山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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登州及び登州古港歴代水軍活動概述


古登州は山東半島の東部に位置し、西周時代以前は東夷の一部だった。戦国時代には齋国に属し、秦朝には膠東郡に属し、その後は齋郡に編入され、漢代には東莱郡に称され、隋代には莱州に属した。唐代の高宗武徳四年(621年)に登州が設置され、治所は文登に置かれた。中宗の神龍二年(707年)に治所は蓬莱に移され、明代から清代にかけて管轄範囲は主に今日の膠東半島地域であった。

上古時代には、中国の沿岸には多くの港があった。中でも、碣石、黄、腌、瑯琊、会稽、番禺の六つの港が最も有名で、山東省にはその内の三つがあり、海上において非常に優位な地位にあった。黄県と腄県は山東半島北部の代表的な港であり、古代の港である蓬莱は黄県と腄県の間に位置している。

登州古港は蓬莱市の北部に位置し、明代洪武九年に海賊から守るために築かれた海城壁に囲まれている。そのため、「蓬莱水城」とも呼ばれ、城壁の高さは三丈五尺、厚さは一丈五尺である。


万暦24年(1596年)、土城の城壁に石煉瓦を使用し、東西北の三方向に敵台を築いた。これにより、現在の水城の南側に城壁を築き、陸地の門を修復し、北の海口を開き、通海水門を建設した。この城壁は黄海と渤海に囲まれ、東は朝鮮半島と水際に接し、北は遠く遼東半島を望むことができ、山に背を負い、海を制する位置にあり、要塞化されている。

登州古港は海上交通の要衝であるだけではなく、軍事占領の要地でもあり、古代から現在まで、常に軍事勢力が争ってきた場所である。史料と組み合わせ、登州古港の水兵の活動を以下に纏めた。

登州港は、春秋戦国時代には既に形成され、当時は齋国が兵士や物資の輸送に使用していた港であった。

漢朝は中国史上初めての繁栄期を迎えた封建王朝であり、前漢お家は4,000隻以上の戦船と20万人以上の水兵を持つ楼船艦隊を建設した。楼船艦隊は、沿岸地帯の地理的条件と防衛の必要性に基づいて漢政府が設立したもので、東南海岸の統一や朝鮮の平定戦争において重要な役割を果たした。『史記·平准書』によると、前漢時代には、旗が立っており、「高さが十余丈あり、非常に立派な」大型の楼船を建造して、艦隊を装備し、海洋領土を守備していた。

最初に登州が軍事利用されたのは前漢初年であり、「登州港」は初めて軍事港として使用された時だった。前漢初年、元燕王の盧綰の部下であった衛満は漢に背い(そむく)て、多数の人々と共に朝鮮半島へ逃亡し、衛氏政権を樹立した。同時に、多くの山東半島沿岸の住民も朝鮮北部に海を渡って移住した。『史記·朝鮮伝』によると、漢武帝元封二年(紀元前109年)、朝鮮が遼東東部の都尉渉何を襲撃して殺害したため、漢武帝は罪人を募って朝鮮を攻めた。秋には、楼船将軍の楊僕が齋から五万の水兵を率いて渤海を渡り、三星将軍の荀彘は遼東から攻めた。当時、漢の軍隊は陸地と海路の二つを分かれて朝鮮を攻撃し、衛氏政権を平定した。楼船将軍の楊僕は、古港から出発し、廟島列島沿いの海岸線を沿って朝鮮を攻めた。

戦国時代の魏明帝太和六年に、田豫は青州の軍隊を率いて海道から古港に入り、遼東の公孫淵を攻めたが、功を挙げることはできなかった。また、『三国志·魏志·明帝本紀』によれば、魏景初元年には、孫権が度々高句麗と通じて遼東の公孫淵を攻めようとしていたため、魏明帝は幽州刺史の母丘倹を派遣し、鮮卑族と烏丸族を率いて遼東軟界に駐屯させ、公孫淵は反乱を起こし、母丘倹はその鎮圧に失敗した。公孫淵はその後、自ら燕王を称し、百官を配置して独立し、紹漢元年と称した。

