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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海石墳墓の考略


石墳墓は元代から明初に膠東地区に広く流行した一種独特の墓葬形式で、その墳墓は石のブロックに依り積み上げられ、威海の民間では石墳子と呼ばれている。また墳墓には磚砌(磚ブロック)を使用しているので、磚墳子と呼ばれる。

現在威海地域には、国家級文物保護単位(国指定重要文化財)留村石墓群、西藏村石墓群、及び石硼閆家墓群が保存されている。この他、成山宮家庄、後龍河水庫などの地に少量の石墳墓遺跡が残存している。歴史の変遷を経て、大量に嘗て存在した石墳墓群は時代の潮流の中に隠滅し、数えるほども残っていない。


石墳墓の構造は大まかに地表の墓塔と地下の墓室の二大部分に分けられる。地表の墓塔部分の様式は融通性があり、大小も異なり、形状もそれぞれ異なる。光緒時代の『冢墓』には「山阿澗曲(山岡に川が曲折)し、古墓塔荒丘(荒廃した墓丘)が、累々として相い望なれ、惟れ元を大きと為す。其の冢石を畳み之を為り、高さ丈許リ、円周は浮屠(仏塔)の如し。亦た方形にして肩腰からに類する者有り。」と記す。わかることは、石墳墓の墓塔部分は殆ど「円周の仏塔」式で「方形の肩輿に類する」形式のものは少なく、石硼閻家石墓群にこの形式のものが一基現存するだけである。


石墳墓の表面の塔の部分は、塔座、塔身、塔頂、及び塔刹に細分化することができます。塔は単層または多層の須弥座で、須弥座の上には仰蓮の紋章が刻まれ、下は覆蓮の紋章が飾られており、上下の皿の束腰部分には蓮、猿、麒麟等様々な縁起の良い模様が刻まれています。部分石墳墓の束腰の部分に碣石の嵌め込まれ、死者の都村、名前、子供や子孫の名前、年月日などが題刻されています。塔身は覆鉢形が現れ、孤形の石塊で繋がれた覆いの形をしています。石墳墓の部分には「眼光門」が設置しています(伝説の老人に食事を提供する窓口である)。塔頂と塔刹は、伎座、相輪、傘蓋、露盤、刹杆、宝瓶、及び他部品の一つ又は複数で構成され、又は一つの石でも彫刻して構成されています。

石墳墓の地下部分が大体似ており、主な巨大な石板で正方形の覆斗頂の石室に構築され、一部分はレンガ作りの石室があります。墓室の四つの壁には花紋が刻まれることがあり、装飾が無いものがあります。金王朝の墓の盗難が横行し、朝廷が手厚く埋葬を禁止するなど、多くの要因の影響で、墓室には埋葬品が少なかった。また、墓室に遺骨を置く方法から、殆どの石墳墓が移転墓であることが分かります。移転埋葬とは、人が何年もまた数十年も土に埋葬された後、死者の遺骨が先祖の墓(祖塋)に移転埋葬される形態を指します。

馬鈺『舍弟運甫有書儀葬事,以詞答之』:“⋯⋯死後形骸丑惡。合避三光寥廓,埋了休拾掇⋯⋯遷葬分明嬉謔。并骨共同棺槨⋯⋯”;『致敦武校尉韓公遷瘞之碑』:“異日思親,靈榇淺土,鞠育之恩、罔極之德未口口,人子者豈無淒愴之心乎!于是祔葬于祖塋”;『抱元真静清貧李真人道行碑』:“于后庭尋得任師父遺蜕,即造石槨,擇日葬本宮艮維。復立摶閣,及造玉石像,安奉于内“。

馬鈺『舎弟運甫が書信に葬儀の事の議論に、文書で回答する』に、「⋯⋯死後の形骸(むしろ)は、醜い。日月星三光の広大さを避け、埋葬を整理をやめるべきであり⋯⋯改葬は喜悲をはっきりと分ける。骨は内棺外椁を一緒する。」

