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悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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山東地区の壁画墓の発見と研究

1950年代以降、山東地区では様々な時代の壁画の墓が発見された。時代から見ると、これらの壁画墓には漢代から明清に至るまでの様々な歴史的時代が包括している。異なる時代の壁画の起源とスタイルは異なりますが、同じ時期に他の墓の間には特定の関連性があります。

近年、文化財保護意識の増強と中国の文化財保護への資金投入の増加に従って、壁画墓の発掘と保護は文化財部門が高度の重視を得て、その整理、その選別・整理・研究作業が徐々に議事次第に掛けられている。現在、学界では様々な時代の壁画に関する研究が行われていますが、地域内の様々な時代の壁画に関する体系的な研究は比較的少ないです。この論文は、山東省の壁画の開発の一般的な文脈を明らかにするために、山東省で見つかった壁画の墓の初歩的なレビューを、様々な時代の壁画のスタイルの分析と組み合わせて行うことを意図しています。

一 漢代壁画墓

山東地区の漢代壁画墓の発見は比較的多いが、しかるべき重視に欠けていたため、あるいは報道もなく、あるものは漢の画像石墓で紹介された。現在山東地区で発見された漢代の壁画墓は6ヶ所ある。分別は:巨野金山漢代壁画墓、莘県孟洼壁画墓、東平大洼漢墓群の壁画墓、梁山県后銀山東漢壁画墓、済南青龍山東漢壁画墓と東平后屯漢代壁画墓などがあります。
巨野金山漢代壁画墓、独山鎮金山緑園区西南の半山坡上に位置し、2014年4月に盗掘(とうくつ)された。盗掘された墓葬は漢代の夫妻の同穴双棺墓である。壁画は東墓室内から発見され、石灰を底として、壁画内容に、人物、祥雲などがある。当地の文化財部門は埋め戻しの保護を進行した。
莘県孟洼壁画墓、孟洼遺跡西南部に位置し、封土残高は10メートル、面積6000平方メートル、墓葬は初期に盗掘された。墓室は大型のレンガ石の構造で、内部に一本の長さ14.7メートル、幅3.1メートル、高さ3メートルの南北方向の長廊があり、廊内の壁上には色彩の美しい壁画があった。壁画は石灰で下地を壁に塗り、朱砂と、黒墨で描き、色彩は未だに鮮やかで美しい。内容は殆どは祥鳥や瑞獣であり、青龍、白虎、朱雀、玄武などの内容があり、壁画の内容は生き生きとした形象で、場面は高大で、絵画技術は熟練しており、保存状態が良好です。
東平大洼漢墓群、東平県梯平鄉九頂鳳凰山西斜面にあり、大洼村東南500メートルの所に位置しています。元は漢代の封土墓13基で、「文革」時期に一部分が破壊され、現存する墓葬は8基、その内5基が墓内に壁画があり、壁画に石槨内にあり、石灰を下地に塗り、墨、朱など異なる色彩で壁画を描き、残存部分から見ると、車馬出行などの内容である。


1953年発見の梁山后銀山(現属東平県)前漢壁画墓、山東地区の最初期の壁画墓であります。この墓はレンガ積構造の前、後室の墓葬で、その前室天井は覆斗(台形)式の彩画の格子天井で、後室はドーム天井の棺室である。壁画は前室の四壁と墓の上に描かれ、墓壁に石灰を下地に塗り、その後朱と、墨に色で描いたものに属す。発見時には壁画は塗料が色鮮やかで、内容も豊富であった。描かれた人物には多く題記があった。墓室の上部中間には、太陽と、月、周辺には雲紋を描く。墓葬の形式と壁画から判断すると、当墓は前漢中期に属す。


済南青龍山壁画墓は1986年に発見されたが、これは前漢晩期の墓葬である。この墓からは壁画6面を発見したが、墓門の洞穴を過ぎる両側、前室の南壁と西壁、中室の南壁と西壁上に分布した。壁画は石壁を下地として、石灰を塗り、その後に作画する。壁画の顔料は赤、黒、緑色などであった。残存壁画の内容には車馬の外出、門兵、宴会奏楽、水波紋様などである。
東平後屯の漢代壁画墓は、2007年に東平県のインフラ建設中に発見した。発掘した18基の漢代墓葬で、3基の墓に壁画を発見した。その内1号墓室の壁画の保存が最良である。この墓は長い墓道に多くの石室をなす墓で、墓道により、前庭と四つの墓室からできている。墓葬の装飾には画像石と壁画がある。壁画は墓門の門扉の内側に立面して描かれ、前室の西壁の墓門の両側には立板と前庭の南北の垂直壁と前室天井などにある。描画方式は、まず石壁に薄い白の漆喰(しっくい)を塗り下地とし、その上に画面を描いた。壁画の内容は、門扉の内側に12人の人物を描き、前室天井には祥雲、太陽、金烏烏(太陽に棲む三本足の鳥)私描き、前室の壁上は、三等分して上、中、下に描き、画面は人物画を主として、間にニワトリ、犬などの動物の形象と建築図案など、南壁に宴飲、舞踏雑技、武士、建築など、北壁には献上、謁見、闘鶏などの場面、西壁に描かれた三人は、藍色の着物の女子が左に立ち、中間には青い着物の男子が荷包みを着け、右側の緑の着物の男子は手を合わせて立ち、二人は藍色の衣裳の女子に追從しているようである。女子は右手に鼓を取り、左手は袖を振り、奔走するようである。中段には、五人の帯剣男子を描き、中間の一人が立ち、右側に二人は向かい合って立ち、左の一人は正面立ち、一人は側面立ちである。下段は、三武士を描き、手には長剣と、盾を取る。この壁画は内容が豊富で、画は色彩が豊富であり、人物の形態、動作は写実的で迫真(はくしん)しており、漢代の葬送風俗、民間生活の習俗及び漢代の絵画などの方面に対して、極めて高い研究価値を具有している。発掘者はこの墓の時代は王莽から後漢の初年と推断した。このほか、同墓地の12、13号墓にも壁画があり、主に墓室前室と墓室の入り口の梁上に描かれ、壁画の内容は相対的に簡単で、多くは人物と龍、虎などの神獣の図案である。二つの墓の時代は前漢晩期である。東平後屯漢代壁画墓は山東地区で最も早い時代の壁画資料である。

