山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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日清戦争の威海衛の戦い

北洋海軍を設立する一方、李鴻章は北京への通路を守る三つの海軍基地として大沽(天津)、旅順、威海衛を選んだ。しかし資金の制限もあり、威海衛基地の大規模防衛工事は1887年まで始まらなかった。ドイツの退役軍将校コンスタンティン・フォン・ハネゲンは、その設計と建造を担当した。遅れた建設は威海基地に、相当の防衛能力のある先進的で完成した施設を持ち込んだ。劉公島は北洋艦隊の本営と吹聴(ふいちょう)されると共に、威海衛は李鴻章が「北洋艦隊の一番重要な軍事基地」と認めた。

威海港の北洋艦隊。

海軍駐屯地とその防衛施設建設の活気は、島と港周辺の住民を増加させた。その時、アームストロング社は「山東のこの場所に有望な未来が登場した」と報告している。

1894年7月に日清戦争が勃発して以来、清国の主力は大敗を喫し、北洋艦隊は僅か数ヶ月の陸海の戦いで何度も大きな打撃を受けた。

1895年1月、日本陸軍は栄成湾から上陸し、陸と海の両方から威海衛を攻撃した。

2月17日には、北洋艦隊が制圧され、劉公島が日本軍に占領された。

この失敗は、中国の人々に、海洋文明する時代に鎖国政策の下ではいかなる国も生き残れないことを教えた。もし中国が依然として鎖国的でマンネリ化していたら、幾ら沿岸に強固な「衛」を建設しても、幾ら先進的な船や銃を購入しても、国に真の平和と平穏をもたらすことはできないだろう。

日本の軍艦「浪速」が、清国陸軍を輸送していたイギリスの商船「高陞」を撃沈。1894年7月25日撮影。

日本艦隊は朝鮮豊島海面に宣戦布告せず、1000人以上の勇敢な清国陸軍兵士を乗せた「高陞」を砲撃して、北洋艦隊に対する非公式の戦争を開始した。清国陸軍の死傷者が1000人を超えた,日清戦争が始まったのである。

日本が描いた「黄海の戦い」の図、1894年9月17日。

清国と日本の両艦隊の主力が、鴨緑江口で激しいました。これは歴史上初めての近代的な二つの艦隊の戦闘である。

日本の巡洋艦「吉野」の士官達。「吉野」はイギリスから購入した。世界で最も進んだ鉄甲巡洋艦の一つで、最初は清国が発注した。しかし、清国はその後、財政的な問題からこれを断念した。日清戦争では、「吉野」は日本の主力艦として、全ての戦闘に参加した。

アメリカのフィロ・マクギフィンは黄海海戦で重傷を負った。マクギフィンはアナポリスの米国海軍士官学校を卒業して威海衛の海軍学校で教官として勤めた。日清戦争勃発後、彼は帰郷を諦め清国海軍に従事した。8人の外国人被雇用者が黄海海戦に参加して、2名が戦死し4名が負傷したことを記録されている。

巡洋艦「致遠」は黄海海戦で撃沈した。清国は黄海海戦で黄海制海権を失って、それは戦争の結末に直接影響した。

日本人の描いた清国捕虜の虐殺図。中国人は日本人を見下ろしていたが、今となっては、日本人は高慢な中国人に深い恥辱感(ちじょくかん)を生じさせた。

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日本人の描いた旅順港占領図。1894年11月21日に旅順港が陥落した後、日本は北洋艦隊を最大の脅威とみなしすぐに威海衛への戦略的攻撃に切り替えた。

栄成湾に上陸する日本軍。

1895年1月20日、日本は龍須島に上陸を開始し付近の中国の駐留軍はその消息を聞いて西方に逃げたので、日本軍は無抵抗で栄成県城を占領した。23日までに、全日本軍は上陸を終え26日に両先鋭(せんえい)部隊に分かれて威海衛に進軍した。

日本人の描いた南帮砲台への攻撃。

1895年1月30日、日本は南保砲台への全面攻撃を始めた。「鞏」字軍の統領劉超佩などを除いて逃亡したが、清国陸軍(鞏字軍)は勇敢に反撃して日本の大寺少将を殺害して、最終的に各々(全)砲台はその日のうちに落ちた。  

日本人描いた威海衛の陸上攻撃と防衛。

2月2日、日本は城壁に囲まれた市街と北方帮砲台を抵抗することなく占領したので、威海衛の陸上防衛戦全体が崩壊し、また北洋艦隊は島に囲まれていて外側から遮断されてしまった。

日本軍の爆撃で崩壊した日島城砦。

巡洋艦「康済」の薩鎮氷艦長は彼の部下を導いて、数倍の数の日本軍を相手に10日間、ここで血みどろの戦いを繰り広げましたが、最終的にひどく損傷したこの砦を放棄しなければなりませんでした。

日本の九号水雷艇で大きく損傷した戦艦「定遠」。


2月3日以降、日本はかわるがわる清国海軍を攻撃し、提督丁汝昌と彼の部隊は援軍を待つ為に懸命に戦った。2月7日、魚雷艇班の背信行為は清国軍の士気を揺るがした。11日、丁提督か無援軍の重圧と内面の背信で自殺を余儀なくされた。

日本人の描いた降伏を懇願する北洋艦隊。

1895年3月12日、(威海衛水陸営務所)道台牛昶昞はお雇い外国人教官と共に丁汝昌の偽名で降伏を計画した。

日本人描いた劉公島の占領。

「康済」号、北洋艦隊の実習船。

降伏の後、北洋艦隊は丁汝昌と他の士官の棺と生き残った海・陸兵を煙台に運ぶための「康済」号を除き総ての残存戦艦と軍備が日本に引き渡された。

日本が拿捕した「鎮遠」号戦艦。

威海衛戦の最後の瞬間に、丁汝昌は戦艦を爆破するように命じたが、他の将校達は投降の資本を失うことを畏れてそれを拒絶した。このように「鎮遠」は遂に日本に捕らえられ日本にとって初めての鉄甲船となった。

日本軍占領下の北洋艦隊の海軍公所(海軍司令部)、1898年3月に撮影。

日本は長い間、歴史の中で中国文明の恩恵を受けていた。しかし、日清戦争以来、日本は中国に最も損害を与えた国となった。

1895年4月17日、日本人が描いた「馬関条約」の署名儀式図。日清戦争の失敗により、清国は崩壊の危機に陥り、日本はアジア初の大国となった。


日清戦争の失敗は中国に深刻な災害をもたらしただけでなく、中国国民の目覚めを引き起こしました。梁啓超が言ったように、「私の国で4000年の夢を喚起し、それは日清戦争の初日の始まりです」。ある意味では、日清戦争は中国国民の大きな若還りの歴史における重要なターニングポイントでした。