北洋海軍の基盤
北洋海軍の基盤を設立当初、北洋艦隊は4,000人を超える士官と兵士と、2隻の鉄甲船「定遠」と「鎮遠」を含めた25隻の最新の軍艦で構成されていた。全ての主力艦は先進の欧米諸国から購入され、殆ど全ての上級将校と技術者が海軍学校を卒業しその一部は欧米の海軍大学でさらなる教育を受けた。艦隊には外国籍指導者もいた。艦隊の全能力としては、近代化と戦闘力の程度においてアジア、世界の頂点に位置していたが、一体どうしたものか、設立後は艦隊の資金が大幅に削減され、弾薬も手薄となり緩んだ訓練とで、情勢は落伍の様相を示した。
外国籍教官の指導者のもとでライフルの訓練をしている中国人の船員。英国人ウィリアム・メトカーフ・ラング、北洋海軍の総査(副総督 兼 海軍総監督の通称)。1887年撮影。
殆どの雇われ外国人は、全精力を注ぎ込んで務めを果たした。特に総査を二期にわたって勤めたラング大佐は、非常に熱心に働き、海軍を厳格に運営して、北洋艦隊の規律化に専念したことが、研究により分かっている。しかし残念なことに、彼が辞任した後は、海軍の規律は日に日に衰退した。
香港での李鴻章と香港総督ヘンリー・ブレイク閣下,1900年撮影。
李鴻章は清末の有名な大臣であり、西洋化運動の精神があり北洋艦隊の創設者でもある。彼は西洋では大変尊敬されたが、何世代もの中国人に酷評(こくひょう)された。
清国総理各国衙門の海軍大臣達、この絵画は、1894年8月25日の様子を描いている。それは、清国と日本との全面戦争の時であった。見通しの不安定な戦いの前の厳しい緊迫感のもとで、これらの高官の当惑が見て取れる。
装甲の巡洋艦「致遠」号の乗組員達。致遠は最速の軍艦の一つで、1887年にイギリス人のアームストロングによって建造された。1894年の黄海の戦いで、その巡洋艦は魚雷を受けて鄧世昌艦長を含む乗組員達は勇敢に戦死した事件。
戦艦「定遠」、1881年ドイツのフルカン造船所で建造された。排水量は7,000トンを超える。中国の旗艦として、定遠は威海衛の戦いで日本軍により大破させられた。そして、艦長の劉歩蟾は鹵獲されるのを防ぐ為に船を沈めるよう命じ、自身は自決した。
1887年の巡洋艦「靖遠」。英国から購入され、北洋艦隊の中で最高の速度を持っていた。しかし、1895年の威海衛の戦いで爆沈させられた。
戦艦「鎮遠」、ドイツ・フルカン造船所で1882年に建造された。「鎮遠」と「定遠」は、北洋艦隊で最大のトン数と最強の火力を誇った。それは即ち東アジアで最大の船であったということでもある。
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