山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

大戦の華工軍団

一次大戦中の華工(中国労働者)部隊:

第一次世界大戦中、140,000の山東人が中国国家と同盟国の兵士として労働力として使用する計画のもとでヨーロッパに行き戦争で奮闘した。44,000人以上の中国人が威海を通して前線に送られ、威海衛は主要な徴用基地(兵站補充地)となった。中国労働者が戦争に加わることは新中国が独立為に反撃する為の出発点となった。彼らは第一次世界大戦の最終的な勝利に大きく貢献し、中国にとって初めて戦勝国の地位を獲得した。しかし、戦後のパリ講和会議では、欧米列強は、中国で最も微妙な問題である山東問題(ドイツ占青島帰属問題)で日本を支持し、それが5四運動の勃発に繋がった。中国の歴史はこうして変わった。

戦争で荒廃したモールパ(パリ西效)の村の片隅。

世界史の転換点として、第一次世界大戦は20世紀の人間の大規模虐殺の幕を挙げると共にはヨーロッパ列強の時代は永遠に消え去った。

北京駐在イギリス公使館の軍事顧問デビット・ロバートソン大尉はイギリスの労働者徴集の計画者であった。イギリスは1916年に大変な戦死者で苦しんでフランスの中国人労働者募集に従わなければならなかった。公使館は中国北方を好んだが、その北方の人は、とりわけ山東の人間が強靭で、勤勉で統制がしやすいと出張したので、威海が最終的に採用拠点に選ばれた。

梁士詒(前列左6)、中華民国(北洋時期)初期で最も影響力のある政治家の一人、1912年撮影。

より強固な万里の長城の手始めとして、中国は大戦に参加したが、それは日本によって妨害された。梁は「兵士として労働者を使う」という代用戦略を計画して実施した。

イギリスが配布した募集のチラシ。

威海衛のイギリス陸・海軍省代表は中華民国総理衙門(内閣)と協力して中国労働者を直接募集した。そして中華民国政府の支えで、1918年までに約10万人の中国人男性がイギリス政府によって前線に送られた。

中国労働者と共に、カナダの医療隊のルイス・セベール指揮官、1917年撮影。

威海衛兵站兵舎は平屋建て8棟で、各々1000名を収容できた。 威海栄成出身の毕緒忠の記録。

彼はイギリスが威海で募集した初めての中国労働者である。登録証明の指紋押捺(おうなつ)はヨーロッパへ出発する前の新兵の避けがたい手順であった。

中国労働者の健康診断を作成するカナダ陸軍医療隊のハリーリビングストン指揮官、1917年撮影。

彼らは身体的条件が非常に高く設定されている。中国人労働者は必要条件としてイギリスとフランスの新兵と同じ厳格さを満たさねばならなかった。時には排除率が60パーセントに満たないこともあった。

中国人通訳と食事するルイス・セバート指揮官,1917年撮影。

言葉の壁を取り除く為に、イギリスはまた通訳を有名な専門学校や大学から募集した。

軍事訓練、1917年5月4日撮影。

中国人労働者が出発する前にすることが無くまた怠惰(たいだ)にならないように命令する為に、威海で労働者に身体と技能を行うイギリスの士官を採用した。

中国人労働者の軍事隊形、1917年5月1日撮影。

ヨーロッパに到着後、中国人労働者はフランスの為にフランス陸軍の労働局の統治下にあり、イギリス海外派遣軍の統治下にあった。

ジュエット牧師の引率(いんそつ)で威海を出発する中国労働者隊、1917年6月撮影。

貧乏で地方の田舎出身の男達は威海衛が最終目的地だとさえ思っていたので、突然遠く未知の場所にやられて途方に暮れるのは彼らにとって当然のことであった。ベルギー国境近くのフランスのウドゥジールでの作業休憩、1918年6月3日撮影。

中国人労働者は変装して逃亡するのを防ぐ為に彼らは民間の服の所有や、カフェやバーへの入店、イギリス人用のトイレの使用を禁じるよう命令された。

血戦の後の戦場を清掃する中国人労働者。

山東へ帰った労働者の日記によると、彼らは洗浄(せんじょう)清掃の時にドイツ兵の見捨てた工業用アルコールをよく見つけた。疲労しきった何人かは酒と取り違えて飲用し、そして中毒で死んでしまった。

ルイス・マシューという名のベルギー士官の遺体を掘り出す手伝いをする二人の中国人。

戦争中、多くの中国人が死体を掘り起こしたり負傷兵を運搬(うんぱん)したことにより精神的に苦しんだ。従ってイギリス軍は後にここで死んで埋葬された彼らの為に特別精神薄弱(はくじゃく)者保護施設を設立した。

アンギーとオマル間の鉄道終理。

前線で弾丸の嵐の下で塹壕(ざんごう)を掘ることに比べれば、彼らは幸せであった。しかし時には撤退できずにスコップやバールでドイツ軍と戦うという命がけのことも多かった。

イラクのチグリス河畔の英軍の造船所。

リヨンの兵器工廠で木材を運ぶ、山東出身の、中国人労働者高慶霑(右1)。

中国ではほとんどが農業に従事していた中国人が、イギリスやフランスで農作業で割り当てられることは大変まれであった。2008年に彼の子供が彼の働く姿の写真を見た時両目に涙を湛え(たたえる)て大変感激した。