魏明帝は、青、兗、幽、冀の四州で大型の海船を作り、遼東への遠征を準備した。『晋書·宣帝本紀』には、魏の景初二年(238年)の春正月、太尉司馬懿が牛金、胡遵など4万の歩兵と騎兵を率いて遼東を平定し、また黄県に駐留したことが記録されている。また、各州が選択した大型船舶も登州古港から出発し、廟島を北上して遼東に物資を供給した。

北魏時代、「魏書·太祖本紀』の記載によると、天賜元年(404年)の5月、拓跋圭は山東地方の諸都市を設置し、州郡の徒を呼び集めて兵器を選抜し、軍事施設を建設して海防のための準備を整え、中国の海上防衛を開始した。当時、蓬莱は最も重要な海防拠点であり、北方沿岸駐屯軍を設置する最も早い文献記録となっている。

東晋咸和八年(333年)から咸康七年(341年)にかけて、後趙は軍事力を増強し、海上輸送を特に強化し、燕に対して戦争を繰り返し行った。

隋唐時代には、高句麗に10回も大規模な軍事進攻を行い、登州港では軍事輸送が盛んに行われた。

隋代には、登州は東莱郡に属した。唐代には、登州制度が無くなったため、当時の登州の元の地域を含め、歴史的記録では「莱州」と「東莱郡辺」を含めて表記されることが多い。『旧唐書』によると、唐の武徳4年(621年)には登州が設置され、唐の中宗の神龍3年(707年)には、登州の治所が文登から蓬莱に移され、登州港という名が確定した。隋代・唐代には、高句麗に対して10回の大規模な船沿いが行われた。海上での派兵は全て、登州古港から出発し、廟島列島を沿って遼東に至る航路で行われた。この地域の港は造船や穀物輸送の物流基地の後方基地としても機能した。

『北史』には、隋の開皇10年(598年)、高句麗王高元高元(嬰陽王)は靺鞨の一万余の騎馬兵と結託して遼西を攻め、営州総管韋沖がこれを撃退したとある。『隋書・周羅睺列伝』には、隋の文帝は「漢王諒を行軍元帥と為し水陸三十万を以て高句麗伐つ。」と載せる。

『隋書』では今回の遼東戦争では幽州刺史周羅を水軍総管として、「東莱より海に泛(うか)びて平壤城に赴き、風に遭い、船多く漂没し、功無くして還る。」とある。今回の海上軍での高句麗征伐は東莱郡即ち登州から出発し廟島列島に沿って平壤に直行したことが分かる。『通鑑紀事本末』には、隋の大業七年、幽州総管元弘嗣をして東莱海口へ往き三百艘を造船せしめ、隋の大業八年(613年)に、又た高句麗を伐つ。

唐の貞観18年(644年)、唐の太宗は高句麗が諭告を聞かないので、挙兵してこれを撃つことを決意し、『刑部尚書張亮を平壤道行軍大総管と為し、江、淮、嶺、硤兵四万、長安、洛陽の募士三千、戦艦五百艘を帥(ひき)い、莱州より海に泛(うか)びて平壤城に赴いた。」貞観21年(647年)3月、唐の太宗は「左武衛大将軍牛進達を以て青丘道行軍大総管と為し、右武侯将軍李海岸を之に副え万余人を発し、楼船に乗り莱州より海に泛びて入る。」貞観22年(648年)、薛万徹を青丘銅合行軍大総管として莱州から三万の軍と楼船戦艦を率いて高句麗を攻撃し、高句麗軍を破った。つまり、以上の記録から判断すると、貞観年間には、張良らが率いる唐水軍が莱州を出港していたが、政治組織体制の変更により、実際には唐軍は登州古港から出港した。

