フレンドリー山東(威海李君)

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悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
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漢字の造字法(文字の作り方)

フレンドリー山東(威海李君)

蒼頡の文字創作の話は、中国の歴史に残っていることは既に知っているが、あくまで後人の伝説である。漢字の総数は5万字を超えるが、誰か一人が発明したとは考えにくく、数千年の間に無数の人々が作り出したものである。

私有財産がない「原始射会」では、文字は何の役にも立たなかった。文字の歴史は紀元前3000年頃からと言われています。その頃、私有財産が争われるようになり、一族の長は、シャーマンが記録して後継者に伝えるべき大きな出来事が二つあると考えた。一つは英雄の功績、もう一つは食料と毛皮、牛、羊、豚、犬の所有権と土地と家屋の所有権であった。特に市場で取引する場合は「これは私のもので、あなたのものではない。」と文字で示さなければなりません。更に、物資の量を示す記号も描かなければならなかった。この奇抜な記号こそ、文字の萌芽(ほうが)であったと言えるかもしれない。しかし、記号そのものは「これは誰かが描いた、記号だ」という段階で止まってはいない。昔は穀物桶やクリーム壺などの貴重品を持っている人が、桶や壺を焼く時に独特の記号を刻んでいたそうです。このシンボルは四角であったり、丸であったりしますが、いずれにせよ、その人特有の、自分だけのデザインなのです。これは所有者が世界に向けて「これは私のものだ!」と宣言する権利を表しているのです。


漢字の造字法は人々が造字の過程で次第に形成されたものである。造字自体と同様に、一人の発明ではなく、ましては誰かが先に造字法を制定してから造字されたわけではない。しかし、漢字が一定数に達した時、漢字の造字法について纏める人が出始めた。此処で戦国時代に成立した『周礼』に、造字『六書』の見解が出現した。

しかしながら『六書』に対する具体的内容は、『周礼』には説明が加えれていなかった。後漢になって、文字の聖人許慎が中国最初の字典『説文解字』で、六首の造字方法に要約を加えて、「象形、指事、会意、仮借、形声、転注」

と称した。


一、象形

最初の漢字は、大多数が絵文字のような文字であった。これらの文字は形で意味を表す象形文字で、甲骨文、金文、小篆などの早期の書体に特徴が大変顕著である。象形文字は図画から発展してきたものであり、「形状」があり、「画像」でもよく、具体的な事物の形象特徴を根拠にして、最も簡単な符号でそれを描き出し、発音を結合して文字を形どっている。許慎は「象形とは、画でその物を成し、体の詰詘(屈折)に随うものにして、日月是なり」と説明している。
一般的に使用される全ての漢字の中で、象形文字が占める割合は極僅かです。「説文解字」には9,000を超える文字が含まれていますが、象形文字は364文字しかありません。漢王朝以降の千年以上の間に、「傘、凹、凸」等の幾つかの象形文字だけが追加されました。象形文字の総数は少ないですが、全ての漢字の基礎です。

例えば、  「乂」は古代の最も基本的な描写記号に由来する象形文字です。文字としては、刀と剣の交差を意味し、草のように人を殺すことを表して、実際にはそれは延伸の字義です。その人間が文字を創り始めた当初、「乂」という字は草を刈るための刀で、畑の草取りに使われました。左右の草刈りの痕跡は「乂(交錯)」という意味です。学生のテスト用紙に文字が表示されている場合はエラーを意味し、何処かの道路標識に表示されている場合は通行が禁止されていることを意味します。この符号を人の身体に刻むことは「爽、凶、匈、胸」表示されている紋身符号を意味します。
象形文字の殆どは、他の文字の基礎となる独立した形状です。独体の指事文字を生成するだけでなく、合体字中の会意字と形声字を生成するだけでなく、かなりの部分が象形文字で構成されています。漢字の形状変化は徐々に発展する性質があるため、多くの漢字は基本構成要素として象形文字を使用しています。例えば「人」は「企、伐、侄、倹、仙」等文字の字根であり、「貝」は「財、賈、購、貿、狽、敗」等の文字の字根であり、「馬」は「驢、馱、駕、媽、駡」等の文字の字根であります。

二、指事

「魚」と書きたい場合は魚を、「日」と書きたい場合は丸を描きます。象形は文字を作成する最初の方法です。しかし、現実の世界には、直感的な視覚イメージを持たない客観的なものや自然現象が数多く存在しますが、言語には絶対に欠かせないものです。「上」と「下」は一般的な文字です。しかし、誰がそのような象形文字を作ることができるでしょうか。刀を描くのは簡単ですが、刃を表現する文字をどのように作成しますか。木を描くのは難しくありませんが、梢や根を描くのは稀です。このような難しい問題に直面した時、象形文字で作成された文字は無力です。実用的な文字として、これらの抽象的な意味を文書化し、表現する必要があり、この問題を解決するために、古代人は意味を表現する新しい方法を発見しました。それは漢字『六書』の第二番目の指事と三番目の「会意」と指します。
「指事」とは、より抽象的なものに対して、実際の絵では描けない文字を書くことであり、幾つかの記号で指摘しなければならない。または、既存の象形文字に基づいて、単純な指標記号を追加して、新しい文字を構成します。

上の二つの文字は、共に象形文字で、跪く二人の女性を表している。いったい何方が生娘で何方が子持ちの母親だろうか。昔の人は早くから未婚の少女と子育て中の母親の最大の違いは乳母の有無にあると気づいており、「おっぱいのあるのが母ちゃん」で、乳母を表す「母」の字の二つの点に「指事符号」と言い、「指事」の重点を指し示すものである。