トゥナールでの戦車修繕。

ヨーロッパで、短時間に戦車の修理や運転を短時間に学ぶ中国人の能力は西洋人を大変驚かせた。

ベルギーのプロヴェンでの弾薬運搬、1917年撮影。

中国人は新しい外国の土地では全てがもの珍しく、しばしば好奇心のために命を支払うことがあった。例えば、弾薬を運ぶ間に、彼らは信管に興味を持ちそれを引っ張り、爆発して死んでしまうのであった。

トラックへの糧食(りょうしょく) 積載(せきさい)

。連合軍最高司令官でフランス元帥(げんすい)フェルディナン・フォッシュは、中国人労働者、近代的砲弾戦で情勢の把握する模範的な優れた兵士になる一等の働きものとしている。

戦場での有刺鉄線除去。

大戦後、中国人は戦場の清掃という危険な務めについてそこで地雷(じらい)や爆弾に接触し彼らの多くは命を落とした。ヨーロッパの戦後復興の為に彼らの生命が支払われているのである。

中国人労働者の出洋歌(華工出洋の歌)

(衆な兄弟、大家来り聴け、你と我と欧洲に下る、三年零有り、光陰快なり、真に鵬翎を放つに似たり、人人、父母兄弟、夫妻と子女と与に有り、天性恩情、親しく与に故く、郷党と賓朋と与に、却って、外国に工を作すは如何に、内中の情と境とは、曲折縦横たり、且る我聴くならく、頭より文明す、、徳國王、国富兵強、人人多くは勇壮にして、器械精良、欧洲を飲まんとす、早に他の心上に在りて、禍端奥国儲皇、塞国少年党に起さんとす、暗に他傷を把え、天禍滔ぎる、此より傷を開き了んぬ、徳國王、聯邦を籍口とし、忽然と兵将を徵す、昼夜奔忙す、英仏露、三國慌に着き了んぬ、徳國兵、四面斉しく集め、安心して仏蘭西を滅さんとし、仮へ比に道して、最も憐れむべし、此の人死して屈を得るを、英仏人、命を併せ敵を拒む(こばむ)、水陸共に兵を進め、馬は蹄を停めざる。肉戦争に、人種田地無し、我国に、一膀臂の助けを講ずるも、我国大総統に、心有りて力無く、内乱多く、兄弟は仇敵の如し、衆な同胞、大家尽く知れり、欧米は文明の国、是れ我友誼なり、最も応に、兵を発し来救済に来り当たるべくも、如何とも無く、文武官吏に、愛国心足らず、眼は多くは近視にして、私利を貪り、人として公義を顧みるもの無し、我が工人、険を冒して至るは、一に衆な友邦の為に、ニに自己の為め、中華の人、最も名誉を愛好す)。

イギリス内閣大臣から威海衛行政長官への電報、1918年撮影。

1918年英国内閣大臣から威海衛行政長官ロックハートへの電報:この停戦の歓びに値する時に、我はここに威海衛の奮闘の成果あるを祝賀し、また彼らの支持と協力とに感謝します。威海衛が全体の力を傾け募集した労工軍団の戦争中に発揮した巨大な作用は、中国民間のイギリス政府に対しての力強い支持も最も高度の賞賛に値します。

蔡元培(前列左4)と北京大学の教授と学生。

1918年の第一次世界大戦の勝利を祝う中で、蔡は中国人労働者の貢献を高く賞賛する演説をした。彼の「労働者は神聖である」という考えは中国人の各世代に普及して共有された。

1919年5月4日午後、天安門広場に向かって行進する北京大学の学生たちと勃発した五四運動。

それ以来中国人は、いわゆる救世主をそれ以上信じられなくなり、「人類の幸せを創造するには、ひたすら我等自身に依存しなければならない」ことを念頭に抱くことになった。

帰途に就く船に乗る中国人労働者。

大戦の後、3,000人の中国人が諸々の理由でフランスにとどまったのを除いてほとんどの中国人労働者は直ちに中国へ送還され一般庶民の中へ消えていった。

フランスの中国人労働者張長松(江蘇省出身)夫人。

中国人と愛し合った外国人女性とで終生の結婚のできたものは少なく、多くの悲話を残している。例えば、山東省の中国人労働者がフランス人女性と同棲(どうせい)して子供をもうけたが、悲しいことに若い女性は彼と一緒に中国へ人来ることができなかった。彼は生前、子供達に自分の人生は子供達のフランスの母親に負うことが多いと語っていた。

中国人労働者の子供達の結婚式、1948年。

中国人労働者達の墓石。

中国人は同胞(どうほう)と両親に孝行を尽くすこと大変重要にしていてそして故郷を決して忘れなかった。だからヨーロッパに散在する中国人共同墓地の墓石は皆東を向いている。

中国人労働者(霊)への御供物。

1980年以降、海外の中国人と西洋人の友の骨折りで、長い間忘れられていた中国人労働者の物語が人民に知られ始めた。