フレンドリー山東(威海李君)

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海衛警察隊

フレンドリー山東(威海李君)

イギリスの香港統治の間、西欧人とインド人とを長い間中堅とした香港警察は地元中国人に信用されていなかった。世界大戦が収束後、香港は暴力と騒動でしばしば混乱したが、インド人と広東人の警官の能力と忠義は両方疑わしかった。こうして、威海衛の人間が強く、真面目で、忠実でそして勤勉なことを考慮して、1922年香港政府は威海衛警察隊として威海の人間の募集を始め、山東省(特に威海)からの重要な移住を始めて開始した。ほとんどの威海の人間は初期の頃警察に加わったり公務を訓練して香港で生計を立てたので、今日では威海出身の香港同胞のほとんどが一方的にまたは別途で威海衛隊に関与している。この一世紀近く、威海衛警察隊は香港の社会安定、繁栄と、多文化の創出に貢献を続けており、また香港と中国本土との間の交流に特別貢献してきた。しかし様々な理由で次第にこの組織は公衆から消えていった。

香港の引退警官フレデリック・ブッカー、1963年撮影。

ブッカーは第一次世界大戦の前に香港警察に加わり、大戦地にはヨーロッパへ帰り中国労働者隊に勤務した。1922年、ブッカーは威海衛に来て香港の王立警察総監と共に威海衛隊の募集と訓練を行った。ブッカーは1900年代に南アフリカの金鉱採掘の為の中国人募集の責任を負っていた。

威海運動場での第一回威海警察隊パレード、1923年撮影。

威海警察の必要条件は広東人よりも厳しいものであった。志願者は強く身長は少なくとも5フィート6インチ必要であった。第一隊50人は1923年3月20日に香港に到着し、インド籍警察官の駐在した凹頭、青山、平洲、落馬洲に配置された。

香港警察学院(P.T.S.)の香港警察威海衛隊第九回修了式、1950年10月7日撮影。

1920年代に威海衛の人間は分散管理されD班に組織された。戚其昭(3列目 左1) は1933年威海衛生まれで1948年に父親と共に天津に避難している。彼は1950年代に香港警察に加わり後に警視庁総監となった。

香港の威海衛警官楊錫珠、1926年撮影。

威海衛隊は三年契約で更新できた。楊錫珠は威海生まれで1920年代に香港警察に加わった。しかし彼は1926年に家族の用の為に帰郷して1946年に共産党に加わった。

姜樹莊は警察学院でモーターバイクの運転を学んだ。姜氏は威海衛南竹島村出身。彼の父親姜仁毓は嘗て大戦中に中国労働者隊の通訳として勤めて、1924年に香港警察に加わり後威海衛警察の最初の督査となった。香港が陥落すると、姜仁毓は彼の家族を伴ってボートでマカオへ避難したが途中で日本の飛行機に爆撃された。乗客全員の内、姜樹莊ともう一人の威海衛籍少年張氏だけが生存者であった。

呉伝忠の警察学院での歩哨練習、1955年撮影。

始めに、威海衛の新兵は威海衛で6か月の訓練を受ける必要があった。訓練所の後6期から威海から香港警察学院へ転校する。呉氏は1932年威海衛の生まれで1950年に香港に行き製綿工場に住み込み、それから飛行機と自動車の修理を学んだ。彼は1955年に威海衛に加った。

王本宏と同僚で牟平籍の于天寵、1950年代撮影。

1945年以降、香港警察の来源は次第に現地化した。しかし彼らはまた剛健で訓練された威海衛の人間を積極的に採用した。この間、ほかの場所から人間も通常は威海衛人の名でD班に加えられた。

王本宏の同郷呉学謹が開いた龍鳳写真館での撮影、1953年撮影。

王氏は1932年に威海合慶王家村の漁師の家の生まれ。解放戦争中、彼は児童団に参加した為劉公島に投獄された。そして彼は叔父の助けを求めて香港に逃れ1950年に香港警察に加った。のちに彼は無線技師となった。

香港政府の警官永年勤続表彰授与、1956年撮影。

威海衛隊員は10年以上勤務すると年金と、家族がいれば住宅か家賃が無料となり、その後3年の勤務ごとに、3か月の有給休暇を得ることができた。彼らはまた給料の他に海外手当にも恵まれた。