また「上」と「下」は、共に純粋な抽象符号で作られた新字である。例えば、円弧の地平線の上に一つの指事符号を加えると上であり、水平線の上であることを表す。地平線の下に一つの指事符号を加えると、下であり、水平線の下であることを表す。  「上」と「下」は何方も一本の長めの弧線で位置の境目を表している。一本の短めの横画が上に有れば「上」を、下に有れば「下」を表している。
後に、金文は上を「丄」と書き、「加える」という意味で、数学の演算の「加法」を表した。下を「丅」と書き、「減らす」の意味で、数学の演算の「減法(げんぽう)」を表した。

刃物の「刃(やいば)」は、象形文字の基礎に簡単な指示の印「丶」を加えて新字を構成した。刃の主体は刀あり、小刀の形状を象っている。その後刀口の上面に一点(丶)を加えて、特定の部分を示して、「刃は此処にある」ことを示したものが、刀刃(の文字)である。正に『説文解字』が言う所の「刃は、刀の堅き(ところ)なり、刀に刃有るの形を象る。」である。
木下に横一を加えると、「本」であり、樹根を表示している。木の上に横一を加えると、「末」であり、木梢を表示している。本の字の根源は木であり、「木の根元」の意味であり、甲骨文では   、 、と書き、本体は木の象形文字であり、一本の木を示し、下にある三つの「○」は指示符号であり、樹根がある位置を表示している。金文は(本)となり、小篆でも本となり、皆三点を横一に改めており、これも一個の指示符号である。楷書では「本」となり、樹木の形象は漸く消失した。同様の道理で、末は「末端」の意味である。金文では末となり、  木の上方に短い横一で樹木の末梢を表示している。小篆では末となり、短い横一を引き延ばしていて、後に「末」となった。
指事文字の表示している概念はかなり抽象的であるが、象形文字から完全には離脱してしていない。正に許慎が言うのは「指事とは、視て識るべし、査(しらべ)て意を見るべし、上下是れなり。」である。意味は、指事文字は完全には象形を離脱していないので、看てすぐに認識できるのである。比較的抽象的な概念を表示しても、仔細に観察すればその意思を明白にできるのである。
指事文字と象形文字の共通点は、この両種の字体は二つあるいは二つ以上の独立した部分(偏旁)に分解できないので、それらを独体字と称す。指事と象形の違いは、象形文字は実物の形象である。指事文字は単体で実物の形象(象形文字)に指事の符号を付け加えた、あるいは純粋な抽象的な符号である。
しかし、抽象的で、複雑な、象形出来ない意義を、簡単な符号で表示することは、畢竟比較的困難である。また、本当に抽象的な意義は、像にするべき形もなく、また「指事」することもできない。例えば「休息」の「休」、「忍耐」の「忍」は、これらの「事態」は理解出来ても、口伝え出来ず、どのように「指さし」ても明白には指定出来ないのである。また指事文字と象形文字はと同様で、一般に皆単体であり二つの文字には分解できないのである。そのため、漢字の中の指事文字は象形文字に比べて遥かに少ない。『説文解字』に収録された指事文字は僅か125文字である。漢代以後、基本的には新しい指事文字は作られていない。作りたくなかったのではなく、本当に作れなかったのである。

三、会意

我々が平常言う所の「文字」、「単体を文、合体を字」の二つに分類している。許慎は『説文解字』で「倉頡の初めて書を作(な)すや、蓋し類に依り形を象る。故に之を文と謂う。その後形声相益、即ち之を字を謂う。文とは、物象の本なり。字とは孳乳して寖々(みちみち)て多きを言うなり。」という。この段落の話の意味は単独の「文」は自然に存在するものに源があると言っている。例えば:日、月、山、川、水、火、阜、土、石、鳥、獣、人、大、身、頁、首、耳、口、自(鼻)、目、手、左、右、足、止、牛、羊、馬、鹿、魚、宮、室、刀、舟、車、戈、等等。文字の出現する順序から言えば、まず文があり、後に字がある。両者の関係から言えば、文を使って造字したものが「字」である。