ニ、北朝、隋唐時期の壁画墓
三国両晋時期の墓葬が山東省で発見されたものは、あるものは彩画の痕跡があるが、惜しい事のに多くは損壊し、壁画の内容ははっきりしていない。現在山東地区で発見された北朝時期の壁画墓は6基あり、分別は、徳州北魏高道悦墓(公元519年)、山東寿光北魏賈思伯墓(公元525ねん)、山東濟南東八里洼北朝墓、山東臨朐北齊崔芬墓(公元551年)、濟南市馬家莊北齊道貴墓(公元571年)、山東臨淄崔氏墓地中12号北齊崔博墓(公元573年)。臨朐崔芬墓壁画の保存が比較的よく、比較的代表的である。
北斉の天保二年崔芬墓壁画、臨朐県冶源鎮浮山南斜面に位置し、1986年に発見と発掘をして、壁龕に窪みのある覆斗(台形)式屋根の単室墓で、墓葬の平面は「甲」字形で、墓道と、甬道と墓室により構成されている。壁画は甬道の両壁、墓室の四壁と天井に描かれている。先に石壁に石灰を一塗りし、その上に壁画を描く。甬道の両壁には、それぞれ甲冑(かっちゅう)を着け、盾(たて)を持ち剣を下げた武士、武士の後ろと周囲には、槐樹、築山と朶雲が映えている。墓室の天井と四壁には、星図、四神、墓主夫婦の出行と17折の屏風を描く。天井の壁画は墨点で描かれた星座の図で、北京天文館の陳先生は、二十八星宿図を、東、西、南、北の四方を七宿ずつとし、方位を墓室四壁の四神と相対応させて分けていると、認識している。墓室の四壁の壁画は上下2欄に分かれ、上欄には神人が四神を御す図で、東壁は青龍、西壁は白虎、北壁は玄武、南壁は朱雀(朱雀図は南壁西側下部にあり、下欄に相当する)、青龍、白虎像の前には太陽と月を描き、四神図像の後ろにはそれぞれ人形神獣を描く。墓室の四方の壁の下部に17枚の屏風を描き、屏風は南壁東側の二枚が空白のほかは、15枚には共に物像(自然の姿)を描き、その内8枚には、樹木と、築山を背景とする人物屏風画で、別の7枚の屏風には舞踏、備騎(騎馬具備)、繋馬、樹木、築山などの図案である。西壁の壁龕(壁の窪み)には、墓主夫妻の外出図を描き、画面上には三男十三女の形象、その内男性主人は漆紗籠冠でで、身には両襟の袍服を着け、両臂は伸びやかで、広く刺繍が垂れ、たたずまいは威厳がある。女性主人は頭飾りに、衣服は華麗で、様子はふくよかで、佇まいは高貴である。墓主の前後には、男女の下僕(げぼく)が取り巻いている。画面の主従は明確に分けられ、構図は繁密でも乱れず、輪郭はなめらがで伸びて美しく、壁画の絵はまず墨線で物象の輪郭を描き、次に朱、黄土、藍、緑、黄、橙、白など多種の顔料で塗りつぶし、輪郭線は伸びやかで、物象の比率は適当で、造型は生き生きと活発である。八枚の人物屏風画は、南朝大墓に発見した「竹林七賢」と栄啓期(春秋の隠士)の拼鑲磚画(組み合わせのレンガ彫刻)内容と極めて相似しており、画風も近いものがあり、東晋南朝の「竹林七賢」の影響を受けた可能性がある。墓主夫妻の外出図は、人物画形態はもちろん、下面の構図まで、全て伝世の顧愷之『洛神賦』の王者出遊に極めて似ている。崔芬墓壁画は精巧で美しく、保存も比較的安全で、山東省発見の墓室壁画中で保存が最も完全なので、南北朝時代の社会生活、服飾制度、絵画芸術などに研究をすることに対して重要な価値がある。