中央地区警察署例年の警察観閲での広東と山東人警官隊、1970年撮影。

中国大陸人間と香港本土人間から次第により多くの採用があったので、1956年に香港警察は総ての中国人を混用し始めた。威海衛隊の歴史はこの時終わった。

警察学校卒業最後の威海衛隊、1956年4月14日撮影。

苗豊礼(中列右1)は1935年に威海衛里窑村に生まれで、虎門駐屯所の将校クラブで調理の仕事をしていた。彼は1955年威海衛隊に加わり警察高官の為に調理人として勤めた。当時、威海衛警察駐在所では山東料理人を配置していた。

香港総督府庁舎外の警ら(けいら)する姜樹莊。威海衛警察は皆異名があった。姜樹莊は警察署警長を20年以上勤め、その恰幅(かっぷく)の佳さと厳格なことから「大笨象」として知られた。威海衛隊からは、彼の父親の「親甘藷(かんしょ)」を引き継いで彼は「子甘薯」とあだ名された。

外出中の姜樹荘と(威海衛の)妻。

最初、大抵の威海衛警官は結婚するために休暇中に帰郷しその後彼らの家族を香港へ連れてきた。1948年以降、彼らは香港の威海衛の女友達との結婚を好んだ。

呉伝忠とその友人が家族を伴っての旅行。

普段は威海衛警官は彼らの家族や他の親戚を食べさせねばならなく質素な生活をしていた。梁振英(嘗て香港最高長官)を例にとれば、彼の父親が警官であったので彼はとても若い頃からアルバイトをしてきた。

永年勤続表彰記章を受ける副所長の李君夏(中)と威海衛の警察幹部たち。左から呉伝忠、谷祖康、姜宜富、鄭平、林徳昌、邵金福。威海衛勢は一時香港警察全体的五分の一に達したが、1956年まで昇進したものは少数であった。

交通局の柏華礼(右2)と他の警察幹部、1961年クリスマス撮影。

柏氏は1921年に威海衛城里で生まれ、1939年香港警察に奉職、勤勉で、大胆で才略もあり、当時の12人の警察幹部の一人として名声と人気があった。この12人の幹部の中で、彼が唯一の威海衛出身者であった。

警官基地で訓練する呉伝忠と隊員達、1963年撮影。

威海衛警察は主に緊急時や交通に派遣され、総督官邸、主要なビジネス街や上流階級の住宅地の警備を行った。彼らはまた商船や海洋警備の勤めも担当した。いずれにしても、彼らの職務は重要であるが、単調、そして何の利益も無く危険なものであった。

本部棟前のEUHKI (香港島衝鋒隊)警察隊、1961年撮影。

緊急隊は1927年に設立され戦乱や緊急、重大な犯罪、自然災害に対処するために任命された。その隊員は皆威海衛人であった。

路上で労働者申立(もうしたて)人【陳情者】の説得に当たる威海衛警察、1967年撮影。

香港では、威海衛警察は民間秩序の違反に直面しただけでなく、労働争議と政治的騒動による板挟み(いたばさみ)の難局の治安を維持した。

籐笞(とうむち)の訓練をする楊國威。楊氏は1951年に威海衛隊に加わり、1971年にようやく威海衛隊警察に入隊した。彼は射撃競技で香港代表としてアジア大会とオリンピックに何度も出場している。

湾仔で交通指揮を行う威海衛隊の陶尊超。香港には初め交通指揮島がなかった。警官は道路で直接往来に立つ必要があったので、背の高く剛健(ごうけん)な威海衛人が交通警備の背骨(せぼね)となった。

威海衛出身の谷慶玉、1959年撮影。

谷氏は1932年に威海衛靖子村に生まれ1947年に香港へ来た。彼は1952年に香港警察に加わり警察自動車学校で運転教官を勤めた。

宿舎の外での谷迅昭、1953年撮影。

谷氏とその一家は日中戦争で威海衛から上海に避難した。彼は1949年に香港へ行き1952年に香港威海衛隊に加わり。彼は絵が上手く彼の現役服務で創作活動をしたという。

香港警察威海衛隊によって結成された、始めての香港ラガーチーム。谷迅昭(前列一番右1)、1952年10月に撮影。谷迅昭(右1)、交通展覧会にて、1958年に撮影。

第二次世界大戦後、香港警察に加ったほとんどの威海衛警察官は交通教育を受けて多材であった。香港で使われた普通のナンバープレートは、谷迅昭によってデザインされ英国で特許を取得したものである。彼は、輝かしい功績が考慮されて、55歳の法定退職年齢を超えて、60歳になるまで犯罪捜査訓練学校に務めることになった。