漢語の専門家には「孳乳」という特別な言葉があり、少なきから多きに到る、単純から複雑に至る造字の過程を示している。例えば人の字は、元は一個の「人」の形であり、人体を描いて、「尸」(という字を)造出した。人の両腕が垂れ下がったものが、「氏」に変成した。両手が垂れ下がった地面から「底」に変成した。腕を支える動作を強調するために、「抵」を造出した。両手を下に向け、地面に触れる位置から「低」を造出した。床は部屋の中で一番低い位置にあるのが、当然「底」である。これらの系列の常用字には、また官員宿舎を表して「邸」があり、刀を磨く石を表す「砥(と)」があり、中傷することを表す「詆」などがある。人体動作から派生している「人、尸、氏、氐、抵、低、底、邸、砥、詆」等等の一連の文字が発生している。これらの造字の過程は、つまり「文」から「字」が発生する過程であり、これが「孳乳(=派生)」と呼んでいる。
(文字の)文と何か?文は紋様であり、線条であり、痕跡である。蛇が砂を這った痕跡が文であり、枯れ葉の葉脈も文、大通りの泥に残る轍(わだち)も文、野獣の体内の血管も文、水流の軌跡も文、風が揺れるの流痕も文、大地のひび割れも文、青空に浮かぶ雲も文である。世間一切の痕跡が「文」であり、「紋」である。「文」の初期段階では、自然の痕跡を模擬して形成された「象形文字」である。人間世界最初の造字者が、天地間の文様の痕跡を看て、無意識に意味を模倣して、最初の「文」を書いたのは、一種の偶然であったのであろう。
社会の発展に随い、新しい事物が間断なく増加し、表達すべき概念は次第に複雑になり、僅か数百の単体の象形文字と指事文字では、既に言語の運用の需要には応えられなくなっていた。そこで我々の祖先は単体の文字を基本に合体した文字を創作した。合体文字は二個または二個以上の単体字を組み合わせて、新しいもの、通常は抽象的な意味を含む文字を、表示できるようにしている。この種の造字方法は会意文字と形声文字が含まれる。
許慎は「会意とは、類を比べ誼(すじみち)を合わせ、以て指揮せしむる、武・信(の字が)是れなり。」という。類を比べるとは、つまり二個または二個以上の文字を合わせて一文字とする。誼を合わせるとは、つまり「義を合わせる」であり、二個のもじの意義を組み合わせてできるものである。以て指揮せしむるとは、つまり中より新しい意義を見い出すものである。
通俗的に言えば、いわゆる「会意」とは、その名の通り、「一目でその意味を理解できる」ことである。一本の糸では紐(ひも)にはならず、一本の木では林にはならない、会意文字は二個あるいは二個以上のものの形の符号あるいは単体文字の組み合わせて、別に新文字を創作する方法である。
多くの会意文字は大変興味深いもので、先人達の豊富な連想と超人的な知恵を透過させている。例えば「日」「月」は、共に発光するが、正にこの二つを合わせて「明」字を作るが、意味は二つの発光物を合わせて「光明」の意味するを表示している。この字を見て、その意味することを理解することができる、つまりこれが「会意」である。また「看」は、「手」が「目(まなこ)」の上に在り、当然「看」の意味である。「人」が「木(樹木)」の傍に倚って「休息」しているの意味である。「炙る(あぶる)」は、肉の下に火があり、これは「肉を焼く」の意味である。「爪」が「木」の上に乗れば、つまり「載」で、手で樹上の果物を取る事である。「掰」は両手で一つの物をつかむ意味である。これに類した諸々は、単体の文字を合わせて新字を作り、これを見れば即その意味がわかり、一目見れば以心伝心するものである。
会意文字には二種類があり、一種は異体会意で、もう一種は同体会意である。異体会意の字は二個あるいは、二個以上の違う形の文字の組み合わせで成立している。例えば:「莫、盥、典、鳴、休、焚、取、伐、跌、忐、忑」等等が有る。同体会意の字は二個あるいは、二個以上の同じ形の文字の組み合わせて成立している。例えば:「林、森、晶、舜、頹、双、多、哥哥、從、比、赫、棘、众、磊」等等があります。
またある種の会意文字には二個あるいは数個の同様な字素を重ねて組成したものである。二文字を重ねたものの多くは左右並列の構造で、三文字を重ねたものの多くは塔形の上下構造で、見たところ体操中の羅漢達のようで、例えば三個の「人」で「众(眾、衆)」を組成し、三個の「火」で「焱(エン、炎)」を組成し、三個の「木」で「森」を組成するなどである。
会意文字の造字要素は単体の文字に限らず、二個あるいは二個以上の現存形態の組み合わせにより、それらの連係や配置に依り一種の新しく、一般的に抽象的な意味を表現するものである。例えは「刀」、「牛」、「角」を一緒に合わせて解剖の「解」の字を作り出す。人が小屋の草藁の中に入り込み、外の地上が凍ったいれば、寒冷の「寒」の文字を表示し、木柵で小屋と草積を囲んで、人の居住する「寨」の字を構成している。
幾つかの会意文字は、古代人の特定の概念を反映するために作られました。例えば、「盗」は盗みを意味し、「盗」の上半分の「次」は口を開けて涎(よだれ)を垂らすという意味で、下半分の「皿」は食べ物を入れる道具を意味します。「盗」という意味を表す文字には、どのようなものがあるのでしょうか。古代人は、次と皿の二つの文字で表現しました:美味しい物は盗みの対象であり、これは非常に特別な連想であり、従って、古代人造字の表現が表現力豊かで、非常に大胆で率直であることも分かります。ユーモアのセンスもあります。
また、文字の形の変化が多きすぎるため、文字のソース(来源)が見え無くなったしまったので知っている文字もある。一部の文字は、文字のように見えるのではなく、記号のように見えます。実は、それらは古代の文字の変形(デフォルメ)です。今ではそれらを部首または偏旁と呼んでいます。例えば、「家」という文字の上半分は、、昔の家の絵文字として書かれていました。下の「豕」は豚ですが。当時、豚は非常に重要な財産であり、人と豚が同じ家に住むことが多かったため、豚のいるところには家がありました。
更に婦女の「婦」の字は、なぜ女偏に横向きの山が付いているのであろう。これは字源の分析の問題である。「婦」字の左の「女」は婦女の事で、「帚(箒)」は綺麗に掃除する箒の事である。甲骨文の   、 、帚は乾燥した芦の穂を縄で縛って作った掃除道具である。金文は下に「冖」を加えて、しっかり縛って、結んでいることを強調している。篆書の   「帚」は掴む動作  「又」に横になった「丰」を組み合わせていて、「丰」は古文の「彗(篲)」の省略で、箒の形の彗星を表示している。後に地面を掃く「帚」が箒(ほうき)を代表するようになった。篆書はこの字の横に「手」を加えて地面を掃く動作に替えている。地面を掃く人は、正に「女」と「帚(ほうき)」を一緒にし、意味は婦女がほうきを持って家で部屋を掃除するものである。「女、帚で婦となる」ことは「力、田で男となす」ことと同様に、当時の「女は屋内、男は野外」「男は野良、女は機織り」という社会状況に符合している。
幾つかの例を見てみよう。これらの会意文字の多くは古文文字の字形を借りてようやく表示できるもので:

