山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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岱廟


岱廟は泰山の南麓の都市の中にある。南北幅は406米、東西の幅は237米、総面積9.6万㎢である。岱廟は歴史の古い寺廟である。中国五岳の首位、東岳の神に捧げられている所から、泰廟とも、東岳廟との呼ばれ、道教の神府で、東岳泰山の神に祭祀に行われています。歴代の皇帝が、泰山を訪問した折に立ち寄る行宮としても使われた。岱廟の壮大な有様は中国三大建築の一つに数えられる。この廟は春秋時代には既に一部があったと伝えられていますから相当古いです。岱廟の創建は、前漢の史料に「秦の時代の遡ること」と記載されている。唐代の開元十三年(725年)及び宋代の祥符一年(1008年)に大規模な拡建をしたという記録もある。しかし現存の建造物は、その後、金、元、明、清代に歴代の皇帝が修復、拡張に力を入れ、現在の広大な建築群となったものである。岱廟は現在泰安博物館となっており、封禅時に記念して彫られた多くの碑文が此処にある。帝王はそもそも天の名を受けて即位したもので、封禅は帝王が天帝と意思が通じていることを示す儀式である。その儀式を行うには、二つの条件が満たさなければならない。一つは天下太平、国家興隆であること、二つは、瑞祥が天より表されていることである。後者はつまりこれは天が帝王を表彰していることを示すものである。岱廟は曲阜の孔廟、北京の故宮に並んで、中国三大宮殿建築とされている。

岱廟は中国の伝統的な中心軸に対称な宮殿様式で建造されており、その中心軸には泰山山頂の南天門を一直線に貫いています。今の岱廟の建築風格は主に明清時代の様式であります。皆さん、ご覧のように、岱廟の建築レベルの高さはまず周りの塀に表されています。岱廟の塀は宮城式の城壁で出来ており、五層の基石の上は青煉瓦が積まれています。ほかに、岱廟の入り口の設計もまた特別です。城壁には八つの門があり、南側に五つの門があります。正陽門の上には五鳳楼呼ばれる門楼があり、単檐入母屋造屋根、皇帝だけが使用できる黄色の瑠璃瓦で葺かれています。「正陽」も皇帝の象徴である。岱廟建築群の中心軸には、南から北に(ほぼ全ての寺廟建築に見られるように、全ての殿宇は南向きに建てられている。従って、南から北というのは、入り口から奥に向かって、ということになる。)正陽門、配天門、仁安門、天貺殿、厚載門と繋がる。本殿である天貺殿は北宋(1009年)に創建され、明代に再建されたものです。本殿を中心に、左右には鐘楼、鼓楼、漢柏院、東御座など多くの建築物が現存します。


岱廟の城壁の四隅にそれぞれの隅櫓が建っており、それは八卦に基ずき命名し、東北の懇楼は山を表し、東南の巽楼は風を表し、西北の乾楼は天を表し、西南の坤楼は地を表す。これも皇宮の造りで、これから我々は、岱廟の建築形式が早くから宗教の範疇を越えたことが難無く見出せる。

岱廟は中国三大古建築群の一つです。北京の故宮は山はありますが、林は少なく、曲阜の孔廟は林はありますが、山はありません。しかし、岱廟は山も林も有る上に、その山は五岳第一と称される泰山です。建物の配置と景観の美しさは泰山によって自ずから引き立てられています。岱廟にはコノテガシワ、エンジュ、銀杏、フジなど500株以上の古樹名木が植えられていますが、その多くはコノテガシワです。廟内には古木が一株一株高く聳え立ち、厳かな雰囲気が漂っています。


遥参亭

遥参亭は言わば岱廟の前庭に当たる。古代帝王が泰山に臨幸された際には、まず、此処で簡単な儀式をした。古くは草参亭と呼ばれていたが、明代の1534年に現在の遥参亭に改められた。泰山神を遥かに参拝するという意味を込めたのであろう。中国人の間では、泰山神を参拝する前に、まず遥参亭を拝み。これは古代帝王の参拝を習ったものであろう。

岱廟坊

岱廟坊は遥かに大きく立派な石の牌坊がある。高さ12米、幅9.8米、奥行き3米、四柱三門式で、さすが功績大なる帝王を迎えるに相応しい牌坊である。石柱の浮き彫りも素晴らしい。建立されたのは清代康熙11年(1672年)である。清代石彫芸術の穂と言えよう。