済南の東八里窪北朝墓は、済南市南部に位置し、北に古城を隔てる約4キロメートルの東八里窪小区内にある。1986年4月に発見、整理された、石積の単室墓で、墓道、墓門、墓室の三部分から構成されている。墓葬の形成と随葬器物の特徴を根拠に、この墓の埋葬時代はおそらく北斉である。墓室の平面波角の丸い長方形で、四面の壁は僅かに湾曲し、ドーム天井であった。壁画は墓室の東、西、北の三壁に描かれてる。枡石壁上に石灰を塗り、その後壁画を描いた。東西の両壁の画面は斑(まだら)に脱落(して掠れ(かすれる)てはっきりしないが、壁ごとに墨筆でなぞられた二人の侍女の姿をぼんやりと識別できる。北壁と東壁の曲がり角に、八枚三足の屏風を屏風色で描き、屏風には花卉が描かれている。屏風の上部には垂れ幕が描かれ、両側にはとばり幕が描かれている。中間の四枚の屏風には、扇毎に一人の人物を描くが、みなゆったりとした袍(長い着物)の大袖で、胸を開け裸足で樹下の床席に居り、傍らに壺、盤、杯を置き、悠然とのんびり、飲酒して楽しむ様子である。その内の主人の傍らには一小童が仕えている。壁画の内容と絵画の技法は、同地の北方地区の太原婁叡墓など北朝墓中の壁画墓あるいは輪郭に単線を用い彩色を充填して、あるいは凹凸明暗の隈取の画法は明らかに異なり、南京の西善橋、江蘇丹陽等の南朝大墓中のレンガ彫刻壁画と極めて相似して、まさに南朝の社会流行と絵画技法の影響を受けている。この墓の壁画は屏風を持って装飾し、屏風の上部の垂れ幕は、山東以外の地区の同時期の壁画墓中には多くは見られない。研究のために社会生活、絵画芸術、及び南北文化交流等を添加する貴重な実物資料である。
済南馬家莊北斉道貴墓、済南旧市街の東南1.5キロメートル、馬家莊の南約100メートルに在る。1984年10月の発掘。一積ドームの単室墓。壁画は甬道門壁と墓室の四壁と天井にある。装画の順はまず石灰を塗り、その後壁画を描く。甬道の門壁の壁画は、墨線画で、虎のような猛獣をかたどっている。墓室の四壁には車馬人物を描き、四壁の上のドームの始まりには流雲を描く、北壁には黄土色の九つに仕切られた屏風を描き、屏風上に墓主が正しく座る。東壁の絵には兵器を持つ威儀の兵衛で、馭役と鞍馬の傘蓋を描く。西壁は墓主夫人の外出図で。車輿、墓主夫人と侍女らの形象がある。南壁の墓門の両側にはそれぞれ、手に「斑剣」を持つ門番を描く。墓室天井には天象図を描き、天井の四方には巨星を描く。北方は北斗七星、南西には南斗六星、東南には二つの小星を描き、西方には黄土色の太陽を描き、日中に墨色の金烏を描く。東方に月を描き、月内に蟾蜍と桂樹と玉兎の薬研臼を描く。絵画の手法では、多く黄土色で下書きをし、あるいは細い棒で石灰面が渇ききっていない時に輪郭を鉤だし、その後墨線で輪郭をなぞり、最後に黄土、臙脂などの色を塗る。この墓の壁画は門壁に猛獣を描くが、悪霊追放、墓主の霊魂を護衛する寓意がある。
墓室天井には日月星像と蟾宮神話の物語を描き、その中の太陽の象形は西に在り、月の象形は東にあり、あたかも別の意味があるようである。道貴は北斉武平二年の墓葬で、壁画の保存は比較的整っており、画面は簡潔で躍動的、当時の中下級の官吏の生前の生活の片鱗を反映し壁画の内容時婁叡墓など北斉の顕官貴族の墓葬壁画の表現する豪華な外見とは明らかに異なっている。

隋代の壁画は現在の嘉祥英山一号墓と二号墓に見られるだけである。残念ながら二号墓は僅かに壁画の痕跡を残すのみである。英山一号墓は嘉祥県満硐鄉楊楼村西英山の麓にあり、隋の開皇四年(584年)の徐敏夫妻の合葬墓である。1976年2月の発掘。円形単室のレンガ積ドーム墓で、墓道と墓室よりなっている。墓画は天井と、墓室の四壁と門洞内に、外壁上に描かれる。天井には天象図を描く。東、南、西、北四つの方向に応じて、東方は星々と太陽を描く。南方、北は天体星座を描く。西方は星々と月を描き、月の中に桂樹と薬研の玉兎で飾られています。墓室の北壁には酒宴と行楽の図を描き、画中の墓主夫妻は杯を取り藤の床に座り、背後は山水屏風を為し、床坐の両側には二人の侍女が立ち、床坐の前では蹴鞠を楽しみ、床坐の左では三人の奏楽者、人物に間には樹木、カササギ、朶雲、仙人が映える。西壁には備騎図を描く。画面上には儀仗隊、侍従、及び主人の騎馬があり、図面の上方には白虎に似た翼獣が残存する。東壁には墓主夫人の出行図を描き、中間には四人の侍従が護衛する墓主夫人の扉戸のある牛車、車前には宮灯(六角籠灯)を持ち先導する四人の侍女、車後には布巾類を捧げる四人の侍女があり、最後に犬飼と二頭の犬を描き、図の上方に一青龍が残存する。南壁の墓門の左右に両側には剣を持って立つ武士を描く。門戸内の両側には執事、侍従の各二人を描く。門戸外の両側にはそれぞれ門衛が立つ。この墓の壁画は鉄線描(肥廋の無い太線画)で、着色は濃色を主とし、人物画は比較的大きい。壁画の画法は魏、晋以来の描線と彩色の伝統を継承し、また隋代絵画に出る技巧と芸術水準をはっきり示す。絵画の内容もまた山東省北朝墓室の壁画の幾つかの特徴を継承し、例えば墓門、門の開口部の絵は護衛の武士、門番を寓意(ぐうい)し、墓の天井には天象図を描き、墓室の主壁には某部図などが描かれているが、細部では北朝時期に発展した墓門、入り口外のように、武士、門衛以外に、門の管理人が増えている。外出図の細部は北朝に比べて更に詳細である。英山一号墓壁画の発見は、隋代墓室の壁画の空白を補填し、中国の隋代絵画芸術およびその発展に重要な資料を提供している。