歩は甲骨文ではと書き、金文では「」と書き、前後二個の足型を型取り、「歩行」を表示している。

渉の意味はズボンの裾を捲り上げて川を渡ることで、甲骨文では   、と書き、金文では   、 、 、書き、表す所の意味は同様に、「歩」と「川」により組成され、両脚で水流を渡ることを意味している。
会意は漢字の造字の一大特色である。会意を通して、単純に象形文字あるいは指事文字を用いて伝えにくい複雑な概念や物事を表現することができる。会意は象形と指事の限界を補うために創造された方法である。象形と、指事と比べて、会意の方法には二つの明らかな有利性がある:まず第一に、それは多くの抽象的な意味を表すことができます。第二に、その後造字機能は非常に強力です。「説文解字」には、象形文字や指事文字を合わせたものよりも1167字多い。会意文字は二個、あるいは二個以上の形体から組み合わされているため、組み合わせて多くの新しい文字を作成することができる。「人」と「木」を言うと、人と人は「従、众、并、北、化」等として組み合わせることができ、「人」は「信、保、伐、戍、付、伍」等と他の形態と組み合わせることができます。「木」と「木」は「林、森」と組み合わせることができ、他の形と組み合わせることができ「析、相、采、困」等です。会意文字は二個、あるいは二個以上の形体の会合であるため、多くの抽象的、象形や指事で表せない意味を表すことができる。会意文字の出現は、漢字が単純な表形段階から表意段階へと発展したことを示しており、これは造字方法における大きな進歩である。

四、仮借(かしゃ)

仮借とは音が同じあるいは相似した文字で相互に借り換え、両字の間には必要な意義の連係はないものである。許慎は「仮借とは、本と其の字無く、声に依り事を托す、今・長がこれなり。」と言う。
所謂「声に依り事を托す」とは、一個の新意義を表現したい時に、逆に根本的にこの意義を表現するもじが見つからない時、そこで既にある同音の文字を借用して交替するが、この文字は本来はこの意義は無いのであるが、発音を同じにしているのに過ぎない。例えば「其」字は本来「簸箕(み、ちりとり)」であるが、後に代名詞として借用した。「亦」字の本来の意味は「腋」で、後に副詞として借用した。以上の例から見れば、この種の仮借を「声借」と称す所以(ゆえん)であり、それは一種の新字を産出しない「造字」方法である。
象形、指事、会意は、全て字形を通して文字の意味を知ることができる、つまりそれは言葉の意味記録するものである。つまりこの漢字の三種の造字方法は、三種の漢語を言葉を記録する方法でもある。それでは、もし全ての漢字がこの三種の造字方法でできていたならば、(漢字を)学習することはどうしても簡単ではないのであろうか。しかし、漢語には複雑で、これら三種の造字方法では直感的に字形からは表現できない、抽象的な言葉が多くあり、例えば方位を示す幾つかの名詞(東、西、南、北等)、性質を示す形容詞(難、易、驕等)、人や事物を指す代名詞(我、之、其、爾等)、特に具体的な意味を持たず、単語や文章間のある種の関係あるいは文の虚詞=助字(之、乎、者、也等)であり、全てこれは三種の造字方法では直接それらを文字を創作することはできない。
言語は社会の発展に従って発展し、新事物の概念は次第に多くなる。言語を記録する時に、往々には象形、指事、会意の三種の文字の造字方法で新字を作れない場合、あるいはてきぱきと新字を作れない時は、既にある同音字を借用するだけであり、これが仮借文字である。
我々は、文字は単に言語を記録する工具に過ぎないことを知っている。漢字は漢語を記録するもので、古代の漢語の大多数は単音節の言葉で単体の漢字が単語に応対して、文字の音や意味が、実際には単語の音と意味に対応していた。造字の時の字形は記録される詞の本義を体現するために使用され、「造字本義(自が作られた時の意味)」と呼ばれる。象形、指事、会意の三種の造字方法は、一般に造字の本義を反映している。しかし、もし上記に言ったようにこの三種の造字方法で直接表示で着ない意味の言葉も多く、ただ既にある同音の文字を借用して発音を記録し、文字本来の意味はどうであるかとは、顧みられなくなった。
『戦国策・斉策』によれば、戦国初期の斉は強大な国で、戦国の七雄の一つでした。斉威王は、政を田、名を嬰斉と言って、いつもつまらない人達に囲まれていました。一日中、威王の賛美を歌い、威王を満足させていました。折しも洛陽には、弱いながらも天下の君主と名のついた「周の天子」がいて、威王の機嫌を悪くしていました。ある日突然、周の天子が死にました。丁寧言うと「崩御」、「辞席」とも言います。威王は特使を送って弔問しましたが、周の太子の機嫌を損ねました。太子は、自分の父が死んだのは、天地を揺るがす大事件だから、諸侯自ら来るべきであって、ただ使者を出すべきではない、と考えたのです。すると、周の太子から使者が来て、「天子が崩御し、大地が動くにも関わらず、東海藩臣の田嬰斉が遅々として来ないのは、何の罪に当たるでしょうか?」と非難しました。威王は激怒して、「嗟母婢也!」と暴言を口にしました。斉は今の山東省東部に位置しています。山東の方言の中で、「嗟」は無礼な侮辱で、決して人に挨拶するものではありません。この「母婢」も周の太子の母の召使を意味するのではなく、標準的な国罵です。「嗟母婢也」という荒々しい罵リの言葉は、優雅な字を借りて書くしかありません。このように、新しい文字を作らずに、既存の漢字だけを借りて記録する方法を「仮借」と言います。勿論、「仮」は「借」と言う意味でもあります。
初期の漢字には、大量の仮借文字を見つけることができる。例えば甲骨文の商王求雨の卜辞「癸卯卜,今日雨。其自西来雨?其東来雨?其自北来雨?其自南来雨?」(癸卯ニスト、今日雨フル。其西ヨリ来ル雨カ?其東ヨリ来ル雨カ?其北ヨリ来ル雨カ?其南ヨリ来ル雨カ?)には合わせて13字の単漢字が使われているが、その内癸(夯錘)、卯(鉚釘)、其(竹篓)、自(鼻子)、西(鳥の巣)、来(小麦)、東(荷物)、北(背中)、南(鈴)の9字が仮借文字である。このことから仮借文字の用途は普遍的であることが分かる。今日に至っても、仮借文字は依然として多く使用されている。例えば:

