一枚の珍しい旅順の古写真
日清戦争前、旅順には防衛部隊33個営(キャンプ)15,000人が駐屯した。清軍の訓練場の写真は、殆ど見られない。最近ネット上に旅順清軍の古写真を発見した。
上面の写真は大変貴重である。これは1886年5月21日、李鴻章が醇親王奕譞に伴って黄金山砲台を視察する途中の写真で、沿道には黄仕林総兵が率いる1,600人余りの歓迎隊がうねうねと砲台へと連なった。写真は醇親王に従って北京から来たドイツの写真師の撮影したものである。醇親王は黄金山砲台を視察した後に「ハンナケンの建造した砲台は、型通りの堅固で、再び恩給をで加え三品の位を頂戴し、鼓舞を示そうとする。」と言った。当時の砲台には240ミリメートルの口径のクリップ大砲2基と、120ミリメートル口径のクリップ大砲5基、12ポンド砲8基を据え付け(すえつける)た。その内240ミリメートル口径の火砲は、旅順清軍で最も大きな口径の火砲で、360度旋回ができた。黄金山砲台は旅順一番の砲台と誉め讃えられた。
堅固な砲台には、必ず英勇的な将軍が守衛する必要がある。黄金山砲台を防守したのは総兵黄仕林で、黄はまた「黄鼠狼」と呼ばれた。その人となりは庸鄙で、命を惜しみ死を恐れ、彼は旅順の退却路が失うのを見て、日本軍が市街に進行を発動すると、既に守備をなくしているのを見て、すぐに手足を驚かせて、日本軍の攻め入るのを待たず、率先(そっせん)して私服に着替えて、労峍嘴海岸砲台から乗船して逃走した。黄仕林が逃走後、人の耳目を覆って、世間を欺き(あざまく)、人に戦状の代電をさせた。逃げる途中で、舟が傾き落水して、おぼれ死にそうになったが、外輪汽船に救出され助かった。これがウサギより逃げ足の速い黄師総兵で、戦績はないが、旅順に誰もが知っている地名〜黄営を残した。
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