北両地域の中間に位置するので、その風格の演変は仏教芸術が中国の南北を伝播する方法に貴重な実物資料を提供している。

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青州地区は二大仏教文化圏の間に位置して、更に南朝の影響を多く受けてたのは、青州と南朝の政治上の淵源と関係がある。東晋十六国後期の青州は南燕に属し、6年後青州は東晋の範図に入り、後南宋に引き継がれ、北魏皇興3年に至り、北魏は東陽を陥落し、青州はまた南朝から北朝に帰属した。青州は東晋、南朝の統治から60年近く、北魏から帰属して間もなく、また孝文帝の改制に逢い、南朝の法令制度と文物を模倣しようとし、北魏が青州を占有後は、そこの民衆を代郡一帯に「平斉民」と呼び、またそのなくの名士を重要して政権改制に協力させ、南朝文化の北伝の過程で、表立って突出したのは崔光、劉芳、崔休、房景先らであった。このほか北朝の官方も南朝との往来が頻繁で、孝文帝の太和年間だけでも、北方の使節は10数回も南朝へ来たので、これで、青州地区は南朝文化の影響をずっと途切れることなく受けた。

北魏 背屏式仏三尊造像

東魏 背屏式仏三尊造像 右脇侍

東魏 背屏式仏三尊造像 主尊像

北斉 背屏式仏三尊造像

北斉 背屏式三尊造像主尊像

北斉 背屏式三尊造像右脇侍

北斉 背屏式仏三尊造像左脇侍
青州地区は北朝末期に比較的安定した造像形式を形成したが、この種の地方特色に富んだ。安定発展の属性を具有する中央区域の模式を、学界では「青州モデル」と言っている。青州モデルの形成には、外的素因の影響も無視できない。青州地区の仏像の多くは螺髪で、菩薩の頭には宝冠を載せ、宝繒を肩から垂らし身には複雑な瓔珞などを着ける特徴から見ると、人に自然に建康棲霞山と成都の万仏寺造像を連想させるが、南朝の造像と多くの方面で轍を一にするようである。学界では一般に、青州モデルは南朝に起源があり、その風格の変遷は孝文帝の改制以後に始まり、南朝の造像と相似した進化過程の変遷であるが、南方では風格の形成の段階はやや早く、青州地区の高貴の風格と発展は四川地区と比較して更に先進しており、隋代の造像に向かう特徴を多く具備して、その地域の風格は北周の宣帝、静帝以後に全面的に推進され、隋唐の造像に直接影響した。

山東省青州龍興寺北斉思惟菩薩像

山東省青州龍興寺北斉思惟菩薩像背部

山東省青州龍興寺思惟菩薩像側面

山東省青州龍興寺思惟菩薩像局部

山東省青州龍興寺北斉思惟菩薩像局部
青州地区で出土した仏教の造像は、おおよそ次のような幾つかの発展段階がある。
第一段階は北魏末以前で、その風格はおおよそ南北朝に流行した「秀骨清像(美しく上品)」と一致しており、背屏式造像が多く、服飾を重視した刻画で、仏衣は右襟を左肘に掛けた褒衣博帯(大きな裾と広い帯)式を付け、裾を両側に広げている。
北魏・東魏の造像で典型的な像は北魏永安二年(529年)韓小華造像、北魏仏造像、東魏天平三年智明造像などで、その風格は、北魏孝文帝改製後の中原造像の伝統を踏襲している。即ち、面容は「秀骨清像」で、服飾は“褒衣博多帯”主な特色は顔形は清秀神峻、面には微笑をたたえている。
青州北魏仏像の特色:第一は豊壮な体形と簡潔な服飾で、北魏以来、造像の服飾の流行は“褒衣博帯“即ち、大きな外衣、繁瑣かつ様式化された衣服の紋様で、これと“秀骨清像”が相俟っている。第二は神性化された面貌で、重視された対象は気質、内在する精神的な表現で、魏晋以来一貫した芸術伝統である。それは当時“得意忘形”“得意忘像”等と言われた流行の美学理論の基礎の上に生まれたものである。「得意忘形」=得意の余り我を忘れること、有頂天になること。第三は、完全に保存された綵絵である。中国古代の彫塑の一つは、絵画性が強いことである。仏教造像が新しく作られたときは、全て色彩が艶麗に施されていた。

山東省博興龍華寺北魏蝉冠菩薩像

山東省博興龍華寺北魏蝉冠菩薩像

山東省博興龍華寺北魏蝉冠菩薩像

山東省博興龍華寺北魏蝉冠菩薩像局部

山東省博興龍華寺北魏蝉冠菩薩像局部

山東省博興龍華寺北魏蝉冠菩薩像局部

山東省博興龍華寺北魏蝉冠菩薩像局部

北魏 東魏 菩薩像

北魏 東魏 菩薩像

北魏 東魏 菩薩像局部

北魏 東魏 菩薩像局部
第二段階は東魏の時期で、丸彫りの造像が増加し、仏像の形態はやや大きく、服飾の刻画から人体形態に対する表現を重視し、仏衣は北魏の重厚から軽薄(けいはく)へ転じ、服装の方法も変化が発生し、右襟は左ひじから左肩に上昇し、胸前の帯飾りはまだ保留しているが、仏衣の裾は内側に向き、菩薩の瓔珞の装飾品は次第に増えていく。

東魏 天平三年 邢長振造釈迦像

東魏 天平三年 邢長振造釈迦像局部
第三段階は、北斉は東魏を基本とした仏像の人体表現が更に突出して、仏衣はあまり刻さずまたは全く刻さず、全身に格子模様が施され、人物像が描かれ、仏衣の着付けは右襟を左肩に掛け、背後に向かって引き締まり、小さな丸襟を呈し、下裾は体に垂直に張り付いている。仏頭は低い螺髪と宝冠を高くした菩薩の造型が普遍的となり、菩薩の瓔珞の装飾は更に増加した。北斉の風格は前一期とは大きく変化しており、身体壮碩、衣紋は簡潔に刻まれており、面容は飽満、表情は雋永深遂である。雋永=意味深長である、味わいがある。

北斉 仏立像

北斉 仏立像局部

北斉 仏立像

北斉 仏立像
青州石仏大きさは3mを超えるものから50 ㎝ほどのものまで様々です。材質は青州産の石灰岩が殆どですが、ほかに僅かながら大理石、鉄、木、陶製の像もあります。出土した仏像の内最も古い年号を持つのは北魏の永安二年(529年)で、新しいものは北宋の天聖四年(1026年)です。この間500年間仏像が埋められていたことになります。現存するこの時代の単体石仏は限られていたため、青州石仏の発見は質の高さと数の多さから世界の仏教芸術研究者を驚かせる大事でした。
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