東、は甲骨文では   、「東」と書き、金文では   、 、「東」と書き、両端を縛った袋を象っており、本来は象形文字だったが、東方の「東」を記録するのに仮借されている。

易は、金文では「」と書き、足のある蛇、つまり蜥蜴や守宮(やもり)を象っていたが、「交易」「容易」の「易」に仮借されている。

我は、甲骨文では   、 と書き、鉾のような兵器を象っているが、一人称代名詞「我」を表すのに仮借されている。
亦、甲骨文  は人  の両腕の下に指事記号  「ハ」を付け加えた、指事文字であり、作字の本来の意味は人の「腋(わき)」のある場所であるが、後に仮借した「またも」の意味を表示し  
許慎は「仮借」に一定の定義を下し、「本は其の字無く、声に依り事を托す。」と言っている。つまり新しい単語を記録する時に、本来はその文字が無くとも、同音を根拠に現存の文字を取り出し表現を加えるのである。これは我々が先述した仮借の方法の特徴である。しかし、古代には用字方法に基準が無く、ある時にはある詞にはもうある漢字から来る表示があるが、人々はそれを使用せず、その他の同音文字で表示すると言う、一種の情況があった。
仮借文字の用法は、元々使用できる文字がなかったので「声に依り事を托す」して同音の文字を探して代替した。しかし後に古人が慣れて来ると、本体ある文字でさえ同音文字で代用に及んだ。通常言う所の「通仮(音通・仮借)字」の大多数はこれに属す。例えば「信」の本義は言語の真実を指すが、古書中では常々借用して「伸」に作り、本来の「信」はそのまま持ちいられた。「聞」字の本義は、「耳で聞き目で見る」のように聴くであるが、古書中では良く借用して「問」とする。「聞」はそのまま持ちいられた。家の本義は住む所であるが、古書中では良く借用して「稼」に作る。「家」はそのまま持ちいられた。このような例はまだ沢山ある。例えば荀子の『勧学』篇には幾つかの通仮字が出現する。例えば「有」通「又」、「知」通「智」、「生」通「性」、「恵」通「慧」、「頒」通「斑」、「錯」通「措」、「信」通「伸」等等があります。。
前漢司馬遷の『史記・項羽本紀』中の著名な『鴻門宴』と言う記事があります。その中で「旦日不可不蚤自来謝項王」と言う言葉があります。これは項羽の叔父である項伯が、明日早めに自分で項王に謝りに行かなければならない事を劉邦に伝える意味です。この文章では、「蚤」と言う字は「早」を仮借文字です。このような仮借文字は「本有其字」と呼ばれ、異なるのは、音が同じで通用します。その後、「仮借文字」と呼ばれるようになりました。現代の人々からすると、「仮借文字」とは何でしょうか?実際には、錯別の字を書くことです。「早晩」の「早」と言う字は、戦国時代の金文で既に登場していましたが、多くの人が「蚤」と言う字を替わりに使用していました。このような現象は、漢字の早期の使用史で普遍的であり、古代の人々の用字の習慣と言えます。
重要なのは、中学生が古文を初めて読む時、良く「古人の誤りを修正する」という衝動を感じることがあることです。ですが、それは実際には必要ありません、許慎の『説文解字』が出版される前には、古代漢語に「誤りと思われる字」と言う概念が全く存在しませんでした。ある種の字は、言語を記録し、思想を表現するために使われていましたが、古文の作者達の殆どは、一代の賢者であり、彼らがどのように書くかによって決まりました。そのため、賢者が書いた伝承される古文は全て絶対的な経典です。古い文章ほど、仮借文字が多いのです。現代の学生が古文を本当に理解あるには、「仮借文字」を理解する必要があります。

