盎斯洋行の創始者オットー・フェルディナンド・フリッツ・アンツ(Otto Ferdinand Fritz Anz)は、1840年にドイツの西プロイセンのマリーエンヴェルダー(「第二次世界大戦」後ポーランドに割譲された)生まれ、父親のハインリッヒ・フランツ・アントン・アンツ(Heinrich Franz Anton Anz)は、マリーエンヴェルダー区の政府要員で、1848年にフランクフルト国民議会代表に選出された。
ギッペリヒの後の経営責任者はオスカー・アンツ(Oscar H.Anz)、ブッセ(Max Arnold Walter Busse)、シュミット(C.W.Schmidt)などで、オスカー・アンツはオットー・アンツの子で、1887年生まれ、ドイツのデュッセルドルフとベルげドリフ(ハンブルグ市内)で教育を受け、1893年に煙台に来た。その後盎斯洋行の経営を担当し、1903年にベルギーの駐煙台領事に任命された。オスカー・アンツは煙台で東海関港務長パークヒル(S.Parkhill)の娘グレース(Grace Lilie Parkhill)を娶った(めとる)。
学業を継続するため、ヴァルター・アンツはしばらくドイツに帰り、デュッセルドルフ芸術学校(Dusseldorf Art Academy)で学び、その後ドイツのゴータ(Gotha)で一年の兵役に服した。1898年、ヴァルター・アンツは煙台に来て、盎斯洋行で仕事をした。当時、オットー・アンツは元通り紡績工場を建設するという大志を捨てていなかった。彼は煙台内陸で野蚕繭の価格が相当であるのを発見した時に、長男のヴァルター・アンツを厳寒残暑に関わらず農村に買い取りに出させ、人々はいつも背の高い西洋人の青年が煙台の山間の小径を慌ただしく旅行き、夜には田舎の小旅館に泊まる様子を見かけた。
ヴァルター・アンツは子供時代にドイツの有名な地質、地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand von Richthofen)について聞いたことがある。リヒトホーフェンは前後7回中国へ来て地理考察を行い、彼が描いた中国地図、書いた中国旅行記はヴァルター・アンツを大変夢中にさせた。リヒトホーフェンの影響を受けて、ヴァルター・アンツは製図と地形学の研究に夢中になった。ドイツで学んだ期間、彼は特に専門的に測図する計器〜セトドライトを購入した。彼はリヒトホーフェンが製図した中国地図の内容が詳細正確ではあるが、それでも多くの不完全で不正確な場所があることを発見した。ヴァルター・アンツは父親の仕事を受け継いだ後、機会があれば自分の好きな測図作業を進めた。彼はいつも煙台各地に行って測図を進めたが、時には何週間も野外で作業をした。この期間にヴァルター・アンツは多くの内容の詳細な煙台地形図を製図した。
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