山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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青島ドイツ下水道の背後の血と涙の秘史〜砲台山海難の怨霊とカトリック教会の生体解剖


青島下水道

1898年、清朝の脆弱無能(ぜいじゃくむのう)さで青島はドイツに、期限99年とした租借を迫られ、また青島に商業港と自由貿易を開闢(かいびゃく)し、山東地区の鉱山を自由に採掘することを許可した。ドイツ人は租借の成功を慶祝し、信号山西側に記念碑ー基を建立し、碑面に上部にはドイツの王冠を紋様とし、碑文には青島を99年間租借することを刻んだ(後に1918年に、日本がドイツ人の手中から青島を奪った時に、大日本帝国碑記に替えられ、ドイツ人同様に租借期間を99年と同じくし、1922年に青島が中国に返還されると当碑は排除された。)。同時ドイツ人は中国に関税自主の権利を認めていたが、実際には、税関総務司はドイツが派遣し、税関監督は中国が委任し、税関の主権は実際にはドイツ人の手中で操作した。彼らの輸出入の関税は、随意に減免された。


堅固に青島を占領するために、ドイツ人は青島に入って間も無く大規模な防御工事の建設を始めた(摩訶不思議な青島の下水道は実際は防御港の一部であった)。ドイツ人は最低の食うだけの賃金で中国の労働力を雇用し、労働時にドイツ人が監視したが、一人のドイツ人は100人あるいは200人を監視することができた。

これは純粋に奴隷式労働力であり、種族主義の思想のドイツ国の監督の目には、中国人労働者は、第二次世界大戦中にドイツナチスの眼中のスラブの賎民と全く区別がなかった。自由に鞭打ちや足蹴に出来ない時は、その辱めを受けるものは往々にして完膚なきまで打ちのめされた。労働者は大小便にも一定の時間があり、時間を守れない時は鞭打ちされた。毎日夜明け前に作業が始まり暗くなるまで続いた。昼は昼食以外に休憩時間もなく、それで怪我人や欠陥者が絶えなかったが、〜障害者保障が必要だとは、それはあり得ないのである。


青島ドイツ倶楽部

ドイツ人はこのように戦争捕虜や奴隷の手段で千万の中国人労働者を横着して大鮑島を開拓して、掘り出した石材で小港の埠頭を建設したが、小鮑島から一掃された石材と土砂は大港の埠頭と風台嶺の火薬庫を修築し、匯泉砲台を建設した時には、砲台外部で働いた労働者は砲台内部には進入できず、砲台内部を建設する人も、入っても外出は許されず、飲食排出は暗い太陽の無い砲台内部で行った。このように謀っても、ドイツ人は安心できず、砲台が竣工した時砲台外部の塹壕(ざんごう)を作っていた労働者を別の場所に移し、彼らのその他の軍事行程の建設をしたほか、砲台内部の数百人の労働者は全員軍艦に乗せられ、彼らに故郷に帰ると説明した(そこには広東人が多かった)が、実際には海上で毒殺され海底に葬られ、徹底して秘密の漏洩(ろうえい)は排除されたが憐れむべき数百人同胞は、このようにわからぬままに海中の彷徨う霊魂となり、噂にはなったが、当時の中国では誰一人も正義を主張するものはなかった。当時の中国人の命を守るは、全く価値のないものであった。


青島砲台山遺跡

1908年、山東省で伝染病が流行した。ドイツ語でペストと言い、コレラに似ていた。そのためドイツ人は青島から市外へ通じる主要道を厳格に守り、自由に出入りできないようにした。

滄口に伝染病の検査検疫所を設置し、検査を経たのちに発病の有無に関わらず一律一週間野宿させ(今日の隔離観察に相当、当然ドイツ人は食料と住居を承諾しなかった)、それから人やカバンを全て消毒し、更に身体検査を一度行う。続いて市内で職業があるかを質問してやっと入ることが許される。四方の区に行くたびにドイツ人医師により精密検査を行い、確かに発病していないとされた者はようやく入市証明を得て市内に入れる。もし市内に住む中国人の場合は、この伝染病でなかったとしても、嘔吐(おうと)の症状が現れたら即座に「ペスト」であるとされ、すぐに伝染病病院に送り込まれて矯正(きょうせい)治療をを受けさせられた。しかしドイツ人が本当に中国人を治療できるのか??実は伝染病病院に入った者は生存者が極めて少なく、ドイツ人は皆病死だと言い訳をした。しかし結局雑用係が一連の状況を漏らした。例えば当時の有名な荊徳成という瓦職人がいたが、作業時に渇きで冷水を飲みすぎたため(ドイツ人は根本的に湯を与えなかった。)、たまたま吐瀉(としゃ)を患い、巡査に見つかり、伝染病病院に強制的に送られたが、治療も加えられず、一晩過ごすと、病も自動に良くなり(ただの下痢であった)、退院を申し出たが、ドイツ医者は許さず「君の病気はまだ良くなっていない、検査が必要だ」と言った。彼の抗議にも関わらず、護衛を呼んで荊徳成をベッドに縛り麻酔を掛け、生きたまま解剖されたのだ。何の言われもなく生きていた人がこのように実験台として殺されたのである。この事が明るみに出ると、荊徳成の妻は痛恨(つうこん)激しかったが、殖民地の人民には仇討(あだうち)する方法が無く服毒自殺しかできずに、一条の人命を添えてしまった。流行病中にドイツ人医師が解剖した中国人の多さは、永遠に秘密とされるのでであろう。