五、形声

「仮借」は直接造字するわけではないが、同音の漢字を借用するものである。だが仮借による方法の運用は、後に漢字の絶対多数の形声文字の産出を促進し、漢字の体系の資質を決定した。これによって、正に「仮借方法」があり、ようやく大量の形成文字が出現した。
もし我々の先人が同音仮借の方法だけを使用し、数量に限りのある漢字で漢語の数量が雑多の同音の語詞を記録すれば、同一の漢字に多くの意義を含まねばならず、一つの言葉の中に、ある漢字に記録されているのはどの単語なのか、大変頭脳の浪費と斟酌(しんしゃく)が必要となる。
例えば「辟」字には「刑法」の意義があり、甲骨文ではまた「商(殷)王小辛」の人名でもある。だが甲骨文では、それはまた「仮借」の功能を受け持ち、「辟」と関連のある同音文字には、偏僻(辺鄙)の「僻」、躲避「逃避」の「避」、開辟(開闢かいびゃく)の「辟」、譬喻(比喩)の「譬」、墙壁(障壁)の「壁」まで。全てこの先王の「辟」から出させている。兼用が多すぎると、簡単に区別出来ず、コミュニケーションにも影響します。現代の中国語学者趙元任は、同音の文字がどれほど乱雑になるかを説明する短い文章を書きました:「石室施氏嗜獅,誓食十獅⋯⋯」十分な同音文字が作らなければ、どのように読むのですか?「十十十十十十、十十十十」の文字列を聞くだけで、神様はそれが何を意味するかを知っています!
しかし文明誕生の初期、我々の祖先が文字を使って言語を記録した時、「文字が少なく概念が多い」矛盾を解決しようとするのは、本当に簡単ではなかった。彼らはいつも文字が足りないと感じ、「武」や「寒」のような文字を作り出すだけでも、無い知恵を絞ったのに、思想、哲学のような抽象的な概念に出くわすと、とても手に負えなくなった。
世界の古代文明それぞれの文字創作の歴史を見通すと、おおよそ初めからは象形文字から開始している。そして象形文字の限界は大変明らかで、この種の文字創作の方法は、例えばイデオロギー(意識形態)と上部構造(制度組織)、社会関係などのような、「無形を形とする」抽象的な事物を表現することは難しかった。「上、下、誠、信」と言った抽象的な概念を表現しようとする時、純粋な象形文字では根本的にうまくいかない。これだけでなく、具体的なも全てが、また「象形」文字で伝えられるわけではない。正にこの文字創造のネックを突破できない民族では、具体的な象形記号を抽象的な表音文字に変換し、表音文字の道を歩み始めた。古代エジプトは初めて象形文字を使って表音記号を作った。フェニキア人は初めて「字母」を作り、西アジアの人や、ヨーロッパ人が、文字を表音化するきっかけとなった。しかし我々の祖先は一種の造字能力の強い表意と表音を兼ねた文字を発明して、漢字の主体とし、形声文字を形成した。
所謂「形声」とは、本字の傍に部品を加えることで、同音の漢字を字形及び意義において区別するものである。これは半ば意味半ば音で造字する方法であり、このやり方で作られた字は、「形成字」と言う。形声文字は「形符」と「声符」の二つの部分からなり、形符はその字の意義を表し、声符は読みを表す。許慎は言う。「形声文字は、事を以て無いと為し、譬(たとえ)をを取りて相成る。江河是也」。
つまり形声文字を造字する前に、意味を表す字及び固有の読音がある字が一定数存在し、それらをある一定の規則によって合理的に組み合わせれば、多くの新字を生成することができる。故にこれらの字は意味を示唆すると共に、読音を提示している。例えば許慎が例示している江河の二字は、偏の「氵」が水を表し、工と可が音符で、古代の発音はそれぞれ「剛」と「可」であった。また「理」で言えば、玉偏はこの字が玉と関連があることを表し、「里」はこの新字の読音を表す。「理」字は当初は玉石の紋様を表していたが、後に抽象的な自然の摂理に拡張された。「一唱一和」(互いに唱和する)の「和」は、偏が「口」で、「和」が口の動作であることを表している。「禾」は音符であり、「和」の読音を表す。又「忍耐」の「忍」は、「心」が形符で、「忍」が心の活動であることを表している。「刃」は声符、「忍」の読音を表す。「鋼」「張」「楼」「帆」「板」「飯」等の字は皆そうです。
象形、指事、会意と比べると、「声符」の出現が形声文字の一番の違いである。例えば:
甲骨文の商王盤康の「盤」及び金文の杯盤の「盤」は、元々は「般」と書き、後に杯盤の「般」の下に「皿」を加えてこれが皿の一種であることを表し、盤康の「般」とはっきり区別するようにした。しかし以後の文献では、盤康の「般」も下に皿を加えた新字「盤」になってしまった。これが形声文字で、般はその声符である。

趾は形声文字で、起源は「止」です。甲骨文の「止」はとと書き、足跡を象っており、脚趾の「趾」の古字で、後に停止・阻止の「止」に用いられ、両者を区別するために、脚趾に形を示す「足」偏を加え、趾になった。本字「止」はその声符である。