正陽門

岱廟の正門、岱廟は四方を城壁で囲まれており、この門から城内に入る。その昔は帝王しかこの門をくぐれなかったという。1985年宋代の建築に沿って改築された。門の高さは8.6米、その上に立つ城楼は11米ある。屋根黄色瑠璃瓦で覆われているのは、やはり格式の高さを示している。皇帝のシンボル。
この正陽門は平時には開かれることなく、皇帝が祭祀活動を催す時のみ開かれました。曲阜孔府の中門のようです。

配天門

正陽門の先は第二の山門、配天門である。宋代の建築で、1005年に建立された。孔子様の言葉「徳配天地」から取って名付けたものである。元青龍、白虎、朱雀、玄武(東西南北)の四方星宿が祀られていた。
岱廟配天門東側にある宋代の宣和碑は、【宣和重修泰岳廟紀碑】、つまり宣和六年(1124年)に岱廟を重修したことを記したものである。碑高さ9.52米、幅2.1米、厚さ0.7米の大きなものである。
配天門前の番獅子は北京故宮とほぼ同じで、雄と雌。雌は子供を足の下に掴んでいます。

仁安門

第三の門は、仁安門という。これも孔子様の、「天下帰仁」に由来する。元天襲、地唖の神が祀られていたというが、これは襲唖というので、その由来は良く分からない。創建は元代の1338年である。
此処には歴代の碑刻(184体)と漢画像(48体)があり、西安、曲阜の碑林に次ぐと言われているほどなのである。

天貺殿

岱廟の主要な建物として、天貺殿は歴史的に多くの名前を持っていたし、宋代は「嘉寧殿」、元代には「仁安殿」明清両大学は「峻極殿」と呼ばれ、民国は「天貺殿」と改称されました。。「貺」とは天から授けられたという意味で、即ち本堂が神様から授けられたという意味です。地元では「大殿」と呼ぶのが通例しています。大殿の総面積2600余平方米。大殿は構築が大きい、その名声も高い。天貺殿は北京の故宮の太和殿、曲阜孔廟の大成殿と並んで中国三大宮殿建築と呼ばれている。
大殿の東西両側にそれぞれ小六角亭があり、亭内に清乾隆皇帝の詩碑があるため、御碑亭と呼ばれています。その設置は天貺殿と強い大きさの対比を形成し、大殿の高大威厳を更に示し、雄大さの中に静けさと余裕を醸し出せています。
本堂の東門から入ると、正面から古銅鏡が見えます。明代に鋳造された「照妖宝鏡」と呼ばれ、直径1.29米です。鏡の真ん中の上に、美しい女神の銅像があります。彼女は泰山の女神である碧霞元君です。「照妖宝鏡」の前で正身を検討すれば、泰山神の尊栄を近くで拝むことができます。皆さん、神社の中に座っているのは威威赫赫の東岳大帝である泰山神です。この色とりどりの泥塑坐像は1984年に改造され、高さ4.4米で、滚竜皇袍を身に着け、手に青圭玉板を持ち、玉競には日月山海の図案が刻まれ、泰山神は天地、生死の権利を掌握しています。私達がさっき東御座で見た泰山三宝の一つである「温涼玉圭」の形とほぼ同じです。
現在、我々が頭を見上げると、神祠の上に清康熙皇帝の「配天坐鎮(天の徳に並び鎮座する)」という大型の扁額がある。康熙皇帝は嘗て三度泰安を訪れ、二度泰山に登っている。神祠正面の大殿正門の上には「大徳曰生(大徳を生と曰う)」と書いてあり、この4文字は乾隆皇帝の御筆で(「易経」繋辞伝の)「天地の大徳を生と曰うに出ている」。つまり「天地間の偉大な道徳は生命を愛護し、泰山の神は人の生死を管理し、世間の全てを加護し、天下の風雨を順調にして、国家民衆を安泰とする」ことである。それで、乾隆皇帝は泰山を大変崇拝し、生涯に10回泰山を拝礼し、その内6回は山頂に登り、170首余りの泰山を詠唱する詩、130余りの碑碣を残したが、これは中国の古代帝王中で泰山へ赴き祭祀をした回数が最も多く、残した詩篇も多く、碑碣も最多の皇帝である。
天貺殿の北東西の壁三面に描かれた「泰山神啓蹕回鑾図」が道教壁画として貴重で素晴らしいものです。長さ62米、高さ3.3米の巨大な壁画が描かれ、泰山の神が巡視に出かける様子が描かれています。宋代の作品で真宗の封禅の様子がモチーフになっていると言われています。当時の封禅の様子を窺い知ることができます。かなり細かく描かれているので。