現在の山東半島と遼東半島の間の廟島列島中の砣磯島には、唐朝の軍隊が建設した軍事施設があるばかりでなく、唐の人が題字を書いた石刻がある。これで、唐代日本ここで水軍行動と水軍訓練を進行した証明ともなる。

1950年代まで蓬莱、黄県と莱州などの地は旧街道が多く、直径60センチほどの石臼が多く敷き詰められ、「石臼街」と呼ばれる街もあり、これは当時兵糧を使う駐屯兵が多くいたことの証左である。

五代時代には、登州港は主要な水軍基地と軍功であり、『旧五代史』の記載によれば、後唐の明宗の天成元年(926年)1月、登州の主臣が契丹と渤海の交戦の状況を報告している。この消息も遼東から渤海を経た航行船が登州に来て軍功の駐在軍が奏上して来た。

北宋時代には、山東半島の北端に位置する登州は、遼東半島と海を隔てて向かい合い、北方の契丹族が日増しに強大となるにつれ、遼国を建国し、登州一帯が国境地域となったので、宋朝は遼国の侵略と脅威を受け、登州の地位も変化が自然発生し、登州は両国交通の主要な港湾都市の作用が次第に衰退し、海防の重要地点に変化して行った。


『宋史・仁宗本紀』には宋の仁宗の康定元年(1040年)に登州弩守を増設して、登州郡を禁軍(皇帝直属)に昇格させた。『登州府志・山川』の記載によれば、北宋の慶暦二年(1042年)、契丹が海上から進入することを防ぐために、当時の登州郡守の郭志高が、蓬莱城北の丹崖山下、つまり現在の登州画河河口の小海で、馬蹄形の砂嘴囲いを建設して、水軍の要塞を建築し、水軍基地を建て上げ、「戦艦を停泊させ、水軍を訓練」させる朝廷の命令を奉じた。当時水軍が使用した戦艦の形はエツ(刀魚)に似ていて、「刀魚船」と呼ばれた。このため設置された水軍機構は「刀魚巡検」と称し、水兵300人が駐在し、沙門島を辺境守備して、契丹の南下を防衛したが、軍港は「刀魚寨」と呼ばれた。水軍は要塞を基地として、戦艦を建造し、水軍を訓練し、登州の海外を巡回防衛した。そして、登州の安定と安全を確保するため、宋は熙寧七年(1074年)に、登州港の閉港を命じたが、それから登州は対外貿易の商業港の地位は次第に衰落して、海防の重鎮としての地位が突出してきて、中国古代の重要な海軍基地の一つとなり、通商港から海防の重鎮へと変化した。

元代は中国の歴史上存在が比較的短い王朝の一つであり、国内には各地で災害が頻発し、国外では海上の侵略者が朝鮮の全羅道で騒乱し、次いで中国に危害を加えた。元の至正10(1350年)年にはついに中国の遼南、登莱一体での騒乱に発展した。


元代は北宋時代と同様に、登州に元帥府が設置され、「刀魚寨」は水軍の要塞となった。1984年港内西南部で元代の戦艦が出土した。2005年に、港内でまた元代の古船が発掘整理され、改めて元代の古港が重要な軍事基地であったことを証明した。

明代初期には、海賊は中国沿岸一帯で更に猛威を振るったが、『明史』の掲載では、明の洪武二年(1369年)に、海賊が再び山東の沿海郡県で騒乱したと記載する。翌年2月、海賊は登莱を騒がした。明の朝廷は衞省制度を実行し、登州古港は絶えず拡充され、明の洪武9年(1367年)に山東、遼南地区の軍事の重要都市登州は昇格して府となり、軍事地位は更に重要となった。