溢の本字は益で、甲骨文の益は 、 , 、 、 、 と書き、小篆の益は   、と書き、水が器から溢れることを表している。これは会意字であり、「溢」の古字でもある。しかし後に利益・有益の「益」を表すのに用いられるようになり、容器の水が溢れるという「益」を表すのに三水(氵)を加えるようになった。
上記の字例に追加された部品「皿」「足」「心」と「氵(水)」は、意味と異なる字形を区別したり、新字が属するを表すカテゴリーの記号なので、「義符」又は「形符」と呼ばれます。元の「般」「止」「県」「益」は歴史が長い古字で、新字の中でただ発音を表す部品として、新字が元のこれらの字と同音を表すので「声符」と呼ばれます。
形声文字には二つの大きな長所があります。第一に、表声成分があり、第二に、その造字方法は簡単です。言語の中の単語は「音の意味」の結合体です。同音又は近音字を選んで声の横に、適切な形を添えると、新しい字を作ることができます。この方法は簡単です。そして、同じ音の傍(旁)に異なる形旁、同じ形旁に異なる音旁を加えると、様々な用途の新字を構成することができます。例えば、「方」で声の横を作り、異なる形旁を添えると「訪、防、芳、放」等です。「木」で形旁を作り、異なる声の旁をあわせるt「柏、機、槍、楓、架」等です。
形声文字の意符(表意部分、形旁)は別の文字の中で音符(表音部分、声旁)とすることもできる。例えば「山」で、「嶼、峰、岐、峙、岖」諸文字の中で、それは意符であり、「汕、訕、仙」諸文字の中では、それは音符である。また「土」は、「場、坦、埂、城、堡」の諸文字の中では、それは意符であり、「吐、肚、杜、牡、徒」諸文字の中では、それは音符である。元々ある形声文字はまた音符として作用することもあり、新しい形声文字を組成する。例えば、「召」字は「口」に従う「刀」の音声で、「景」字は「日」に従う「京」の音声で、それらは皆形声文字である。これらの形声文字を音符として、更に意符を加えて、また新しい形声文字「招、影」を組成することもできる。これから類推すると、同様の意符と音符は、また部位の変換を通して新しい形声文字を生産することができる。
形声文字と会意文字も全て合体した文字であるは、二者の区別は、形声文字は意符と音符で組織され、表音部分を持っており、会意文字は二つまたは二つ以上の意符から組織して「音声部分がない」ものである。
形声文字の発明は本当に素晴らしい。象形、指事、会意の三種の造字方法は皆大変極限的であり、使用範囲は限定されたので、三種の文字を足しても一一千文字に満たない。形声文字は簡単明確で有利な点があったので、漢字の主流となった。それは一面で漢字で中国語を記録する時に、単語の発音を表示することができ、人は字形から発音できるようになった。別の一面で、更に重要なことは、異なる意義と字形を区別する意符があるため、同音の言葉でも、そこで混同される心配がないのである。形声文字は表意文字の極限を突破したので、これにより漢字の変遷の歴史の中で最も歓迎され、生命力に富んだ一種の造字方法は、大量の新字の造出を可能にした。殷代商王朝の甲骨文では形声文字の漢字総数に占める割合は20%であった。漢朝の『説文解字』になると、形声文字の割合は漢字総数の82%を占めた。清朝の『康熙字典』では、形声文字の(漢字総数に)占める割合は90%以上となった。漢字が歴史上音節文字への道を進まなかったのは、形声文字の発明も一つの重要な要素であったと言える。

更に大変重要な一点があり、殷代商王朝の甲骨文の卜辞の研究を通して、早くも甲骨文では、もう少なからぬ形声文字が出現しており、その比例は20%以上に達していたことを発見している。形声文字の発生は、象形、指事、会意、仮借の後であったはずであるので、甲骨文は既に相当成熟した文字であったと見られる。これにより、漢字は甲骨文の出現以前にはある程度の原始的な段階があったはずで、我々祖先が使用していた文字の歴史は、絶対に甲骨文を起点していたわけではないと、判断することは難しくないのである。但し考古資料には限りがあり、我々は現在なお未だに証拠に足るだけの発見をしていない。