漢柏院

漢柏院(此処に漢武帝の植樹した漢柏によると漢柏院と呼ばれています。)に踏み入ると、まずは八角の石柵に囲まれた噴水の瞼(まぶた)に入り、晴天時には周囲の松の緑が逆に映るので「映翠池」という。池の後方で現在皆さんの面前に展開するのは石碑が積み上げられた壁で、53基の歴代の石碑で組成されている。これらの石碑の主人公は、古代の帝王があり、歴史的有名人があり、碑の前をそぞろ歩くと、まるで時空の時空を旅してるような感覚となる。例えば我々の面前のこの碑には、漢の張衡と曹植の詩文が刻まれている。張衡の『西京賦』『東京賦』【長安と洛陽の風俗を描いた「西京賦」「東京賦」を作り、人々が奢侈に走るのを風刺した。は気宇壮大で、漢代の大賦(古賦)の極地である。そして彼が内心の気持ちを書き写した『帰田賦』は、漢代の賦の風格を変革する門を開くものであった。「異なる技、個性は求められる」という新意工夫は張衡に五言や七言の詩の創作をさせ、従って中国の古代詩は全く新しい世界を導き出された。だから中国の古代文学史の専門家は【漢代ないし中国古代の文学において、張衡は伝統を受け継ぎ、新風を打ち開いた一つの重要な道標であった」という。我々目前の「四愁詩」【明らかな七言詩としては最も早い作品。は、正に張衡が当時仕官への前途が不順であり、泰山に寄せた思いの真実を映し出している。
張衡は中国古代人としても天文学者等で大変尊敬を集めている人物であり、1964年10月9日北京の紫金山天文台で発見された小惑星に「張衡」の名前が付けられたことでも推察される。
『三国志』で有名な魏王武帝曹操と子供の曹丕・曹植は「三曹」と呼ばれ文人としても優れ、詩の世界でも多くの作品があります。
  飛龍篇 曹植(魏)
晨游泰山 雲霧窃窕。
早朝泰山に遊ぶ、雲霧ヨウチョウ。
忽逢弍童 顏色鮮好。
忽ち逢う二童、顔色鮮好。
乘彼白鹿 手翳芝草。
彼の白鹿に乗り、手に霊芝を翳す。
我知真人 長跪問道。
我真人と知る 長く跪き道を問う。
西登玉台 金楼複道。
西の玉台に登り、金楼より道を復す。
授我仙薬 神皇所造。
我に仙薬を授けて、神仙皇帝の作るところ。
教我服食 還精補腦。
我にその服食を教え、成かえり能補う。
寿同金石 永世難老。
長寿金石と同じく、 世永くして老い難し。
  四愁詩 張衡(漢)
我所思兮在泰山
我思う所は泰山にあり
欲往從之梁父艱
生きて之に従わんと欲すれば梁父難し、
側身東望涕需翰
身を側だてて東望すれば涕 翰を濡らす。
美人贈我金措刀
美人我に金措刀を贈る。
何以報之英娄瑶
何れを持ってこれに報いん英婁瑶
路遠莫致待遣遥
路遠くして致す莫く侍りて遣遥す
何為懷憂心煩勞。
何為れ憂を懐いて心煩労す。
碑壁の前には、また十数個の碑石が立っており、その中で最も人の目を引くのは北宋の有名な書家米黻の書いた「第一山」で行雲流水のような「第」、春の蚕が糸を吐くような「一」、端正で重厚、穏やかでどっしり構えた「山」は、ともに作者の深い書法の造詣を表現している。米黻は中国の北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、特に書画の専門家として活躍した。北宋を代表する書画の一人。米芾は書においては蔡襄、蘇軾、黄庭堅と合わせて宋代の四大家と称された。他の3人は政治家として活躍したが、米芾は書画の分野のみで活躍した専門家である。
北魏酈道元の「水経注」には次のような記載がある。紀元前110年前漢武帝が東に行幸して泰山で天を祭った時、嘗て此処に二千株のコノテガシワ(漢柏)を植えたという。漢柏2000株余りを植樹したと言われていますが、2000年の歳月を経て今日この5株を僅か残すのみである。樹齢は2000年。此処に漢武帝の植樹した漢柏によると漢柏院と呼ばれています。
乾隆皇帝の眼中には、この漢柏(連理の柏)は千年の風雨寒霜を経ながらも、双幹が屹立して、青い空に突き立った。漢柏中でも最も勇健な一株である。御碑亭の左側には、明代の「赤眉斧痕(幹の斧跡が赤く染まっている漢柏)」の画像であり、400年近い風雨にもそれは姿を変えることなく、皆さんがご覧になる樹頂の枝先も、まるで昨日描いたように見える。画像の作者は明代の進士陳昌言で、彼の名は皆には馴染みがないかもしれないが、彼の甥っ子は、誰もが知っているであろう。彼の甥っ子は「康熙辞典」の編纂者であり、康熙皇帝の師〜陳廷敬で、この一族は、権勢の家柄であると言えるだろう。御碑亭の右側は清の康熙年間の河道総督張鵬翮の漢柏詩である。