明代の洪武年間(1376年)、宋代の刀魚寨を基に、登州の古港、蓬莱水城を拡張し、画河河口を浚渫して内陸港を形成した。軍艦や水兵が停泊できる小海(北門)を開き、海を城に導き、埠頭を建設し、南に門を開けて陸と接続し、画河を濠として、蓬莱水城と呼ばれています。明太祖朱元璋を起点として、次第に海防使節が整備され、比較的総合的な海防配置が形成されて、衞所制度が採用され、「衞」「所」「寨」の三層指揮組織が設置され、海岸全体に密集して分布していた。『武備志』に記されているように、「登莱二郡は海から突き出し、まるで人が舌を出すように突き出し、南、東と北の三方から攻撃を受けるので、三営の軍を編成して通信し、それぞれに防衛します。」この内、登州営は山東半島北岸を担当し、登州衞、莱州衞、青州左衞を管轄している。登州営の管轄下にある登州衞の蓬莱には、駐留する京操軍3,900名、駐屯軍114名、城守軍250名、捕倭軍828名がいる。

明代末期の崇禎年間に、蓬莱の駐在軍が増強して、10個の陸営と6個の水営を設置し、各営人数は500名以上、総計水・陸軍は8,000人余りが駐在した。。明朝の時、山東省沿海の各営所の駐在軍は63,800人に達した。所有の営所は、登州営、文登営、即墨営の三ヶ所の営の管轄下に置かれ、それぞれ山東半島の北、東と南の三方面の防衛に担当した。。明の万暦年間に、土の城壁を煉瓦と砥石で城壁が築かれ、東、西、南,北側に砲台を築き、それによって基本的に完備した海防要塞を形成した。

清時代には、『清史稿・地理志』によれば、登州府は明代七県を除いた外に、別に栄成、海陽両県を置いた。『清史稿・兵志』には、順治元年に登州に初めて水師衞を設け、預かるに守備千総等の官を以てし、およそ沙唬船、辺江船13艘、水兵386人が蓬莱水城に駐在し、東西の海上を分けて防衛した。


清康熙43年(1074年)、水師を1200人に増やし、沙唬船を赶繒船(ガンゼン船)に改良し、20隻を配備して東西海岸を巡回し、東は寧海州、西は莱州府まで範囲を広げ、前後二つの陣営に分けました。45年(1706年)、前陣営水師は、膠州に駐屯し、南海を順海し、後陣営の水師は蓬莱水城に駐屯し、北海上を巡回しました。53年(1714)には、前後の水秀は南北泛水師と改称された。北泛水師は、登州府の蓬莱水城に駐屯し、軍の監視役1人、2人の外部委員、赶缯船4隻、双蓬船4隻、計400人の戦闘員が配備された。乾隆55年(1790年)には、膠州、文登などの陣営が海岸防衛のために統合され、総兵は登州に駐屯し、三つの水師、艦船12隻を統括し、各海岸の砲台を整備した。同治11年(1872年)には、大型兵船1隻が登州海域に停泊するように配置されました。咸豐8年(1858年)には、清政府が英仏との『天津条約』に署名し、登州、台湾などの港口を開放しましたが、登州古港が浅かったため、煙台に転換した。


登州古港は古代より天然の良港で、漢代よりこの古港を軍港とし、宋代には刀魚寨を築き、明代には土の城壁と水門を築き、また画河を水路を改め、水を城南、東面に巡らせ両面から海水を引き込み、また陸地に城門を築いて、内陸と連系した。その後明清歴代は何度も修復し、その海防体系は日毎に厳密となり、数千年を経て、中国で唯一一ヶ所の古代独特で、規模の大きい海軍の要塞建築群を建設してきた。

登州古港つまり蓬莱水城には統帥宅を設置し、北は旅順大連、東は成山頭、西は渤海南岸沿海の駐在軍を指揮して、中国の海岸国境を守衛した。登州古港つまり蓬莱水城は中国で現存、保存の最も完璧な古代軍港で、中国の古代海防氏の貴重な資料であり、中国の古代海防を研究する上で重要な歴史価値がある。

作者              煙台   闫勇