山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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五弁花中の明星女子校(威海衛の海の星の学校)

一年前、私は友人から古いの本を得た。この本は、低価格で威海古書店から買ったであり、長期役に立たないため、近年、威海衛の過去を追っている私に本を転送した。


これは外見上平々凡々としたありきたりの少し壊れた辞典で、外文語名を『グラムマタカ・エルムティナ・(Grammatical Elementaria LATINO-SINICA EXERCITIA)」、中国語名を『練習造句模範(作文模範ドリル)』、1940年(MCMXLは古ローマ数字の1940年)、山西太原発行、本の前半部分は「ラテン語の中国語規範ドリル」で、内部の文章は全てローマカトリックの教義と語録を使用し、後半部分は「ラテン中華小字典」で、主にラテン文単語の中国語解釈である。

誰にも明らかであるが、これはローマカトリック教に関する参考書であり、おそらく学校教材である。ただし書中の扉ページと内容には、これがどの学校の教材で、誰のために使用されたものか、何ら文字と説明が示されていない。

近代、私は歴史に親しんでいるため、古い物も好きで片時も手離さず、ラテン語とローマカトリック教には全く不案内であり、古書には朽ちた草や汚泥のにおいがあるが、私は相変わらず興味深くページをめくって細かく読んでいる。黄ばんだ紙には、時代遅れの神秘なラテン語と複雑で素敵なブラックレター体を載せ、短い句形式で、「天神へロデは手中でペトロを救った」「イエスはエルサレムを見た時、彼に向かって泣いた」聖書の物語を述べている。「無限の能力の主が世界を創造した」「イエスは我らの救主であり、我らは彼に贖(あがな)われる」「主よ我らは常に感謝している」と天主を称揚している。「我々は我々の高大なものを探求せず、到底ふさわしいものを探すべきである」「傲慢な人は天主と人に恨まれる」「自分に気を付けず、別人に注意するのは混乱している」などなど、読むのは大変意味がある。

(本を)ひもとく最中に、我らは突然、書中に一枚の名刺が挟まっているのを、発見した。この名刺は現在の物と基本的に同じ大きさで、長さ11センチメートル、幅5.5センチメートルである。名刺はカード用紙を使っているが、本の中で保存されていたため、保存が良好で、色も酸化した黄色ではなく、むらのない肌色であった。正面に三行の外国文字があり、裏面には文字がなく、正面の三行の文字は分別されている:

Les  Fretes  Maristes

Stella Maris School (海星学校)

Wei Hai Wei


「Les Fretes Maristes」はフランス語の聖母会の意味、また聖母修会または聖母院とも称す。「Stella Maris School 」は直訳すると海星(ステラマリス)聖母学校となる。そして「Wei Hai Wei」は異議なしの威海衛である。

外国語を中国語に換えると、我々はこの名刺から我々に伝える情報を簡単にとらえることができ、これは威海が、威海衛と呼ばれていた時期に、ローマカトリック聖母院の名刺であるが、それではこの学校は当時の威海衛のどの学校であったのか。


嘗ての威海衛の天主教堂、聖母院及び聖母像

夙に1830年代には、西洋の宗教が威海へ伝えられ始めたが、常に排斥され発展できなかった。1898年、イギリスが威海衛を強制租界すると、元来のキリスト教は勢いを借りて迅速に拡張し、ローマカトリック教会もこれに従って威海衛へ導入された。


1900年、ローマ天主教フランシスコ会のフランス籍神父羅漢光がローマカトリック教会煙台極東総教会から威海衛へ来て、ヨゼフ学校を設立し、布教活動を開始した。1902年、羅神父は煙台に戻り、イギリス籍神父郎炳華が煙台から来て威海衛に教務を総括し、現在の記念路三角花園以西に35畝(1ヘクタール)を購入し、ローマカトリック教会と海星学校(男児のみ)を創立した。1908年、ローマカトリック教会と海星学校西側に土地を購入して、聖母院((ノートルダム教会)を建設し、修道女達は女子学校を開始した。カトリック、ノートルダム、威海衛、この関連名詞は、全て名刺中のこの学校、修道女達が開校した女子校〜明星女子校を指している。


明星女子校教師と学生の撮影

明星女子校は1908年に開校の初期には6名の外国人女子(5名の日本人、1名の朝鮮人)を収容しただけであったが、1909年になると、1909年になると、外国人女子学生は10名に増加し、1910年になると、入学する中国女子は増え続け、多くの女児をこれを門外で拒否しなければならなかった。

明星女子校が中国の女児に歓迎された由縁は、在学中に、修道女達が女児達に必要な基礎教育と共に、更に多大な精力と時間を彼女らに対して技能訓練を進行したため、訓練の科目はレース作りと刺繍であり、またヨーロッパの専門家が来て学生達のこの技能を教習した。イギリス租界後期には、学校内で技能訓練を受けた女子学生は基本的に60日前後に安定した。


明星女子校は、楊懐義神父が校長もとして創設されたが、間もなく王紉秋が校長として後を継ぐ、後には劉季平が校長として引き継いであった。最後の校長は林均福であった。学校には、高妙英、劉敏蘭、戚秀義などの教師が居た。