致敦武校尉韓公遷瘞之碑』に「昔日に親を思い、霊柩は浅く埋め、養育の恩と、極まりのない徳は未だに⋯⋯、人の子にどうしても悼む心がないわけがない。そこで祖先の墓所に埋葬されるのである」

『抱元真静貧李真人道行碑』に「裏庭で任先生の遺骨を捜索したのだ、石槨を作り、日を選んで本殿の艮(東北)に埋葬した。また祠を立てて、玉石の像を作り、中に安置し奉った。」

金元時期の多くの詩詞や碑文から、当時膠東地区では遷移墓が大変流行していたことが分かる。至元五年の柳林塋の『叢氏附葬記』にやや詳細な記載がある。「今の祭主叢興は⋯一日諸族を会集し、垂泣して告げて曰く:祖塋続葬すること已に三十余年なり、今各家の祖先、遠く亡び近く死すもの、俱に浅壌に在り。」叢氏の各家族は過去の先人に対し、初めは「浅い土壌」に埋葬し、数年を待って後に柳林の祖塋に埋葬されたものである。


石墳墓のこの埋葬形態の来源に関しては、威海の民間と文献資料には一致した結論はないが、六十歳で生埋めになる、虎狼を防ぐ、埋葬銀の掘返しを防ぐ、幢棺(縦型棺)などの多くの伝説と言い伝えが流伝している。

「六十歳で生埋め」の一説は、宋時代に、朝廷がうま老人が60歳でも亡くならなければ、石墳墓へ生きたまま埋葬し、孝行息子は数日飯食を送り事が出来たが、孝行でない息子はそのまま消滅させたと相伝している。「五匹の鼠が東京(開封)を騒」した時、ある老人が豹猫を使って災難を解決した。皇帝は世の中に経験豊かな老人は切り捨てないと考え、この規定を排除した。この物語は明らかに民間の演義と芝居の影響でがあり、同時に世界各地の「姥捨て」伝説の変種でもある。

「虎狼を防ぐ」の一説は、元明時代には野外に野犬狼や虎豹が多かったので、墳墓が猛獣に掘り返されないように堅固な石墳墓を建設して、「虎狼を防いだ」のである。『文登県志』に「俗に謂えらく其の時虎有り、此れを以て虎の掘ると為すは、此れ実に野語なり。」と記載する。よって「虎狼を防ぐ」の一説は荒唐無稽の話と認められる。

「銀を掘返しを防ぐ」の一説は光緒『文登県志』にある。光緒『文登志』は『元史・張栄伝』を引用し、「時に貿易に銀を用い、民は争い墓を発き劫取(きょうしゅう=掠め取る)し、栄(国家)は令を下し禁絶す。」という。また、「邑中古墓最も多く、但して宋、金の墓一つとして存する無きは、大抵皆な盗毀と為す。」と計る。故に「此れを堅固にして破れざるの勢いと為す」目的は「銀の掘返しを防ぐ」のである。しかし、考古学的に発掘した元代の墓は、基本的に浅い埋葬で、かつ金銀などの貴重な副葬品はなく、明らかに「銀の掘返しを防ぐ」の言い方には検討を要する。

幢棺(縦型棺)の一説は、地表の墓塔の建立の様子の特徴から、墓中の棺桶も塔の中に垂直に置かれていたと推測したものである。実際には地表の墓塔の多くは砕石と泥土が充填され、死者の以外は地下の墓室に埋葬され、またしばしば遷墓され、棺材などの葬具もない。

石墳墓の墓葬形態の起源と変遷を遡ると、威海を含む膠東地区の当地の墓葬形態の自然変化の法則と元時代に及ぶ社会風俗の変遷の共同の影響を受けている。

石墳墓の地下墓室部分は唐宋以降極めて一般的な墓葬形成である。宋代には、地域内では石室墓が流行し、巨大な石板ブロックっ句を組み合わせた台形の石椁(棺)で、例えば沽泊姚家墓群はは巨石板ブロックを組み合わせた台形の石棺で、墓内には「熙寧通宝」と「嘉祐通宝」の銅貨が埋葬されていた。金代には宋代の習俗を踏襲し、現在の文登区の郐家村の金代破壊も、台形の石墓室で、この墓は火葬墓であったが、墓室の中に骨灰を入れた石函があった。

