中国連隊(威海衛)
中国連隊は、英国軍により、1899年に、威海衛防衛軍として結成された。その士官達は、英国正規軍から派遣されたが、兵士達は、北部の中国人避難者達であった。この連隊は1906年に、威海衛の要塞化計画の放棄により、解散された。設立当初では、連隊は、現地での反英暴動の鎮圧の主力であり、後、北京と天津へと転進し、殆ど全ての戦闘で、8か国からなる大国連合軍と共に、清軍と義和団と戦い、そして、英国軍の中で、最も遠征軍としての存在を示した。それゆえ、英国陸軍省から「最高の戦闘部隊」と評価された。実は、中国連隊は、これら悲惨な時代に於ける虐めな中国人の生活の様相を表しているのだ。
エドワード港での中国連隊の行進。陸軍省は、当初、中国連隊を、威海衛防衛の主力戦力に当てるだけでなく、中国大陸における憲兵隊の中核として想定しており、それは、グルカ兵部隊の様に、必要かあれば、どこにでも駐留出来る様にする為なのだ。
中国連隊のイギリス将校。イギリス陸軍省は長期にわたり、実戦的な威厳のある高級士官のみを連隊の勤務に選んだ。これらの士官は平均して、威海衛勤務の為に彼らの本来の地位より高い地位と特別手当が与えられた。
1899年に建設された中国連隊本部。優秀な士官を威海衛勤務に引き付ける為、軍当局は後方支援に力を注いで、例えば、兵舎の建設は「見かけがロンドンやほかの場所より遥かに良い状態で立派」であった。
古い衣類を新しい制服に取り替える新兵、1899年撮影。新兵の年齢は通常19歳から24歳であり、「強壮で誠実でなければならなかった」。
新しい制服の新兵、1899年撮影。イギリス士官の中国新兵に対する印象は、「外観も良く平均身長が5〜8インチ」誰も「当時としては良い身長」であった。中国人連隊の騎兵隊。英国人から見ると、彼らは、自分達が知っているの統制や管理に対して非常に従順であり、食べ物に対する偏見がなかったので、量の問題を除けば食事を与えるのも容易であった(多分、インド人は宗教上の理由で豚肉や牛肉を食べない)。
中国連隊の女性通訳者、1904年撮影。彼らは当時の精鋭群団とみなされていてたいていは近代的な学校を卒業していた。貧困で無学な難民出身(兵)と比べると、極上の彼女らは特に魅力的であった。
野戦射撃演習、1900年撮影。1900年5月、境界区分に対して騒動が勃発すると、農具で武装した威海衛の人民のイギリス急襲に直面したが、連隊から来た中国兵はニの足を踏むことなく自国民に発砲して彼らの29人を殺害した。
中国北部基地の中国連隊の兵士、1900年撮影。
1900年6月、中国連隊は同盟軍と清国と戦った。天津戦で、彼らは最初に南門から天津市街に突入し、天津市の最後の急襲と攻略に従軍したイギリス陸軍の唯一の代表となった。
中国北部の戦場の中国連隊、1900年撮影。
1900年8月28日、連合軍が行った紫禁城での大パレードには中国連隊も入っていた。今日の中国人にとってイギリス指揮下で中国の中心地そのものに立った時の中国の若者の心情を想像するのは困難に違いない。
中国連隊にメダルを授与する植民地当局、1903年撮影。
戦後、255名陸・海・空下士官と中国連隊の人間がビクトリアメダルを授与された。1902年には、12名と1名下士官がイギリスでエドワード7世の戴冠式に参列することが許された。
威海衛に立つ中国連隊の北京と天津の戦場で戦死した将校・士官と中国連隊の人間の為に中国連隊が建てた記念碑。
威海衛華務司書記官のウォルター氏は「中国連隊の創設と成功はアジア人を扱う為のイギリス将校の才能を証明するきっかけを提供した」と記している。
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