国民政府が威海衛を回収後も、海星学校と明星女子校は教会により管理された。教会学校であるため、学校の宗教的色彩は濃厚で、学生は文化知識を学習する他、聖書は必修科目で、宗教の節日ごとに、全学生に参加が求められ、かつ学生に礼拝日(日曜)に教会へ行くことを求め、学生間でカトリック教徒を発展させることを要求した。その中で、海星学校は西洋の近代化教育体制と教育内容を導入して、教育の質量は高く、空軍戦闘の英雄、元解放軍司令王海、有名な漫画家畢克官、有名な歴史学者戚其章、威海地方史専門家劉徳煜などは、皆この海星学校で一時は学生であった。第二次世界大戦終結後、民主政府は海星学校、明星女子校を接収管理し、両校を合併し、1948年に鯨園小学校と改称した。この学校は鯨園小学校の前身とも呼ばれる。


鯨園小学校

多くの人が読書で手に持った小物でしおりにすることが好みで、この名刺は、おそらく本の持ち主がしおりとして使用したもので、かつ保存されてきた。いわゆる古紙の山に宝ありというのは、果たして本当であった。ただし果たしこの僅かばかりの珍しい名刺に対して興奮するのは、私としては完全に正確とは言えず、この書中には、他にも発見があり、私一瞬を驚かせたためで、それが私をほんの恍惚とさせ、時間が逆転したような、私の若年時代を見せたのである。私は本をあるページに、乾いた五弁の小さな花を見つけたが、彼女(小花)は単独で一枝、あるいは二三枝が畳み込まれ、本の中に並べられており、私が数えると、全部で16本あった。

本の中に隠された花弁

もみあげはもうゴマ塩であるが、誰がまだお下げ髪や髪留めの青々とした年齢で、浪漫の幻想と多感の感情は非日常的な主流ではなくなったが、しかし時には、心が打ちしおれ孤独に陥るゆえんを知らない。私は瓊瑤と亦舒(共に小説家)を読むのが好きで、綺麗な本を買って日密かに日記を書くのが好きで、また、日記の中に幾つか摘んだ花びらを挟むのが好きである。

私は魔がさしたように、本の中のこの乾いた花を仔細(しさい)にしげしげと見ると、彼女(挟んだ花)らは小さく巧みで、花の五枚の花びらは大変明瞭に完全で、ラテン文字のクッションのもとで、少々傲慢に見えた。


もう色あせて、元来の様子は見いだせないが、紙の上の点々とした尺橙の痕跡と、花弁の深浅(しんせん)の粉みじんは、全て彼女のかつての絶世の風采をそっとささやくようである。

植物学者に質問すると、花蕊(かずい)がないので、どんな花かは確定できないが、大小と形状から見たところアジサイのようである。私は少年の頃、アジサイを見たことがなかったが、日記本の中のほとんどは、自宅の中庭に植えた各種の花、バラや、ルコウソウ、ホウセンカ、ヒャクニチソウ、ダリアイなどを挟んでいた。これらの小花は私の本の中に在って、私と文字を緊密に抱き、彼女は私の孤独と混乱を最も理解し、また私の注意深い心を抱いてくれる。

花びらは本の中ですぐさま精彩を失い、羽毛(うもう)のように軽くなり、(本を)一度開く毎に中からどことも知らず舞い落ちた。私は彼女らをあまり大切にもしなかったが、今となっては母親が栽培したバラやヒナギクが絢爛と咲く当時を想像するしかなく、窓の外の、陽の光が緑色の木枠のバラ窓を透り(とおる)、窓前の小卓上を照らす中で、私は下の何本かの花を摘み、インク瓶に差し入れ、小さな花から、花蕊を取り去り、注意深く日記本に挟み込んだ⋯

私は、この本の主人は、タバコに染まっていない女性であるはずで、彼女は女学生で、あるいは年若い女教師で、更にあるいは明星女子学校のあの劉季平という女性校長であるかもしれない。劉季平という名の女性校長は勤勉で好学で、英語、フランス語はじょうずに話し、琴棋書画様々に精通し、大変人々の賞賛を受けている。私は、この本の主人はこの撮影中にいると、思う。


劉季平校長に関する情報は見つけることはできなかったが、確信はないものの、この本は彼女について書かれたものだと強く感じた。混沌とした時代にもかかわらず勉学に励み、女性教育に尽力した、柔らかさと強さを兼ね備えた民国の女性についてのものだと。

太陽が沈み、生徒たちが帰宅し、綿のチャイナドレスを着た凛とした劉校長が、本を手に聖母明星(海の星)学院の教室から出てくるのが目に浮かぶようでした。ペランダに咲き誇るアジサイを見ると、思わず近寄って小さな花を摘み、雄蕊を丁寧に取って、勉強中のこのラテン語の辞書にゆっくりと入れてしまったのです。

この花びらは、あの女性の手によって、幸運にもこの本と共にこの世に生き残ることができたのです。80年代の現在では、独特の灰色がかったピンク色をしている。このグレーピンクは、「どけぬき鳥」のローズグレーでしょうか?おそらくこの花は、明星女子校で咲いた日々を思い出し、あの紫霞の夕暮れに、女性の優しく水っぽい瞳を思い出しているのだろう。


今の鯨園小学校(海星学校)



著者 邵華媛