山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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盎斯洋行の経営者ブッセの二三の事

ブッセは煙台の老舗の経営者で、煙台に40年余り住んで、深く煙台の社会生活に関係した。彼は「中国のシンドラー」と呼ばれるジョン・ラーべ(John H.D.Rabe)と深厚な交誼があり、その聟(むこ)は南京大虐殺中に中国人を救出するために積極的に奔走した。

煙台港拡張のための建議

盎斯洋行は近代煙台の対外貿易の巨頭で、1886年にドイツ人アンツが朝陽街に設立した。最盛期には、盎斯洋行は煙台の輸出業務を支配したほか、煙台の西洋医学、西洋医薬品と医療機械の輸出入業務を独占した。盎斯洋行は煙台での経営が60年の長きにわたり、前後して、オットー・アンツ、ギッペリヒ、オスカー・アンツ、ブッセ、シュミットなどが商社を経営した。
ブッセ(Max Amold Walter Busse)の煙台での生活、仕事は40年余りで、盎斯洋行での業務が最も長い経営者であった。
1878年、ブッセはドイツのハンブルグに生まれ、1897年頃煙台に来て、盎斯洋行に加わった。当時、盎斯洋行の支配人はギッペリヒであった。ギッペリヒが盎斯洋行を離れてから、盎斯洋行の創始者オットー・アンツの二男オスカー・アンツが会社の支配人となったが、彼は大変ブッセを重要した。
1911年、ブッセは盎斯洋行の署名代理有効人となった。1917年〜1945年、ブッセとシュミットは煙台盎斯洋行の仲間入りをし、共同で商社の経営責任を負った。ブッセは煙台で大変活躍し、1912年、彼は芝罘クラブの財務主管となり、1926〜1930年、前後して煙台西南商会の副主席、主席を担当し、1937年からは、オランダ駐煙台領事代理を担当した。このほか、ブッセは煙台ハーバー工程会の委員となり、かつて煙台港の拡幅に貢献した。
1921年9月、煙台の東西ハーバーが落成し、1926年8月に埠頭が正式に使用が開始された。「ただ当時の港は成形が粗末で、特に青島、大連は相次いで拡張創業し、煙台港の発展は遅れ、かつ状況はますます悪化していて」、煙台港の拡張を成し遂げるのはハーバー工程会の中心任務であった。
1930年、煙台ハーバー工程会会長、税関監督呉傑華は煙台港拡張を呼びかけ、「東北大連は陥落し、葫蘆島の港湾建設は停止を告げたので、北方の重要港は天津と、煙台のみとなった。」ただし当時の民国財政部は煙台港の拡張には経済価値がないと考えた。1935年、煙台ハーバー工程会はドイツ商社盎斯洋行支配人ブッセに反論を撰文(せんぶん)させた。おそらくブッセの論文的で、道理の正しい言葉であったので、財政部は最終的に譲歩して、まず港の浚渫(しゅんせつ)を、次の拡張の準備のために進行することを、審査の上に許可した。煙台港の拡張のこの件で、ブッセは大変貢献したと言える。

「第一次大戦」時に一家は送還された

盎斯洋行で仕事をした期間が長い経営者として、ブッセは盎斯洋行の多くの起伏を経験した。その中で、1919年に盎斯洋行は閉店を強制され、ブッセ一家はドイツに送還され、当然彼の経験した最も重要な事件の一つであった。
1914年7月28日、「第一次大戦」がヨーロッパで勃発した。当初、中国は身を事外に置くことを選択したが、国内外各種の政治勢力の競争により、最終的に民国北京政府が実権を掌握し、総理段褀瑞をトップとする主戦派が優勢となった。1917年3月14日、北京政府は「即日ドイツに対して正式に外交関係を断絶する」布告を発布した。
ドイツ絶交後、北京政府はすぐさまドイツの中国での利益と居留民の問題の処理に着手した。北京政府はドイツの中国での各項(かくこう)の特殊な権益、例えばドイツの駐軍権を排除し、天津と漢口のドイツ租界を回収するなどに対して強制措置を採取した。
一般のドイツ居留民に対して、北京政府は国際慣例に基づいて、基本的に寛容な保護的政策を採取し、ドイツ人居留民は自主的に去留(滞在)を決定できた。中国国内に留まるドイツ居留民は地方地方官庁に登記後、「元の住所に継続して居住し、平和と適当な職業に従事し、身体財産の保護を得た」。一般ドイツ居留民は中国国内の旅行あるいは転居もできた。北京政府の温和な対策で、中国ドイツの宣戦後も絶大多数のドイツ人居留民は中国に留まることを選択し、ブッセ一家もそうした。
北京政府のドイツ人居留民の処置の態度と措置は、他の協約国の不満を引き起こした。各協約国の中で、イギリスは積極的に厳しくドイツ人居留民の処置を主張し、また積極的に北京政府にドイツ人居留民の送還を促した。
イギリスの主要な目的は決定してドイツ人居留民が継続して中国で協約国に不利な活動に従事することを防止することではなく、ドイツの中国での勢力、特に商事勢力を取り除く事であった。イギリスを始めとする協約国の圧力で、北京政府はパリ講和会議開催前夜敵国居留民の送還すること決定を下した。1919年1月25日、北京政府は『管理敵国人民財産条例』『管理敵国人民財産事務局条例』『管理敵国人民財産事務局分局条例』と『遣送敵国人民事務局条例』を発布した。この条例は、敵国居留民の中国での動産と不動産は皆地方官庁が接収管理し、別に管理敵国人民財産事務局及び各地支局が関連事項を処理する責任を負った。
こういった背景のもと、ドイツの居留民の資産である盎斯洋行は接収管理された。規定によって、ブッセの煙台山東北隅の豪華別荘も接収管理されるべく、送還の前に、ブッセはそこを煙台大北電報局監督の、デンマーク人モーテンソンに売った。
この取引は敵僑財産没収規定を回避しようとする疑いがあったので、そこで、敵国人民財産の事務を管理する膠東道尹兼外交部山東煙台交渉員呉永が何度も北京外交部へ報告し、伺いを立て、この取引の合法性を確認した。
送還された汽船上で、ブッセは同様に送還されるドイツのシーメンス社の駐天津支社の支配人ジョン・ラーべに遭遇し、両人は深厚な友誼を結んだ。
1919年9月15日、北京政府総統徐世昌はドイツに対する戦争状態の終止を命令し、送還されたドイツ人は続々と中国へ戻った。1921年5月にブッセは「中国商社益盛玉号の雇用を受けて担任支配人の名」で煙台に戻り、その後1945年まで、ブッセとシュミットはずっと煙台で盎斯洋行を経営した。