「馬関条約」は煙台に批准交換
1894年7月25日に日清戦争が勃発、清国は敗戦し、北洋艦隊は全滅した。
1895年4月17日、清帝国と日本の馬関で「馬関条約を締結した。清国の代表は李鴻章、李経方、日本の代表は伊藤博文、陸奥宗光である。条約の規定により、中国は遼東半島(後三国の干渉で放棄)、台湾島、とその付属各島、澎湖列島を日本人に譲渡し、日本に2億両の白銀を賠償し、沙市、重慶、蘇州、杭州を対外開放通商口岸を設置し、日本が清朝の通商口岸に工場を投資することを許可する。
年5月上旬、清国代表は伍廷芳、聯芳とし、日本代表は伊東巳代治となった。

煙台歴史学者魏春洋先生の考証によると、煙台交渉は五回開催され、第一、二次交渉は5月7日前後してビーチホテルと登莱青道役所で挙行され、残りの三回は5月8日にビーチホテルで行われた。第五回目の交渉は夜22時00分〜23時30分で、日清両国は『馬関条約』の交換関連事項は完成し、『馬関条約』の正式発効を表明した。


『馬関条約』の締結地の下関「春帆楼」は、日本政府が予算を持て、「日清講和記念館」として保護し、また当時の条約協議機関の実物を文化財として保護している。また、港から春帆楼への通路に「李鴻章通り」と命名して記念している。春帆楼前に建つ石碑には煙台交渉の代表伊東巳代治の撰文(せんぶん)揮毫で「今之国威之隆,実濫觴于甲午之役(現在の国威の隆盛は日清戦争を始まりとする)」の銘文を刻み、春帆楼内の坪庭には伊藤博文と陸奥宗光両人の半身の銅像が立ち並ぶ。
馬関条約の交換地である中国の煙台の、ビーチホテル北建築は1931年に取り壊され、当地には芝罘倶楽部が建てられ、現在は膠東革命記念館となっている。


登莱青役所は、新中国成立後の煙台市人民政府となり、現在は市政府老幹部活動センターとなっている。だが非常に大変残念なのは、『馬関条約』交換のこの一大歴史事件の交渉地の、跡地に現在記念を示す実物、おそらく何平方米の銅像であり、何平方米の石碑であり、また何百字の人目を惹く(ひく)説明文⋯⋯が何もないことである。
嘗て、『馬関条約』の調印は中国近代史上最大の屈辱であり、城下之盟(余儀の無い条約)のような堪えられない歴史は自ら回避すべきで、煙台交渉の旧事を大きく吹聴(ふいちょう)する必要はない、というある種の声があった。
著者 煙台 韓沂樹
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