三 宋金元時期の壁画

宋金元時期の墓葬壁画墓は主にレンガ積の墓室中に発見される。一部のレンガ積墓は早期の盗掘で、墓室のお表面の壁画は既に脱落し、報告では往々に壁画を作っていない提供報告されている。現在の考古調査と発掘資料の統計では、宋代の墓葬は既に213ヶ所が発見され、その内20基余りが科学的発掘を経過し、明確に壁がを作る墓は5基ある。棲霞慕家店宋代慕伉墓、山東大学千仏山校区宋代磚彫壁画墓、濟南洪家楼宋代磚彫壁画墓、章丘女郎山宋墓、莱州南五里村北宋壁画墓など。
棲霞慕家店慕伉墓は、棲霞市観里鎮慕家店村の東に位置し、1982年の発掘、円形ドームのレンガ積の単室墓であり、墓道、甬道、墓室から構成されている。墓室の内壁には壁画が多く描く。まず内壁に石灰を塗り、再び絵を施す方法に懸かる。残念なことに長年湿気を受けて大部分が脱落しているが、山水、人物画の墨線のは比較的はっきりしている。墓門の両側には花卉を描き、上部に一本の波浪紋、四組の雲紋と三枚の花卉を描く。記録によると、墓主の慕伉は北宋政和六年に亡くなっているが、明確な紀年のある北宋墓である。

済南市千仏山校区宋代磚彫(レンガ彫刻)壁画墓は、済南市経十路山東大学千仏山地区内に在る。1986年に発掘され、円形ドームの単室レンガ辻墓である。墓室の周囲の壁には石灰を白く塗り、朱、緑、黄色、黒などの彩色画で壁画を作る。二本の朱色に塗られた柱が墓室廻りの壁を5つの場面に分け、分別された絵には机と椅子、門窓、燭台、箱、盒子、衣架などの図案を描く。二本の柱の斗拱(くみ)のあいだには、枝にまとわる牡丹の花卉図案を描く。この墓の年代は建隆元年で、これは山東省で現在発掘されている時代が最も早い宋代の壁画で、山東地区の宋代壁画墓の断代(年代推定)に重要な参考を提供している。


済南歴城区洪家楼鎮に駐地宋代の磚彫(レンガ彫刻)壁画墓は、1988年発掘の円形ドームの単室レンガ墓である。墓室内は天井部分を除いて、一重に石灰を塗り、上に彩色画を描く。水に浸り壁画の殆どが脱落し、僅かに花卉図と朱筆の題記が残存する。
章丘市女郎山南麓宋代壁画墓編号M75は、平面はほぼ円形、ドーム天井のレンガ積双室墓である。この墓門は擬木建築で、朱室、通路、副室内もまたまた様々な擬木構造の建築である。壁画は墓門と墓室に見られる。共に万遍なく石灰を塗り、その上に墨筆で図案を描くが、石灰層が脱落したため内容はぼやけて不明瞭で、判別可能なものは、斗枡、花卉と雄鶏の図案で、年代はおおよそ北宋晩年である。
山東省の金代墓葬の発見はやや少なく、現在発見並びに金代の壁画と確定しているものは、高唐虞寅墓、章丘女郞山金墓、博山神頭金墓、濟南大官莊金泰和元年(1201年)磚彫壁画墓、章丘明四商貿城金代壁画墓等があり、済南三十五の金墓室内西壁のレンガ彫刻の卓の傍らに、手に物を手にした女性像を描く。金代の墓葬の壁画は高唐虞寅金墓の保存が最も良い。
金代の承安二年高唐虞寅墓(1197年)は高唐県城の西北約5キロメートルにあり、1979年6月に整理され、擬木構造建築の円形レンガ積単室墓であった。壁画は甬道と墓室内に分布し、レンガが壁上に石灰を塗り、その後作画する。元々壁画16幅があり、現在保存が完全なのは12幅ある。甬道の両側には車馬の外出図で、墓室内には生活情景を描く。音楽舞踏の図、乗車準備図、外出図、客室図、茶を捧げ膳を渡す図、侍女の図、多くの人物の傍らには身分を示す墨書がある。それぞれの画面は一つの独立した画幅で、一定の物語の筋があり、相互に繋がり、墓主の人生の生前生活全体を構成し、近代宦官の家庭生活を占めている。画面工事は厳瑾で、構図は自然、濃厚な生活の息吹(いぶき)に富んでいる。漢族の生活習俗があり、女真族の生活の痕跡もある。その他、墓室の壁上に気づかれた擬木建築の花窓、擬扉にも絵が彩られ(いろどる)、レンガに斗枡や、レンガ積の灯明台にも淡彩が施され、レンガ積の屏風の上部には牡丹が描かれる。壁画は墨線で輪郭を描き色を補填する伝統的な技法で描き、赤、黄、藍、黄土のかすかに見える。構図上、厳密な関係、空間関係に注意して処理し、画中に画かれた物の煩雑(はんざつ)簡素(かんそ)は的を得て、所々に中国人物画の優良な伝統を反映し、絵画の風格と表現方法は殆どは宋画と相似している。金代虞寅墓は一定の時代背景を反映し、当時の服飾と社会生活を研究するのに対し、重要なよりどこらを提供している。