沽泊姚家墓群は地表に建築物が残っていないために、地上部分は土墳墓であったと推断される、そして土墳墓石墳墓へ大規模に変遷した時代は元代に発生したはずである。

土墳墓から石墳墓へ変化した原因は、正に土墳墓は風雨の浸食を受け平地になりやすいためで、石墳墓には風雨侵食に耐え利利点がある。『寓真資化順道真人唐四仙姑祠堂碑記』に「今仙骨を遷して、葬るに堅墳を以てす」。『柳林先塋叢氏附葬記』に「名を翠琰(緑の玉石)に勒し、永佳城を堅くす」。上述の記載は石墳墓の特徴が堅固であったことを強調している。

後龍河王姓の古墳墓の石墳墓は北側のダムの中に分布し、地下石室部分があるだけの石板蓋墓は南側の丘陵にある。王徳莫の回想によれば、南側の石板蓋墓の時代は北側の石墳墓より古く、かつ南側の石板蓋墓の地上には元は土の墳丘があり、ただ風雨に浸食され殆どなくなったと相伝えている。当墓群の趨勢(すうせい)や埋葬の分布から、南側が優位なのは明らかで、南側の石板蓋墳墓が北側の石墳墓に先行した考えは信用できる。八河毕家村毕姓の旧塋もこの状況に似ている。

この他、『栄成県続志』は「鶏山の後の西里許に、龍山の東頭に坐して、杜氏石墳有り⋯⋯西辺に又た古墓が相連なるも、墓誌に考えるべき無く、唯だ石板を以て石匣を砌(いしだたみ)数ヶ所焉(ここ)に存り。」と記載する。この墓域の地勢は西高東低で、また西側の石匣墓の時代は東側の石墳墓より古いと知れる。

『山東威海米山水庫崮頭集墓地発掘報告』では文登区崮頭集古墓群の考古発掘の結果を根拠として、石板蓋墓と、石塔墓は同一時代と認められ、どういった建築方法を取るかは経済条件によって決まった。石墳墓の墓葬形式が出現後も、元々あった土墳丘を持つ石蓋墓も完全には消失せず石墳墓の墓葬形式と並行利用されていたことが分かる。

一般家庭の立塔墓葬の習俗は、宋金時代にはもう出現していたが、石積み墳墓が採用した覆鉢法式を採用した仏塔の様式は元代のチベット仏教の流行と密接な関係があったはずである。至元18年(1281年)以後、道教方式が衰退し、チベット仏教が興隆し、至元元年(1341年)の「重修望浆院記」には「時に大徳五年(1301年)、西蕃に授伝し、兀而赤大師は法衣を賜り、堂を開き教えを演べ、大乗の経律を伝え、群蒙を啓誘す。」とある。これより、現在の望浆寺の僧とチベット伝来仏教の僧達との密接な関係があったことが分かる。

現存する石墳墓の碣石(立石)は、元代皇慶元年(1312年)が早く、時期は明らかにチベット伝来教が興隆したからである。しかし元代の僧侶の墓葬形態には民間の墓葬形態とは異なり、現地の民衆にもまたチベット伝来仏教の痕跡はなかったが、却って大変風水を重視していた。例えば光緒時代の『文登県志』の『千戶姚公碑銘』には、竭家では親族を葬るために資金で土地を占い、風水の先生が選んだのは本宅の盗難で、風光明媚な場所であったと記す。因みに堅くと言ったのは「葬後の当世に兵漢武帝一員を出だす。時に璣は年方(正)に十六歳成り。其の後果たして謬たず。」と曰う。これより、石墳墓の建造方法は概ね葬師(葬儀の風水師)が当地に引き入れたもので、その後当地の民衆が採用して、流行したものと大まかに推察できる。

