一
盧溝橋事件前に、機構には領事館、大連洋行(商社)、日本国民小学校、火葬場、三井洋行があり、これらの機構では日本の作業員と家族がいた。
また市の中心ではない場所に分散している高麗人家(ヘロインの小売りを専門とし、麻薬中毒者も保護した。中毒者が最初警察に捕らえられると、肘下先に「毒」字を入れ墨され、二度目は銃殺された)、これらの人は皆在留日本人である。在留日本人のための服務場所:
(1)領事館、現在の煙台山西路北端、在留者の管理と保護をした。
(2)大連洋行、現在の勝利劇場南端、勝利路西側、入り口は東向きで、日本産日用品を販売した。またヘロイン、モルヒネを中国の売人に売ったが、この商売は公開ではなかったが秘密でもなく、中国警察官はあえてその付近では売人を逮捕せず、他所でとらえて銃殺した。
(3)国民小学校、ニ馬路東側の北にあり、日本と朝鮮の児童が学習する場所である。
(4)火葬埸、現在の腕時計工場の中にあった。元の山あいには、ただ粗末な焼却炉があった。炉の四周は鉄条網で囲まれた小さな広場であった。在留日本人が死ぬと、ここで火葬(かそう)され、ある家庭は骨壷(こつつぼ)で持ち帰り、あるいはその場に埋葬したので、この山あいにはいくつかのやや隆起した土饅頭がある。塚(つか)の前には小石碑や、小墓碑を建て、また塔型の大石碑が、やや隆起した大型墓の前に建てられ、この墓には多くの骨壷が埋められたが、これは客船阪鶴丸が芝罘嶋沖で座礁して沈没し、多くの死者が、ここで火葬されたのである。
(5)三井洋行、現在の順太街11号住宅棟の場所で、これは大型商店である。宿舎は虹口路南側の河溝西岸で、中庭の二階建て紅楼である。
盧溝橋事件後、日本人は煙台を撤退した。
二
1938年2月、日本の侵略者が煙台を占領してから、以前の機構は皆回復し、また新機構が急増して、日本人も大量に急増した。
(1)正金銀行、現在の海関街33号、日本人に貯金させ、中国人にも貯金させた。
(2)同仁病院、坤山路の現在の芝罘区機関幼稚園内にあり、日本人の診察をし、また中国人も診察した。
(3)日本料理(日本軍のダンスホール兼遊妓館)、太平街に三軒、十字街に一軒あった。
(4)日本菓子店、現在の華僑病院(煙台山病院)北側対面で入口は西向き、元のエドワード街路の東、夫婦で経営する店であるが、菓子の種類は多く、甘、塩両味があったが、甘に力を入れていて、中国人にも販売した。
(5)日本の宝飾(ほうしょく)店、菓子店の南並びで、やはり夫婦店であり、男性は平野義太郎と言い、宝飾も中国人に販売した。
(6)国民小学校は、校舎を倍以上に建て増しした。
(7)火葬場も、火葬炉を補修して塗装を一新した。
(8)日本の神社、煙台で客死した邦人と戦死した煙台駐屯の日本軍を祀る神社である。仮小屋で、平屋建ての高さがあり、平屋建ての広さがある。寺を管理している和尚は吉澄と言い、住所は今芝罘区教育局の院内東にある。
(9)岩城洋行、経営範囲は広く、海運、保険業を包括し、輸入貨物はセメント、石油、銅、金属製品、砂糖、小麦粉、ガラスソータなどで、岩城洋行は煙台の輸入貨物の70%以上を扱っていた。
后海崖、西浪ダム遠くない所にある--大青洋行、青島人張士家が開いたので、系大問屋で、日本の商人じゃないです。
(10) 特務機関(今の労働療養院の西側)、憲兵隊(今の大馬路汽運宿舎、元仁徳洋行)、武元部隊(威海衛路西側路南、元英国貴族の老猴(賴尔頓)の建物)、日本の諜報機関。
(11)海軍陸戦隊、日本武装部隊、駐屯所:今の海軍航空航空学院一帯。
(12)日本砲艇隊、駐屯地:東の部分、今の虹口賓館東側;西の部分、今の海関街21号西側。
(13)在郷軍人会、会員は予備役の責任を持ち、平時は各職業に従事し、状況があれば武器を手にして戦場に出る。煙台市解放前夜、彼らは南運動場南面(当時は郊外)一帯に八路軍を阻止した。
三井洋行頭取(とうどり)は大番頭で大隊長、小頭は正金銀行頭取などで小隊長である。
著者 煙台 張智仁
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