章丘女郎山金墓は章丘の女郎山南麓に位置し、1990年の発掘で、編号はM65であり、円形ドーム屋根の単室レンガ積墓で、墓道、墓門と墓室により構成されている。墓門は擬木構造のレンガ積門楼で、その壁土を墨線で縁取り示し、墓門の柱、梁、垂木は皆赤色の他は石ないを塗り、原図はかすれてはっきりしない。内壁は石灰を塗り、時折黒線が断裂して残る。斗枡は墨線で縁取り花卉を描く。家具と柱と梁もまた暗赤色で、まくり上がった庇や梁の上面の二層のレンガの周囲は白地に黒でアラベスク(連草紋)を描く。墓室の西北墨の上方の二つの斗枡間には墨線で虎を縁取り、虎の身に黄色を塗り、背中に黒の線模様を描き、墓葬の形成と随葬器物を根拠に、当墓は金代となすべきである。

済南大官物荘の金泰和元年磚彫壁画墓は、済南市歴城区港溝鎮大官荘村の南に位置し、1999年の発掘、発見の金代の墓葬4座で、その内M1、M4にレンガ彫刻の壁画がある。M4壁画は剥離(はくり)が激しく、僅かに斑(まだら)な赤い彩りが判別できる。M1の壁画の保存は比較的良く、円形のドーム天井の単室レンガ墓で、墓道、墓門、甬道、墓室より構成され、壁画は墓門楼表面、甬道、墓室の四壁とドーム天井に描かれている。全て石灰で下地とし、その後に画を描く。壁画内容は、突出したレンガ彫刻のある建築構造に画が彩られ、装飾作用のある、蓮の花、牡丹、枝に纏う(まとう)蔓草、宝相華(架空の五弁会唐草)などの図案で、また御車図、馬を牽く(ひく)図、擬木建築の楼閣図、夫人の開門図、赤子の遊戯図、侍女の図、多色の宝物の図、竹や石の図案、束ねた蓮の図、蓮華、牡丹の切り花図など、全て比較的完全で、図案は明晰で、壁には明確な泰和元年の墨書題記がある。この墓の発見は、済南地区の壁画墓の断代(年代区分)に重要な参考価値がある。

章丘女郎山金墓は、章丘女郎山南麓に位置し、1990年に編号はM65、半球状天井の単室レンガ積墓で、墓道、墓門と墓室により組織されている。墓門は擬木構造のレンガ積の門楼で、その泥道は墨線で輪郭を表示し、墓門の柱、梁、垂木は皆暗赤色に塗り、他は石灰で塗り、元の画は曖昧ではっきりしない。内壁は石灰で塗り、たまに黒線が途切れている。斗枡は共に墨線で輪郭を描き花卉を描く。家具と柱梁もまた暗赤色に塗り、巻き上がった庇と梁の上面の二層のレンガには白地に黒のアラベスク模様を描く。墓室の西北角の上方の斗枡の間には墨線で虎の輪郭を描き、身は黄色を塗り背には黒線で模様を描くが、墓葬の形成と随葬器物を根拠に、この墓の時代は金代とする。
2002年に発見され、発掘された章丘明水鎮市南区にある章丘金代壁画墓。墓道、墓門、通路、前室、後室からなる木造レンガ造リの二重室墓。後室を除いて、墓のレンガの壁は塗装されたマークを持っています。まず墓壁に白い灰の層を塗り、その後、絵を描きます。壁画は13点あります:東西壁には侍者像が1枚、墓室の壁は11枚です。墓室内壁画は、コーナーアーチの境界から上下二つの部分に分けられ、下層に七つの壁画が描かれ、四つの壁画が上層に描かれています。上下の壁画の内容は、孝行物語を表す人物図や孝行図、髡の人物図などあり、各図は赤い雲で隔てられている。下層壁画の内容は、現実的な社会生活、雉鶏図などです。雨の侵入により、既存の壁画の一部は不明であり、墓の上部は北東壁と南西壁壁画だけが保存されています。壁画の墓の発見は、済南地域の金代の建築絵画、衣類、その他の社会習慣、地元の政治、文化などを研究するための重要な物理的資料を提供しました。

山東省では元代の墓葬の発見が多く、17都市で169ヶ所に達し、その中で正式な発掘を経た、墓室内に彩られた壁画には18ヶ所20余りがある。重要なものは済南市柴油机(ディーゼルエンジン)工場の元代磚彫壁画墓、司里街元代磚彫壁画墓、大官莊元代壁画墓、邢村元代磚彫壁画墓、阜村元代磚彫壁画墓、章丘女郎山元代磚彫壁画墓、茄莊元代磚彫壁画墓、西酒塢元代磚彫壁画墓、章丘清野元代磚彫壁画、臨淄大武村元墓がある。
ディーゼルエンジン工場の元代レンガ彫刻の壁画墓は、済南市ディーゼルエンジン工場の建築現場にあり、1988年に整理された。墓葬は方形の単室の擬木構造のレンガ彫刻の壁画墓である。壁画は墓門、甬道、墓室の四壁と天井に在り、石灰を先に塗り、石灰を下地として、墨線で輪郭を作り、中に赤、黄色、黄土、緑などの色を充填し、出土時の色彩は鮮烈で、保存は比較的良好であった。内容は建築のレンガ彫刻の絵画描彩、図案の装飾、社会性格の題材、歴史物語など4種がある。墓室の北、東、西の三壁のレンガ彫刻は単廂が山頂式に収まる擬木構造で、擬木構造の建築には色彩画が施されている。図案装飾の壁画は主に墓門内外のアーチの所、墓門の内側に見られ、東、西、西北壁の擬木建築の両側には人物画が隙間を埋め、墓室の四角の斗枡の上部の格子天井などの部位に、条を巻き付けた牡丹、花瓶の蓮の花、花瓶の蒲のえ穗、瞢草模様、蓮の実などの花卉植物、胡蝶(こちょう)類などの昆虫と、オシドリや、仙鶴などの動物の形象がある。社会生活を題材にした壁画は、比較的はっきりした甬道に東壁にある牽馬図、墓室の西壁下の侍従図、墓室東壁の燭台を持つ侍者図などがある。歴史故事を題材にした壁画の多くは孝子と義父の物語で、主に墓室の四壁上方とドームとトップに描かれ、郭巨埋児奉母(母を養うために子供を穴埋めしようとして金を見つける物語)や、劉明達の孝行の物語、王祥が氷に臥せて鯉を求め、楊香が虎を倒して父を救う、蔡順が桑の実を拾って母に捧げる、舜帝の耕作を象や鳥が助ける物語、孟子の母が機を断つ、原覚が父を諫め魯義姑が子を捨て甥を救う、孟宗が冬に母の為に竹林で泣くと筍が生えた、朱寿昌が女官を捨て帰国して老婆と過ごしたなど(24の孝行物語などの内)13枚の図画である。各組の画面はコンパクトで一貫性があり、配置は合理的で、人物の姿取りは躍動的で、元代の民間絵画の技術水準を反映している。