  漢柏詩

千年古柏依碧峦,太平頂上覚天寛。
千年の古柏碧の連山に依る。
太平の頂上 天の寛を覚。
晴空白鶴時来舞,雲外逍遙得静観。
晴れた空に白鶴 時に来たりて舞う。
雲外を逍遥し、静観を得たり。
張鵬翮が清の官僚として実績を積み上げて来た自身の胸中を、漢柏にことよせて詩に詠んだもののように思います。
皆さん、連理の柏と赤眉斧痕のコノテカジワの前のこの碑には漢柏に二文字の大字が書かれており、現代の書画の名家劉海粟(1896〜1994)の書であり、古代の黄帝は松柏は国土を安定して、永遠に長寿を保つと信じていましたが、我々も皆さんの身体と健康と、幸福が末永いことを祈ります。

東御座

現在我々がいるのは、東御座である。その名の示す通り、此処は古代皇帝が岱廟で泰山神の祭祀をする時に休憩した場所で、岱廟の東華門内に坐したので、現在は東御座と称している。
東御座は岱廟中で設計も豪華で、閑静で優雅な四合院の建築である。大門から進入すると、すぐ庭内に正殿と東西の脇殿が見え、正殿の露台(テラス)前には、両脇に二基の残碑があり、東側にあるのは宋の真宗趙恒が建てた「青帝広生帝君之賛碑」で、この碑は宋の真宗が自ら撰し、額と文を書いた。この碑は初め宋の大中翔符元年に建立され、元は泰山南麓の青帝観内に在りったが、乾隆12年に破壊された。民国の初め、人々はこの碑の残片九個を見つけ出し、此処で空き地に煉瓦と石を敷き詰め建立した。現在碑で読む事の出来る文字は48個で、碑陰にも一塊の残石があり、これは「加青帝懿号碑」の一部分で、石には12文字が残っている。宋の真宗が泰山を封禅して居た期間に全部で5ヶ所の刻石を残したが、現在我々が観賞出来る宋の真宗自筆の真蹟は、目前のこの残碑と泰山頂上の「登泰山謝天書述二聖功徳銘」中の数文字だけである。

泰山秦刻石は泰山に現存する最古の碑刻である、また中国最古の刻石の一つである。秦の始皇帝が天下統一後3年目の前219年に泰山に立てた刻石。泰山の山頂で天を祭る封禅の儀式を挙行した際に立つ所から、「封泰山碑」とも言う。秦の徳を称えた頌辞を篆書で記したもので、丞相の李斯の書と伝えられ小篆の典型とされる。「史記」秦始皇帝に乗せる全文は、四字36句の計144字からなり、3句毎に押韻する。封禅の「封」は天に対して感謝する儀式である。南麓から登り、その頂に壇を設て(しつらえる)天を祭る。同時に、頂上の石に始皇帝の徳をたたえた文を刻みつけた(泰山刻石)。封禅の「禅」は地に感謝する儀式である。その後、北側に下山し、山麓の梁父と言う小山で、草莱を払って祭場を設て地を祭りを挙行した。
十年後、秦の始皇帝の継承者秦二世皇帝は、父の後塵を歩み泰山へ封禅に来て父親の残した石碑に李斯に命じて「秦二世刻石」紀元前封禅書を補刻させたが、此処に至って、秦の刻石は222字があり、2000年の風雨と災禍を経て何度も致命的な災難に遭った。漢、唐時代を経て、宋真宗が泰山で封禅をした際に、兖州太守が40字の拓本を取りました。その後、学者の劉跋は、二度登頂して考察し、拓本で本を作り、「秦小篆譜」一冊とし、読む事の出来た文字は146文字であった。欧陽脩の『集古録』と趙明誠の『金石録』がこれについて記載している。明代にこの刻石は毀損し、秦二世の封禅書29字のみになり碧霞祠内に保存。乾隆皇帝時代1740年に碧霞祠が火災に会い行方不明に。1832年発見されるも現在のように二つの石の塊のみになっており、東岳廟に移されます。1832年そこが倒壊すると屋根瓦の中から見つけ出され山の下の廟に移されました。1890年に光緒年間に盗まれます。大捜索して10日後に石橋の下で見つけり。宣統年間1910年岱廟唐槐院に持ち込まれ、1928年から今の場所東御座にあるそうです。此処に至って、泰山刻石は遂に多難なさすらいの旅路の生活を終えた。我々はこのように多くの時間を使って、秦刻石の二千年余りの不遇な過程を理解して、僅かに残った二片の残石に対面し、もう我々が仔細に識別すれば、9文字半を読み取ることができる。