活体解剖

同時のドイツ人が青島で設立したカトリック教会とイエス教会があるが、宗教的同化を宣伝し中国人を愚弄(ぐろう)し、その数えに入ったものは職業を得て食ってゆけたので、多くの人が求職のために入信したが、入信した人々は多数愛国心があり、入信は食べるためであり、四六時中青島は我ら中国人の領土であると言うことを忘れなかった。しかしその中の少数の教徒達は宗教勢力に頼って勝手横行し、皆からニ鬼子と呼ばれた。被害者は数え切れず、当時水師工業学校の学生で名を孫来勝と言う教徒は、甘んじてドイツ国人の鷹狩や猟犬のように手先となり、ドイツ人は彼を工事の監督に取立て、毎日2〜300のアルバイトを駆使して大港4号埠頭で重い肉体労働をさせた。アルバイトの毎日の工賃は、ドイツ人の発給は少なく惨めな二銭五厘であったが、現場監督はその内5厘を搾取(さくしゅ)することを求めた。同級生の李青選は、家計が困難なため、20歳余りの弟を青島に呼んで、孫にアルバイトを頼み、仕事後は例によって李青選の賃金は5厘を引かれたので、李は孫来勝と同級生の関係であったので、毎日不足なく二銭五厘を、権利として正す事を要求したが、拒絶され、孫は「これは規定であり、何人も5厘は差し押さえられるものである。」と言った。李青選は一家が生活する給料を選んだので、恨みを免れず、同時に搾取された群衆も皆不平が紛紛(ふんぷん)とした。しかも孫来勝は搾取した汗水垂らした所得で、酒屋や遊女館で気ままに浪費していた。ある日曜の夜、孫来勝が酒に酔ってから愛人の家に行こうとすると、李青選がその付近に潜伏して待ち構え、孫来勝が到着すると、李青選は利剣で孫を刺し殺してしまった。その愛人はドイツの駐在警察に訴えたので、李青選は逮捕されたが、李青選は全く恐れず二つ返事で承認した。


1914年 青島のドイツ軍

孫来勝はドイツ人の忠実な手先であったので、ドイツ人は権威を樹立するために、この時ドイツから遠く運ばれてきた新しい殺人凶器の、機器鍘(サク=ギロチン)という名の設備で李青選を処刑した。また特に処刑場所は青島の嘗ての臬台衙門(地方行政監督役所)内が選ばれた。新設備で初めて実際に殺人をしたので、ドイツ人は役所の入り口にチケット売り場を設置して、ドイツ人で死刑の過程を見に来たものだけに販売され、価格は二種あり、座席は一元、立席は5毛(0.5元)であり、中国人はチケットを買えなかった。処刑時に騎馬役人は「李某よ李某は家に帰るのに、一から数えて、百になったらすぐに昇天する。」と言った。李青選は憤怒極まりなく、大怒りで、高らかに「学友達が中国人の報復のためにドイツの鬼を皆殺しにするぞ「」と言って、数えることを拒否した。役人は彼に変わって七つまで数えると、人の首が地面に落ちた。この時李の二千人余りの学友達がニュースを聞いて、初めて秘密会議を開き、暴動の準備をしたが、ドイツ人は防犯を厳しくした(この時学校及び宿舎、作業場所は皆監視で包囲されていた)ので、他の対策をせざるを得なかった。最後は、20名の学生が選ばれ済南山東省巡撫へ行き、巡撫は説明を求めたが、青島へ来たドイツ人の交渉するしか、どうすることもできず、ドイツ人に自制して欲しいという希望を婉曲に表示するしかなかった。最終的に凶行を行ったあの機器鍘を済南に持ち帰ったが、その他一切は元のままであった⋯⋯。


ドイツ人造の青島汽車駅


今日の青島