省の地質局の庭園内の元代壁画墓は、済南市歷城区郭店鎮省地質局第一地質大隊の園内にある。擬木構造の単室レンガ積墓である。壁画は門楼と墓室に描かれている。残存門楼の擬木建築構造に、赤、緑、黄などで縁取りした各種の花卉図案が残る。墓室壁画は上下5層に分かれる。第一層には7幅の図画を描き、六本は柱で区切られる。「大元至正十年」などの墨書題字、奉仕図、墓主夫妻の単座図、侍女と寝具図、倉庫の図、角箪笥、猫と大甕の図、雄鶏と牡丹の図などで、中間の五幅の図の上部には共に幔幕を描き、下に飾り紐と房飾りがある。分割した柱の上下の両端には蓮の花、中間には牡丹を描く。第二層には斗枡を描く。第三層は卷雲紋を描く。第四、五層は蓮の花を描いた格子画。壁画の保存は状態が良く、まず墓壁に石灰を塗り。その後墨線で輪郭を縁取り、主に赤色で地を塗り潰す。壁画保存が比較的良かった。

大官荘元代壁画墓は、済南市歴城区港溝鄉大官荘に位置し、レンガ作りの擬木構造の単室墓で、墓室は壁画が充満し、また大部分の保存は完全である。壁画は墨線で輪郭を描き、紅が主として、黄、黄土、緑なども色がある。擬木構造の門楼、門框の上部にはアラベスク(卷草模様)と三角形模様の帯を描く。墓室の東壁は主に墓主夫婦が対座している図である。西壁上には黄土の幔幕を描き、レンガ彫刻の卓に赤色を施し、墨線で縁をなぞり、北側の化粧台は白地に黒枠、台上にはニ盒。北側のレンガ彫刻は擬木の単廂が山型となる建築で、建築の構造は赤で塗り、黒色でなぞる。墓室の上部は、レンガ彫刻の斗枡を描き以上の図案は四層に分け、三角形の模様の帯筋、巻雲模様、如意、彩画壺や門人物などを描き、墓天井の中心の格子は赤色で彩色がある。


阜東村元代石刻壁画墓、済南市歴城区阜東村南に位置し、2001年に発見された。石ブロックのドーム天井の単室墓。擬木作りの二階の楼閣が山頂に尽きる門楼で、墓室の東、北、西方向の三壁もまた一擬木が山頂に尽きる石彫である。壁画は門楼と墓室内壁に位置する。まず一層の石灰を面に塗り、その後墨線で輪郭を描き、また赤、緑、黄、灰などの色を施している。墓室の地面近くの画面が脱落したほかは、保存が比較的良い。壁画の内容は建築の彩色画、図案の装飾、社会生活の題材と歴史物語を包括する。門楼建築は万遍なく彩色画が施された。入り口には牽馬図が描かれた。墓室内の壁画は下から上へ七段に分割する。第一層は7枚の図画があり、その内東壁には男性使用人の開門図、東壁と北壁は山水屏風の図とし、北壁は墓主夫妻の「盛宴開催」などとする。第二層の壁画内容は主に11幅の孝行物語である。第五層は牡丹花と蔓草を描く。第四層は名も知らぬ花卉の浮き彫りである。第六層は七つの形が四角い穴の丸い銭に似たの球形紋様の浮き彫りであり、第七層は蔓草の花卉(アラベスク模様)を描く。壁画中の人物の衣冠服飾は北方民族の装飾で、ありふれた夫人の開門図であり、この墓は異なるのは幅広の丸いトップの帽子をかぶった男性従者である。壁画は対照的な配置で、北壁の盛宴壁画を中心として、両側の壁画の数量は相同(そうどう)で、内容と表現手法も一致し、屏風形式の山水風景図建築図画の如しである。壁画の構図は追及され、絵画に技法は爛熟している。図案と花草には着色が施され、平塗とぼかしの組み合わせである。壁画は赤、黄、藍、緑などの色を主とし、白字で引き立たせ、墨線で輪郭を描く。色彩の対比は強烈で、画面は新鮮で艶麗、大変強烈な芸術の感染力を具有している。

