汪兆銘は暗殺活動を行い、陳璧君は10個の卵を送り、汪兆銘はすぐに指を噛んでラブレターを書いた。
1910年、27歳の汪兆銘が摂政王載灃を暗殺し、19歳の陳璧君が彼に10個の卵を送った。汪兆銘は感動してその場で指を噛み、血でラブレターを書いた。
汪兆銘が漢奸になる前に、彼と妻の陳璧君の愛は、一時の佳話として伝えられた。
陳璧君は標準的な白富美で、マレーシアで生まれ、父は南洋巨富の陳耕基です。
彼女は幼い頃から衣食に憂いがなく、賢くて勉強熱心で、進歩書や雑誌を読むのがとても好きです。そして漢奸になる前、汪兆銘も「進歩青年」だった。
彼の文字は、よく同盟会の機関新聞に掲載され、文筆が鋭く(するどい)、道理が透き通っている。
陳璧君は「精衛」という作者がとても好きで、19歳の時、彼女は実人に会い、一目で情を決めた。
汪兆銘(精衛)の出身は、陳璧君ほど良くない。
彼は貧乏な少年で、父親は意気地(いくじ)の利かない文人です。13歳の時、両親が相次いで亡くなり、兄に頼って生活するしかなかった。
幸いにも、汪兆銘自身は意気地があって、その後秀才に合格し、また留日官費生に合格した。貧家の子弟にとって、汪兆銘は逆襲の道を歩んだと言わざるを得ない。
1910年、19歳の陳璧君は27歳の汪兆銘(精衛)に告白するが、却って悲惨にも拒絶された。
この時汪兆銘は、女性の色香(いろか)に興味はなく、一心不乱に事業に専念していた。
しかし金持ち(の娘)は、自然と簡単には自分の愛した男性を手放さなかった。
そこで、陳璧君はすぐさま汪兆銘について日本へ行った。
1910年3月、汪兆銘は軽率にも清朝政府の摂政王載灃刺殺しようとしたが、事は明るみに出て、彼は無期懲役の判決を受けた。
この時陳璧君はまだ情深く見守っていた。
彼女は四方に人を頼り、牢役人を買収し、汪兆銘に長い手紙と、玉子10個を送った。
この入獄は、汪兆銘にとって人生のドン底であった。
終身監禁され、うまくいかなければ一生出られないかもしれなかった。
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だが陳璧君は意にも介せず、彼女は汪兆銘が好きで、たとえ彼女が一生できなくても、彼女も彼が好きであった。
手紙を読み、手にした玉子を見て、汪兆銘は大変感動した。
彼は自分の指を咬み破り、鮮血で陳璧君に愛の詩を書いた。
そして陳璧君を巻き込まれないために、彼は彼女の手紙を破り捨てようとしたが、どうしてもできず、遂に呑み込んでしまった。
1911年、圧力に迫られ、清国政府は汪兆銘を釈放した。この事件は、一時で美談となった。だが、この夫婦が、意外にもこの二人が売国の賊となるとは、誰も考えていなかった。
1944年、61歳の汪兆銘が亡くなると、夫の死後の安らぎを守るために、陳璧君は多大の苦心を費やした。
彼女はまず夫の死体に、防腐処理を進行した棺桶(かんおけ)を埋蔵後、彼女は5トンの粉枠鋼鉄をコンクリートに混ぜて、その後分厚い墓蓋とした。
陳璧君は、自分と夫の売国行為が、勢い全国人民に唾棄(だき)される事だろうと知っていた。
だから、彼女はこの堅いコンクリートが、絶対に夫の死後の尊厳を守ってくれることを望んだ。
当然ながら、彼女は惨敗した。
二年後、大音響と共に、汪兆銘の墳墓は直接爆破され、その後、彼は火葬場に送られ灰となった。
日本の敗戦後、陳璧君の日々は良いものでなかった。
彼女は関東の義弟の元に亡命したが、しかし落ち着く間もなく、蒋介石に逮捕され、南京監獄にぶち込まれ、鉄柵窓の生活が始まった。
最後は、「敵国スパイ」の罪で、無期懲役となり政治的権利と全財産を剥奪(はくだつ)され、必要な生活費だけが残された。
1959年、68歳の陳璧君は心臓衰弱で病死した。彼女の子女は皆海外に亡命していたので、誰も彼女の遺骨を拾ってくれるものが無かった。
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