山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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蔡元培:学校の危機に7回も辞職したが未だに許されず、北京大学の総長を引き継いだが、なぜ一流学府を「洪水と猛獣(甚だしい災禍)」と見出したのであろう。

1917年12月26日に、孫中山先生(孫文)は蔡元培を北京大学総長に決定したが、瞬時に世論が賑やかになった。

このニュースを知り、友人達は「先生、いてはいけません、拒絶すべきです。」と次々と言った。

蔡元培は「邪魔するな、私が地獄に入らなければ誰が地獄に入るのだ」ときっぱり言った。


今では万千と学生が北京大学に向かうのに、なぜ初期には蔡元培が口にする地獄であったのであろうか。

北京大学の前身は、実は戊戌変法の時に開設された京師大学堂であった。

清政府がこの学校を建立した目的は、それを清朝の国子監に替え、中国教育の最高行政機関とするためであった。しかし僅か3ヶ月後、戊戌変法は西太后の介入で頓挫し戊戌六君子(譚嗣同、楊銳、劉光第、林旭、楊深秀、康広仁)は血の代償を払うことにさえなった。

そして戊戌の変法の遺産となって、進退窮まった京師大学堂も、速成の師範コースに変更された。



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当時、大学堂は官吏が採用されるごとに、速成し、教師は高位の官員で、学生は仕事を始めたばかりの小官吏であった。

彼らの入学の目的は、出世と金儲けであり、根本的に彼らは学問をする場所とは考えていなかった。

当時、多くの学生は秘書、子分まで引く連れ、一日飲食や娯楽をして、ぶらぶら遊び、学術を行わない、官僚が流行し、いつも八大胡同をほっつき歩いていた。

つまり、初期の京師大学堂は、根本的に高級学府ではなく政壇への踏み台であった。


正にこのため、友人達は自然と蔡元培がこのような悪に満ちて混乱した場所に行くことを望まず、もしうまくできなければ、確かに彼の名望を損なう事にもなる。

だが孫文は、北京は帝王官僚の気質が濃厚で、蔡元培に革命思想を伝播し、教育を取り仕切りさせるのは一番適当であった。

これには蔡元培も心から賛同した。

ここへ来る前に、彼には、北京大学の役所方式の学校の様子を変革し、北京大学を自由民主的な学問の場とする願いがあった。

蔡先生が初日に登校した時、北京大学の職員は皆自主的に隊列を組み、恭しく新学長に挨拶をした。

この状況を見て、蔡元培もすぐさま大衆に向かって帽子を取り、微笑んで挨拶した。

この一行為は蔡元培には、ごく普通に思えたが、北京大学構内では熱烈な議論を引き起こした。

畢竟、過去の13人の学長は誰人としてこのようにせず、学校職員達にも丁寧に礼を尽くしたものは居なかった。

この事を知った蔡元培はすぐさま「北京大学構内の人間は、教師・学生・職員を問わず、人格は皆平等で、今後は仕事仲間と呼ぶことにする。」と告知した。


北京大学で仕事を始めて間もなく、ある人が蔡元培に「仕事仲間の何以荘は文章の条理に明るく、謙虚で向上心があるが、家庭が貧しく退学を考えているが、学長にその才能を使用することを建議します。」と書信を出した。

蔡元培は書信を読み終え、考察を経て、破格の扱いで、何以荘を文科系の教務所の仕事へ異動した。

この事件をきっかけには蔡元培に夜学部を開設する決心を啓発した。

彼はまた学友達に「労働学友の夜間学校が間もなく開校し、教授先生に彼らへの講義をお願いし、また彼らへの提案も求める。」と書信で語った。


間もなく、ある仕事仲間が彼の父親のために寿聯(誕生祝いの対幅)を書くように蔡元培に頼み来たが、蔡元培は書き終えると、学校に夜学を開設することについて意見を求めた。

この仕事仲間は嬉しそうに、「それは良いことだ、私は北京大学に20年余り止まっているが、数文字が頭に入っただけで、手紙を書く事さえ人頼りなのだ。」

「以前の用務員は皆召使いで、ご主人様達が教室に坐り、我々は入り口から入る事さえなかっただけで」「以後夜学が開かれれば、我々も教室に入ることができるのは、考えただけでも素晴らしい。」と言った。


蔡元培は聞くと大変喜び「人には貴賎の区別はないが、仕事には困難簡単があり、給料も良い悪いがある」

「以後夜学を開いたら、荘君のような人材を発見したら、我々はきっと採用するだろう。」と答えた。

1918年3月18日、蔡元培は北京大学月刊に用務員夜学の挙行を発表し、中国語、算数、理科、修身と外国語などのコースを開設した。

開校式当日、彼は講演を発表して、大約すると「一般には、学校は学生のために設置し、職員とは関係が無いと認識されている。しかし実際は、誰もが国家と利害関係がある。だから誰でも、いつ何処でも学習すべきなのである。」と言った。


蔡元培の提唱と努力の元で、北京大学は用務員の夜学を相次いで開設し、全国最初に大衆のために門戸を開き、大衆のために、科学的で民主的な保有する新学風を保有する学校となった。

1920年、蔡元培は、北京大学に女学生を募集するという、天地も驚く決定をした。

ある人は彼にまず政府教育部にこの募集の許可をするべきだと忠告したが、彼は逆に「大学令には男子学生の募集だけとは言ってはいない。」と答えた。

この措置は、間違えなく全国での男女共学の先例を開創した。

彼はまた北京大学でに研究所を設立し、学術団体を組織し、学術刊行物を出版し、東西の学術交流を促進した。

こればかりでなく、彼は教員と学生に造詣(ぞうけい)の深い研究の機会を提供し、学術研究への関心を深めた。

このような教育の見通しで、北京大学はかつての役所的な大学堂から、短期の数年の内に、中国新文化運動の中心となることができた。


しかし当時、北洋政府の官僚主義のやり方は、常に北京大学に影響していた。

蔡元培は政府部門の各種の公文書と検査に対応したので、根本的に学問の研鑽(けんさん)に集中できなかった。

そのため、彼は7回も辞表を提出したが、一度も政府に認められず、心中では更に如何ともし難く感じていた。

このようであったが、北京大学は彼の在職期間に、天変地異の変化を起こして、全国的な教育方向に影響した。

蔡元培先生の貢献はその効果は偉大で、彼は一学長の身分で、民族と時代の転換に重要な作用を引き起こし、これは正しく「北京大学の永遠の総長」の名に恥じないのにであった。