実演で横断歩道を渡る谷迅昭(左2)と二名の私服警官、1958年撮影。

香港最初のゼブラ式横断歩道は湾仔のヘネシーロード(軒尼詩道)のサウソーンプレイグラウンド(修頓球場)の外にある。その場所は谷氏の選択である。市民に正しく道路を横断させるために、彼は数か月間その道路を実演で渡った。香港警察官協会の会長である呉伝忠氏が同僚と話している様子、1983年撮影。この協会は、基礎レベルの警察官が自分の権利を守るためのものである。呉氏は1982年から1984年まで会長を務め、統治者層との接触を強化し、基本的な警察官の権利を維持するために尽力した。アヘン工場の摘発(てきはつ)で賞される呉伝忠。ある香港の報道機関は彼が工場を摘発し、ので彼を「犬の鼻」と読んだ。呉氏は警官制服局に来る前に様々な警察部署に勤務し長く務めた立場で新しい警官制服のデザインに参加して国際的な評価を得ている。女王陛下の代理として呉伝忠にメダルを授与する香港総督マクレホース、1979年撮影。

35年の香港警察勤務中に、呉氏は並外れた(なみはずれる)68の賞を受け1990年に警察署長の座を引退した。香港警察自動車学校の谷慶玉と息子の谷威基、1984年撮影。

香港警察に三世代勤務した家族も時には知られている。同じ威海衛出身の谷夫人は警察電話交換手として働き娘もまた規律部隊の入境事務職に就いた。谷威基は現在巡査部長である。同僚の張錫玉の退職の為の威海衛警察歓送会、1965年5月29日撮影。

張明鈞(後列左7)は、寧波生まれで、1932年に彼の父親と共に威海衛に来た。彼は1947年に香港警察に加わり、彼の部下と子供達も世話した。今日、威海衛の新しい世代は香港の発達に貢献している。梁振英(中列左5)は新世代の優れた一人である。イギリス女王の代わりに宋修民へ警察栄誉勲章(くんしょう)を授与する香港総督パッテン、1994年撮影。

中華航空事故の救出を担当する宋修民、1993年撮影。

宋氏は1936年威海衛温泉鎮虎山村に生まれで1949年に商船警備員の父親と共に香港へ来た。彼は1963年に香港消防署に加わり1990年代初期からは香港規模最大の消防区--海務及び離島区指揮官、高級消防区長となっていた。新空港の消防業務を視察する香港総督。

宋修民は、退職後まもなく、香港政府に認められて、新空港の消防業務の責任者に再採用され空港建設の全過程に参加した。退職時の宋修民(前列右7)と同僚たち、1994年10月8日中環に

撮影。

宋氏は彼の勤務中人望と信頼に恵まれていたし、また消防署は彼の退職の為に壮大な歓送会を開催した。

華南水害救援募金集会に参加する宋修民と林伝強、黄国斌、張俊生(左から)、1993年。

宋氏は20年以上常に祖国の公共福祉と祖国への寄付を熱心に推進して来た。彼は大陸からの香港訪問団へいつも思慮深い協力を提供した。刑事部の警察本部長戚本忠(前列左1)

戚氏は威海戚家夼出身の家族のもと1957年に香港で生まれカナダで高等教育を受けた。彼は1982年に香港警察に加わり知的犯罪に対して反テロ交渉古参の一人として長時間勤務した。彼はまた1998年から2002年まで香港特首栄養知事に任ぜられた。国際居住地賞を獲得した威海のニュースを知った谷迅昭による「威海頌」。

谷氏は故郷の懐旧を彼の美しい筆跡に溶け込ませた。谷迅昭の描いたこの絵は彼の故郷への望郷の情を表現している。

威海頌

戚谷両疃まばらなの村々
合慶遠遥打ち寄せる波
市中の環翆楼・鯨園
蒿泊·田村·張家のさいかち
長峯・竹島南北を分つ
山前山後皆な桃源
城裏・城外 古今を振るう
春光明媚 山翆り滴る
夏日炎炎として海浴して浸る
秋は気爽高く海鮮肥る
冬は年節を慶ひにぎやかさ繽紛たり
評選ばれて連合国より来たるあり
人の佳地に居りて民風淳なり
花園古城 美事多し
慶幸生じるは威海人の為なり
   著者 谷迅昭(威海)