山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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終戦後の日本軍犬の行方

多くの読者が映画、小説、関連資料中から中国を侵略する日本軍部隊中の軍犬を見ている。これらの軍犬の両耳はピンと立ち上がり、口からは鋭利(えいり)な牙と真っ赤な舌が露出していて、獰猛(ねいもう)な様子で恐ろしく、まるで悪狼のようである。


旧文献や文書によれば、日本軍部隊の軍犬は普段から肉食を主として、それぞれ肥え(こえる)力強く育ち、主人の命令で、すぐに歯を食いしばって標的に突進した。


終戦後、日本軍は武装解除して捕虜となり、この軍用犬も寄れによって「犬捕虜」となった。北京、天津、南京、上海地区には幾つもの日本軍が残した軍犬訓令基地があり、所有の軍犬は全て(中国)国民党軍に接収管理された。これらの軍犬は番警察犬、捜索犬などに分類され、全てが優質な良犬である。


南京で、同様に日本軍の軍犬基地があり、日本軍が投降後、軍の警察局が下達した「脊字第一四七号訓令」で、日本の官兵総連絡部に飼育、訓練人員を要求し、南京憲兵司令部に連携し、これらの「犬捕虜」の再訓令を進行し、それを中国国民党軍の効力(こうりょく)とした。


これらの「犬捕虜」を待遇することは、人に対する待遇より良く、毎日肉とスペアリブで育養し、もし病気となれば、専門の獣医(じゅうい)が24時間全部世話する。最初、これらの軍犬は全て檻(おり)に入れられたていたが、日本の訓練員の協力のもと、その訓練の進行に対して、彼らに新しい言語の指令を聞きわからせることを企てた。一ヶ月繰り返し行い、軍警察はこの「犬捕虜」が全て改心したものと認め、そこで彼らを檻から出して鎖の束縛(そくばく)に改めた。


更に二ヶ月訓練し、この「犬捕虜」は既に徹底的に悔悟(かいご)し、変革したものと認めて、そこで二匹の要領の良さそうな軍犬を開放した。しかしながら鉄鎖を開放した途端、それらは中国国民党軍の飼育員に速やかに飛び掛かり、大口を開いて咬み裂き(かみさき)、二人の飼育員の腕はすぐさま鮮血(せんけつ)が滴り(したたる)落ちた。幸いにも日本軍の訓練員がすぐにそれらを制圧し、でなければ新主人はきっと噛み殺されても仕方がなかった。


日本軍犬の動物性は訓練し難く、多くの軍犬は人肉を食べていると言われていた。このように凶暴性(きょうぼうせい)な獣に対して、中国軍訓練員は憚り(はばかる)を持ち始めていた。だが軍部はこれらの軍犬の抹殺を許可せず、元の要求により「無用を有用とな(役に立たないものを有用なものに変える)」した。


再び数ヶ月訓練して、これらの「犬捕虜」はしばしば教えても改めず、日本語の命令を除いて、一概に無視された。そして鎖から解放されると、すぐさま獣性を大に発して、凶暴に国軍の訓練人員に飛び掛かり、多くの人にけがを負わせた。


一年後、日本軍と、中国に在住の日本人の大規模帰国作業の実施に伴い、それらの日本軍訓練員も帰国が要求された。日本の訓練員が居なくなると、国軍の訓練員は心配を始めた。最終的に、軍部の完全な権限を得ない状況のもと、彼らは「犬の捕虜」を殺し、その後酒の助けで肴(さかな)として腹に収めることを考えた。軍部は知った後、「問責」を進行することはなく、訓練員はいっそ「犬捕虜」を全部煮て酒のつまみをして、また軍部の為に一筆の少なくない費用を節約した。


南京の「日本官兵戦後総連絡部」の高官今井武夫は、敗戦後は高級戦争俘虜(ふりょ)の身分で「高級日本俘虜感化キャプ」に進入した。

ここでは、昔の武力を誇り威厳を示した傲慢な日本将校が昔のままの快適な日々を過ごし、彼らは自由に出入りができ、専用車の送迎があり、平日も軍装と軍長靴を着け大手を振るって園内を闊歩(かっぽ)し、世話話をした。毎晩三名の女性看護婦師を配備して、規定の時間ごとに体調測定をして、不病気を保証した。


ここでは、各種の口に合う食事があるだけでなく、暇つぶしの娯楽設備が一式配備され、彼らの私物は予め(あらかじめ)保存され、また彼らには犬猫の飼育が許可された。


今井武夫は「雲仙」という名のドイツの牧羊犬(ぼくようけん)が居て、彼が心愛しているが、毎日専門人が哺育し、待遇は日本人俘虜の高官と同様であった。今井武夫は毎日夜明けに起床し、その後軍装を着け、軍帽を戴き、下には軍靴を穿き、マントを被り、「雲仙」を連れ玄武湖城壁一帯を三時間散歩した。


1947年1月4日、今井武夫が帰国する時、「雲先」は飛行機への乗り込みを許されず残された。今井武夫は接収管理人に「雲仙」の良い接待を要求し、自分が帰国後「雲仙」を受け取るがあることを説明した。接収管理人は「雲仙」に対して良くした。だがこの軍犬は終始、新主人の話を聞くことはなく、一度吠え咬みを始めると、後には絶食して反抗を示した。止むを得ず、新主人はそれを「処刑」するしかなかった。


今井武夫は帰国後、すぐさま職務を解かれた。1947年1月16日、彼は田舎へ帰り、伝記を書き始めた。以後の日々は、彼は何度も人に「雲仙」を訪ねさせたが、一つとして音沙汰(おとさた)はなく、彼はまた彼の愛犬がもう「処刑」されたのを知らなかった。1980年代に、今井武夫が亡くなる前まで、ずっと自分の愛犬を忘れなかった。ふざけた話だが、これはいわゆる「人犬の交情は未だ終わらず」というものでしょうか。