四、明清壁画墓

明清の墓葬は各地で沢山発見されているが、資料の発表は少ない。明清壁画は章丘女郎山明墓と淄川大邢村清墓を代表とする。
女郎山明墓は、章丘女郎山南麓に位置し、1990年の発掘、明代の壁画を全部で5基発見したが、M60壁画の保存が比較的良かった。この墓は擬木構造のレンガと石を混用した二重の石墓で、墓道、墓門、甬道、前室、通路、後室により構成される。擬木構造の廿廂の門楼で、半円アーチ天井の甬道。墓門、甬道と墓室には彩色画を施す。墓門は石灰で塗り地色とし、墨線で輪郭を描き、黄土、緑、朱色を埋める。立面には馬蹄の金銀、見上げる蓮、流雲と金銀財宝を描き、甬道の門上の鴨居には蓮華図案を描く。前室の絵画は三層に分けることができ、上層には、墓に天井の真ん中に大きな黄土糸のヒルガオを描き、通路の東壁には宝相華(五弁唐草)を描き、西壁には牡丹を描き、四角の空白にはそれぞれ蓮の花を描く。中層には、庇に額と鴨居を描き、周囲の額縁にはタガと装飾を描き、鴨居の中心には流雲を描く。下層は、6幅を描く、画毎に白色帳(とばり)と、とばり飾りと黄土の幕帯を前景とする。南壁の甬道の東西両側には共に須弥山(物像の台座)を描き、太湖石を置き、石の後に芭蕉の歯を描く。東壁は一人の侍女が鏡台の前に立ち櫛を通す(ブラッシングする)様子で、そばらには花卉を描く。西壁下には象牙のベッド、その上に衣架け、上面には衣服が掛かれており、北壁の通路の両側には共に須弥座を描き、上に三足の鎮墓獣を描く。通路の立面には吉祥(きちじょう)とヒルガオの模様が描いて粉飾する。後室の壁画は三層に分かれ、上層には、ドーム天井に飛翔図を描き、その北には丹羽の丹頂鶴(たんちょうづる)を描き、ドームの中心に小さな銅鏡を掛け、その外周には両円を描き、アーチの席上がりに壁には、花枝連続紋(アラベスク)を描く。中層は前室に同じ。下層の墓室四面は帷(とばり)と、幕帯で装飾する方法は前室に同じ。北壁は分けられた三ヶ所に両扉格子の戸口を描き、東西の壁部はとばりで区別られた内路の城壁にはまだ作画されておらず、南壁の通路の両側にはそれぞれとばりの半分を描くが、空白の壁にはまだ作画されていない。墓葬の形成と出土遺物を根拠に分析すると、この墓の時代は明代初期である。

淄川第刑村清代壁画墓は、淄博市代刑村の東北約100メートル余りに位置し、2011年11月の発見、整理した5基の墓葬で、M2は現存で保存の比較的良好な壁画である。この墓の平面は長方形で、単室が三和土(たたき)を流し込んで作られ、ドーム天井である。墓室内壁の北、西、東の三面と、天井と墓門の両側には共に壁画があり、北壁は墓主夫妻生前の生活画像で、東、西両壁はそれぞれ三組の孝行図を描き、墓門両側にはそれぞれ一門人を描く。北壁は墓主夫妻の生前の生活画像で、東、西両壁にそれぞれ三組の孝行図を描き、墓文の両側にはそれぞれ一門陣を描く。墓壁上部には牡丹、紅梅とカササギの吉祥図を描き、ドーム天井中心には巻雲紋を描く。当墓の壁画は石灰を地とし、黒、赤などで補色する。M2壁画の保存は比較的良く、清代の墓制、葬俗の研究に対して、一定の参考価値を備えている。


四 最後

先秦時代(春秋戦国以前)の、山東地区の墓葬にも装飾の痕跡があり、滕州4号墓葬のように廟がの痕跡があり、臨淄地区の戦国墓葬中にも一部に描画の痕跡がある。しかし破残は激しく、図案の内容は既に知る由もない。あるいはこの描画は完全とは言えなく意味的には壁画墓とは言えないかもしれない。
現存の資料から見ると、山東地区の壁画墓は大体漢代に起源があり、南北朝から、隋唐時代に盛り、宋金元の時期に渉り、明清時期になって壁画墓は基本的に凋落した。
壁画の内容から分析すると、山東地区の壁画墓は四つの時期に分けられ、両漢時期、魏晋南北朝から隋唐時期、宋金元時期と明清時期に分別される。
両漢時期は、壁画墓の主要な内容は祥雲と瑞獣、歴史と伝説の人物、車馬の出行などで、これは漢代の墓葬随葬の理念の中で、上は皇帝天子に至り、中は文武百官に至り、下は庶民百姓に至るまで、できるだけ現実生活が享有する一切を別の世界の共有に連動することに努力し、これにより、黄腸題湊、車馬俑坑から、画像壁画、鼎坪礼器、鉄刀銅鏡、煮炊きの器皿に至るまで、全ては葬儀に付随する儀礼により組成されている。

*黄腸題凑中国古代の埋葬様式の一種であり、黄腸とはコノテガシワの木材を、題凑とは木の先端が内側に向かっていることを指す。大量のコノテガシワの木片を細かく組み合わせて作られて墓室は、非常に強固かつ堅牢で王族や諸侯などの高い身分を証明するものである。