石墳墓の墓葬形式はおおよそ明代の中後期にはようやく消失した。光緒の『文登県志』の『李公去思碑記』には、「邑(村)風は多く浮屠(仏)を尚び、公けには学校に非ざければ改観る与う莫かれ。学に謁(まみ)ゆる毎に、諸生を進め、教えるに文公の『家礼』を以てし、両行を講肄(講習)す。未だ久しからずして、習俗丕(おお)いに変わり、礼制盛行す。転移の妙は、徐(おもむ)ろに法を禁じず孚(はぐく)むと載せる。李敬革が仏教が仏教の弊害を排除してから、石墳墓の墓葬形式は次第に廃棄され、民間では朱子の『家礼』に準じて土葬墳墓が行われた。

威海の石墳墓は600〜700年の風雨に耐え、大部分は1950年代まで比較的安全であった。大多数の石墳墓は、1960〜70年代の「農業は大寨に学べ」運動で破壊された。

石墳墓は古代威海の墓製文化、建築文化に対して独特な価値があった他、石墳・墓碣の題刻は元明時期の威海の基本区画と区域内の姓氏源流に代え難い作用があった。

威海の民間伝説では、祖籍は雲南、あるいはその他の祖籍の符号がある。これらの伝説は石墳墓と関係がないとは言えないが、但し石墳墓でその真実性を検証できる。石墳墓の年代は主に元代で、少量は明の早中期であり、明代の駐屯軍人の家族の墓地には嘗てあった石墳墓は発見されていた。ある家族の墓所に石墳墓が有れば、基本はこの家族は明代以後の外来移民ではないと判断できる。滕家镇大章村等等の肖姓は始祖が万暦時代に河南からと自称しているが、その先祖墓地に元代の石墳墓があり、明の万暦時代に河南から来たと言う主張は根拠がないことが分かる。崖頭の張姓は、彼の祖先は宋末元初に雲南省から来たと出張している。その祖塋の石墳墓(先祖の墓地)にも元代の年号があり、元代以前の事は考察できないないが、民間伝承によれば自己の先祖は雲南省から来ていると言い、また地名資料によると東下莊は至正年間に村が建てられたという、梁南荘、河西車家村は泰定年間に村が建てられたという。皆付近の石墳墓に「至正」、「泰定」の文字があることからー墳墓の建造時代を誤解して立村の年代としている。

石墳墓以外にも、元代の家族墓地の大量の金石碑文(遺物の文字)も歴史的文献資料の不足を補充できる。地方史の中には元時代の戦争、社会感情に関する多くの内容も大変元時代の墓地の碑文が依頼しております。例えば立駕山村の王姓旧墓の石碑は、光緒『文登県志』に「元人于百工雜艺無不設官,官之冗滥、以元為最。観于此碑、亦可得其大略也(元の人は百工の雑芸には官を設けて、官の冗濫【複雑無制限】は、元を以て最と為す。この墓を観れば、またその大略得るべし)」という記述しています。

このほか元代には墓碑の碑陰に「宗派の図(系図)」を刻むことが流行し、この碑の系図は紙の家系図よりも保存に便利であった。後の世代は、多くの場合、元王朝の石碑の記録に基づいて家系図を作成し続けました。例えば、八河毕家毕姓老塋、柳林叢姓老塋、崮頭集、洪水瀾于姓老塋などは元碑刻家系図があり、後世に家譜を最新するためには比較的頼るべき原始資料を提供している。



威海留村石墳墓群は石島区留村に位置し、中国では唯一の地表に封石が揃っている元代の封石墳墓群である。現存する元代の封石墳墓は10基で、その内7基は保存が完全で、3基は基底のみである。

石墓の基本的な形状構造は相似していて、殆どは台座を留存し、台座面の立体彫刻には坐獅子、人物などがあり、表面には花草、動物の模様または墓主の情報が陰刻され、その上には腰輪(蓮華座)があり、腰輪にははっきりと蓮弁模様の装飾が見て取れ、腰輪の上には五段の弓型の石材がドーム城に積み重ねられている。その内の一基の碣石には「元統三年(1335年)」の文字が微かに読み取れるので、この墓群の建造年代は遅くとも元代である。


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  作者 威海 張華強