六、転注

漢字の『六書』の中で、「転注文字」の地位はあまり重要ではない。許慎は嘗て転注の下に「転注とは、類を建つること一首、同意相い受く。考・老これより。」とこのように定義している。この定義は簡単に下されているが、理解するのは大変難しい。「類」とは何か、「首」とはどう解釈するのが、千百年来歴代の文学者達は諸説粉々として、軌を一にしなかった。比較的公認の説明は、所謂「類を建つること一首」とは、同一の偏旁冠脚(部首)を指して、読音も相同するもの。「同意相い受く」とは、意義が相同で相互(そうご)に注釈できるもので、例えば許慎の挙げる「老」は「考」と解釈することができ、「考」も「老」に転注することができるのである。具体的な作字の過程は、まず「lao」の読音があり、その後象形文字の「老」ができた。その後語音の変化が起こり「kao」と変化したが、老字には固定の意味があったので、そこで音符「丂」を加えて「考」の文字が作られたのである。
古文の転注文字と仮借文字の区別は、転注文字は同時に三つの条件を備える必要があり、部首相同、音声相同または近似している、意義相同で、三者のどれ一つ欠けてもいけない。仮借の字は違っていて、音声が相同あるいは近似していれば仮借でき、借字と本字は同一の部首を使用せず、字義も少しも関係していなくても良いのである。「転注」は新字を生産し、仮借はただ既にある文字を借用して純粋に表音符号として使用するだけである。「仮借」と異なるのは、「転注」の文字数量は大変少なく、使用も多くはないので、高校生が古文を学ぶ時にこういうものがあると知っていればよく、深入りする必要はないのである。
『漢字六書』の理論は先人が造字の起源、漢字の結構と用字法の中から次第に帰納総括してできたものである。象形、指事、会意、形声四種の造字方法は、仮借、転注両種の用字方法と相互に連携し、配合し、補充し、そしてそれぞれの特徴と作用を保有している。『漢字六書』の理論を理解すると、学生が更に漢字の形体構造と文字の発明方面に深く入って漢字の本義、引申(派生)義と偏旁関係を分析できるようになり、古文をよく学ぶための堅実な基礎となる。
古代から現代まで、漢字の字形、字音、字義は、全て大きな変化を発生した。許慎の著書で我々は、殷代商王朝から前漢まで、漢字の造字方法は「表形(象形)、表意(指事、会意)から、表音(形声)へ向かう」三つの段階を発展したしてきたことを知ることができる。漢字の最終形態は、「形声文字」である。漢字は誕生以来、その数量は必然的に少量から多量へ、雪だるま式に必然的に不断の発展をした。この種の発展の情況は、漢字を記録した古文書〜辞典を通しても一目瞭然である。
『説文解字』は中国で漢字を記録した最初の字典であり、文字を上げた引用で最多なものはこの後漢の「字聖」許慎が編纂したこの字典なのである。『説文解字』の略称は『説文』で、著書が成立したのは後漢の和帝永元12年から安帝の建光元年で、主に漢字を小篆の字形で収集し、全部で9353文字を収録した。この字典は秦代以前の字体の、漢代まで残されたものと以前の多くの古訓の殆ど保存され、上古漢語の真面目を本当に反映している。もしこの著書の流伝がなければ、我々は秦漢の小篆を認識できず、更には殷代商王朝の甲骨文、殷・周時代の金文から、春秋戦国時代に及ぶ大篆などの古文字を認識できなかったと言っても良いであろう。『説文解字』の中で、許慎は初めて漢字を形態と意味(意義)により、540部に分ける排列を進行し、部毎の最初の文字を、「部首」と言う。漢語辞典に今日もある「部首の配列法」は、当然許慎の発明の賜物である。但し今日の一般的な辞典に使用されている部首は、『説文解字』の基礎上に纏められ、200余りとなっている。
殷代商王朝の甲骨文は現在知られている最高の漢字であり、関連する内容は全て当時の国家機密であり、長期埋もれていたため、人の知る所ではなかったこの司馬遷が『史記』を編纂した時には、殷の巫师(男巫)が卜占の後に卜辞を破棄していたと誤解していたため、甲骨文の存在を知らなかった。甲骨文は最初河南安陽付近の小屯村で発見されたが、盤庚が殷に遷移してから商の中央が滅亡するまでの期間の王室の遺物である。昔一般人民は拾い集めた、亀甲や、骨片を漢方の薬剤「竜骨」として薬屋に売っていた。清末になると、一部の骨片が劉鶚の手に渡ったが、劉鶚はすぐさまこの骨片の文字が周代の青銅器の鐘鼎文(大篆)の年代より更に早い時期であることを発見した。後に王懿栄等の学者もこの文字の研究に着手を開始し、更にこの文字の年代は殷代商王朝であると確定した。これらの専門家は民国時代から甲骨文の研究と整理を開始し、その後編著を纏めた。「甲骨文」を記録した字典は、代表的なものは『甲骨文編』である。この字典は現代の文字学家の編纂で、三部分に分かれる。一は「正編」で現在凡そ読む事のできる文字1,723字を収録する。二は「合文」で、多くは甲骨文が組成した専用の名詞で、貴族の家族徽章に相当し、全部で371項がある。三は「付録」で、当時認識できずあるいは定説の無い文字、2,949個である。大多数は当時の人名、地名など滅多に使用されていない専用の文字である。従って『甲骨文編』に収録された甲骨文の単字の数量は、合計4,672個である。
金文を収録した字典で、比較的有名なものは『金文編』であり、その編者は容庚である。『金文編』は殷商、西周、春秋、戦国諸時代にあった金文字形を、「正編」と「附録」の二大部分に分け、「正編」には認識できる文字2,420個を収録し、「附録」には認識できない文字1,352個を収録し、合計3,772個である。
金文はたった3000語しかありませんが、それよりも甲骨文は4000語以上あります。これは漢字の数が少ないほど多くなると言う規則に合わないようです。それはなぜですか。それは主に、甲骨文の画用性が金文よりも優れており、多くは原始的な図形文字であり、人名や地名などの専用字が特に多く、多くは既に消滅しており、今日は識別できないものがたくさんあるからです。一方、金文は甲骨文の多くの図形文字を統合し、人名や地名などの専用字も少なく、そのため総字数が減少しましたが、識別できる字は甲骨文よりも多くなりました。
漢朝になって、形声文字が増えるにつれ、漢字の数は噴水のように上昇する傾向があります、西晋の呂忱は、『字林』を編集し、『説文解字』に従い540部に分け、12,824個の字を収録しました。南朝の梁、陳年間の顧野王『玉篇』を編纂があり、542部に分けられ、16,917個の字を収録しています。隋朝の陸法言は『切韵』を編集しました。これは「韻書」であり、漢字を発音の異なる順序で並べるもので、主に人々が詩を押し韻するときに確認するために使われます。韻書には、漢字の形体や意味についての説明もあり、そのため字典の一種でもあります。北宋の学者陳彭年は『切韵』の編集を基礎として字典『広韵』を編集し、26,000個余りを収録した。明朝の末期には梅膺祚と言う学者が『字彙』を編集し、33,179個に収録した。清朝初期には、康熙皇帝の命で『康熙字典』が編集されたが、張玉書などの学者が合作で、全部で47,035個を収録した。『康熙字典』以後も、漢字の増加は多くはなく、新しく増加した主要なものは科学技術の新造字と地方の方言用の文字である。1915年『中華大字典』が出版され、48,000個を収録した。1968年に台湾で出版した『中華大辞典』には、49,905個を収録する。四川辞書出版社が出版した『漢語大辞典』には、54,000個字余りを収録する。

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注意すべきことは、殷・周時代から現代まで、三千年余りで、人々が日常生活で実際に使用する漢字は3,000個を超えず、大部分の漢字は歴史上を早々に進む過客(旅人)であり、またあるいは最小範囲で少人数に使用されるものであるが、それらは字典に文書として記録されるだけで、あまり用の無い「死字」となっている。また、形の異なる文字があり、実際には同じ文字の書き方が異なるだけで、「異体字」と呼ばれます。例えば「升、陞、昇」、「札、劄、剳」など、多くの辞書でも別の字頭(文字)として使用されて記録されています。魯迅先生は小説『孔乙己』で、他人のことをよく話す年老いたオタクを演じ、博識であることを示すために、「回字には四つの書き方がある。ご存知ですか?」これらの四つの書き方は「回、囬、囘、圚」であり、最初の一つを除いて、他の三つは実際には全く役に立ちません。しかし、このような死字が出てくると、それが有用であろうと無かろうと、辞書に載ってしまいます。その結果、過去の王朝の辞書に益々多くの漢字が集めらました。