壁画墓と画像石は同様に、当時の社会中下層社会の墓葬中で流行した。分布域の観点から、ある地区では壁画が流行し、ある地区では画像石が盛んである。山東地区は漢代画像石が分布する重要地域で、壁画墓の発見数量は比較的少なく、内容から見れば、壁画内容は画像石の範囲を超えておらず、あるいは漢代の墓葬随葬の習俗とは異なる形式だったのかもしれない。また壁画が流行した地区の人々が山東に移転してから、葬送中に元からある習俗の表現を保留した可能性もある。漢代壁画墓の数量は少なく、目下まだ随葬品に伴う壁画墓と画像墓に加える区別の資料は不足しており、それで、壁画に対する来源は十分な証拠が不足している。
魏晋南北朝から隋唐時期、この一時期の壁画の主要な特徴:1、甬道あるいは墓門には護衛を象徴するものを象る(かたどる)絵が多く、例えば北斉道貴墓の甬道の門壁絵は猛獣で、墓門両側には手に「斑剣」を持つ門番を描く。崔芬墓甬道の両側には甲冑を着け、盾と剣を持つ武士を描き、これは同時期の墓葬随葬の鎮墓獣、鎮墓武士の習俗と基本的に一致する。2、墓室の頂部は多く天象図を描く。道貴墓のドーム天井墓の画は北斗七星、南斗六星、太陽、月及び金鳥、蟾蜍(三本足の蛙)、木犀と玉兎の薬の臼突きなどがある。崔芬墓のドーム天井は東、西、南、北の四つの方位に応じて、墨点で幾つかの星座が描かれ、同一方位の星座の排列には一定の規律がある。3、屏風を描いて装飾とするのは、南北朝墓室壁画の一つの明らかな特徴で、例えば道貴墓北壁に描く黄土色の九つの格子屏風で、屏風の真ん中の一コマに墓主の座像を描き、両側には立つ侍従、山塊、流雲の図案をそれぞれ描く。臨朐崔芬墓と済南東ハ里窪墓壁画屏風はあるいは樹下の席に坐り、儒服の胸をはだけ、ゆったりをした神戸の姿や、このほかに樹木、築山などの図案を描く。4、壁画内容には車馬出行図があり、漢代以来連続する特徴で、また中原同時期の壁画墓と一致性があるこの一時期の壁画墓は多くは中上層の高官や貴族の墓葬であり、諸侯の王や皇室の族の墓葬中にも大量の壁画がある。
宋金元時期壁画墓の多くは擬木構造のレンガと石積の墓の墓葬の一般に墓葬、墓門、墓室により構成される。壁画の製法は一般に墓壁に石灰を塗抹(とまつ)し、その後石灰面上に壁画を作る。墓葬の墓門は一般に擬木構造の門楼で、墓室は方形あるいは丸い角の方形で、ドーム天井である。墓門は一般にレンガ彫刻で大門、門上の飾り突起、斗升、上框、軒先瓦、瓦の波、煉瓦など様々の構造と様々な顔料を加えて彩られた。墓室のドーム天井部分には色彩等の図案を描き、墓室の四壁はレンガ彫刻あるいは石積で立柱、斗枡、上框など異なる建築構造で、分割して異なる絵画空間を作り出した。様々な絵画空間は、またレンガ積で家屋、門扉、卓と椅子、花瓶など異なる図案を切り出し、そして異なる人物、花卉などを描く。描いた人物には墓の主人夫妻の対座図、女性の楽舞図、夜伽図、酒宴準備図、孝行図、居住住まいの図などの内容である。この一時期の壁画墓には二つの特徴があり、一つめは突出した古代建築の風格で、二つ目には壁画と建築で最大限度の結合を進めた。これによって、宋金時期は古代壁画墓の最も成熟した時期となった。
墓葬の発見数量は少なく、墓葬の形成は更に増して多様化した。墓葬の墓門はまた擬木構造であるが、彩画の進行は少ない。壁画の内容では、宋金元に流行した建築、人物等は壁画装飾から退出し、画面の多くは比較的単純的に卷雲、花卉、幔幕、止め紐、雑宝図などであり、少量の動物と人物画面があるが、人物の形象ははっきりせず、その持つ意義を見出すのは難しい。これによって見られるのは、明清時期になると、壁画の画面装飾は華麗ではあるが、壁画内容は総体的に簡単で、杓子定規(しゃくしじょうぎ)、山東の壁画墓は既に凋落(ちょうらく)へ向かっていた。 
注:画像磚(がぞうせん)というのは、まず下絵に煉瓦の型板を作り、粘度で造形し、そして彫刻、装飾してから、窯に入れて、焼成させたものです。
煉瓦は形により、方形煉瓦と条状煉瓦に分類できます。ほかに、中空煉瓦があります。唐代以降は、琉璃釉磚が出現します。画像磚は、画像磚石に対して煉瓦で作られたもので、画像石と同様、主に墳墓の前の祠堂、墓室に彫刻します。煉瓦の表面に浮き彫りした、様々な画像があることで有名です。
工芸品とする画像磚は、磚の表面に幾何学模様と動植物、あるいは人々の生活の情景などを形にしたもの、仏を掘り出した磚仏などもありますが、主に墳墓や仏塔などに用いられました。
中国民間の素晴らしい芸術品と言える画像磚は、中国戦国時代の末期から、宋と元の時代にかけて十四、五世紀の変化を反映しています。資料によると、最初に発見された画像磚は、陝西省咸陽で出土した、秦時代の遺物です。前漢の時、画像磚には僅かな発展があり、後漢になり、画像磚は更に多くのところで発見されました。それらの「画像」には、伝説、宴会、人物、建築などがあり、言いかえれば、当時の社会の生活や文化を知ることができる重要なこともなっています。また、画像磚からは、古代の中国人の日常生活と、人生観を更に理解し、感受できるでしょう。