正殿

皆さん、我々は今正殿に着きました。現在の正殿は乾隆皇帝が輿をを停めた情景を模倣して復元しており、大殿の真中に玉座が据えられ、当時の乾隆皇帝に端座して地方官と接見したものである。
正殿には乾隆皇帝が泰山に賜った三点の宝物が収められており、我々は一つづつ見て見ましょう。初めに正殿東側の書斎には、テーブルの上のガラスケースがあり、ケース内には大型の玉圭が置かれている。この玉圭は乾隆皇帝が母の皇太后が88歳の長寿を祝ったもので、乾隆36年(1771年)に東巡して泰山から岱廟を拝謁した時に岱廟を賜ったものである。『泰山志・盛典紀·御賜金宝器』の一章には「乾隆36年、皇太后は⋯⋯大玉圭一件、長さ三尺五寸、温涼玉と名づく、半暖半寒なりを賜う」と記し、我々の眼前の玉圭は白地に透明の青が混じっているので、「青圭」と呼ばれ、それは上下二節を結合してできている。圭の上部半分の玉石質は緻密で、帝触ると骨にしみるほどひんやりしている。下半分の玉石質は粗略で、手触りはしっとりとした温かみがある。それでこれは温涼玉圭という名がある。玉圭の上半部分には、日月星辰と河海と山が刻まれ、古代の示す所の「天地六宗(自然の六根源)」を表現している。『周礼』には「玉を以て六器を作り、以て天地四方を敬う。蒼璧を以て天を敬い、黄琮を以て地を敬い、青圭を以て東方を敬う⋯⋯」と記載し、泰山は東方に位置するので、万物が交替し、初めて春が発生する場所と考えられ、そこで青圭を使用して泰山を敬礼することは厳格に伝統儀礼を遵守したものである。殿内の両側には、また一体の木彫の小獅子は貴重な沈香木で製作されているので、「沈香獅子」と称されている。正殿西側の寝室内には、乾隆52年に岱廟に御賜した黄釉青花葫盧瓶が見ることができる。泰山三宝はいづれも国家の重要な文化財で、本物は泰山の宝物館に保存され、現在皆さんが観ているものは模造品に過ぎず、質感と本物とはとても同列には語れない。
中庭の東配殿に陳列されているのは乾隆皇帝が泰山を巡幸した画像展示で、画像も多く文章も素晴らしく乾隆皇帝が泰山を祭祀した経過を紹介し、また泰山に御賜した「七珍」「八宝」という祭器もある。西配殿の展覧は乾隆皇帝が泰山に滞在した間に書いた詩篇、図画、碑の拓本であり、その中には我々も大変良く知っている乾隆皇帝御筆の「御製漢柏図賛碑」もある。中庭両側の回廊の壁面には、現代の文豪郭沫若が1961年に泰山に登った時に書いた六首の登泰始皇帝と抄録した孟子の「泰山を挟み以て北海を越ゆ」と荘子の「大鵬を馭して以て南溟に遊ぶ」の石碑が嵌め込んである。
皆さん、秦の始皇帝、宋の真宗と乾隆皇帝が、嘗て親しく泰山に臨み、徹頭徹尾、千年を隔てて、彼らの遺物が同じ院内に揃っている。かような重厚な歴史が包容されているのは泰山だけである。

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