山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台古い建物ー海関埠頭

1861年8月に煙台港が開港した当時は、波止場も航行設備もなく、ただの自然の港であり、煙台山から西と北は砂浜が優勢な自然の海岸でした。

煙台港の対外開放の最初の数年間、港の貿易活動は基本的に煙台山の西側と大廟(天后宮)浅瀬周辺で行われ、貨物の積み下ろしは非常に困難でした。港で荷上げする大型船を例にとると、船は入港後、煙台山の西側海域に停泊し、大型船に積まれた貨物はサンパンに降ろされ、サンパンによって岸に運ばれます。荷役作業員は商品を岸まで運ぶ為に渡った。この積み下ろし方法は、夏と秋にも行うことができます。冬が来て、北風が吹き荒れ、港に風が大きく、波が岸に打ち寄せ、積み下ろしの生産は全くできません。


煙台港のこの種の原始的な積み下ろしの方法は1866年には変貌した。東海税関税務司漢南(C.HANEN)は1863年初めに着任してから、煙台港のこの種の原始的な港の情況を見て、煙台港を海外に開放する需要に満足できず、埠頭などの施設の建設を提案した。

1865年清国総税務司ハートは東海税関への提出書類を根拠に、清国政府の三口通商大臣崇厚との議定と同じく、煙台山西側に税関役所と埠頭などの建築を批准した。


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6年前、1960ねん前に発行された外国新聞紙上に一枚の煙台の写真を見つけたが、この写真は1860年にフランス軍が煙台を侵略した期間に撮影された写真で、写真は明らかに南太平湾南側のフランス軍キャンプであった。この写真には、煙台山西南側の自然に突き出た岬が、二つの自然港湾を形成するのが、はっきりと映っていて、煙台の旧住民はそれぞれを「南太平湾」と「北大平湾」と呼んでいた。大風が出ると、漁船、商船はここへ風を避けて来たので、「太平湾」と名付けている。煙台開港以前に煙台に往来した船舶は主に帆船で、この二つの太平湾は帆船を風よけの為に収容する最も良い場所であった。


漢南は煙台港の自然地理の情況を根拠に建設の計画を進行して南北に二つの「太平湾」中間に突出した岬の両側と突端に浚渫と、石礫埋設を行い、その後大型の岩石で埠頭を建設中した。

当時は埠頭を建設中するにはまだコンクリートブロックで施行する工法が無く、大石のブロックを切り取って埠頭の建設を進行するしかなく、石ブロックの出どころは現地で調達したので、煙台山の西側が当時の石材の切り出し地点であった。



この二つの工程は1866年に竣工したが、総工費は白銀12,525両8銭8厘であった。必要な銀両は東海税関の船舶トン数税から支払われた。建設された埠頭は海関埠頭と呼ばれた。建設後の埠頭は東西に伸びる突堤式(とっていしき)で、西端の幅は約33.5メートル、その主体は長方形のブロックでできている。埠頭完成後も、二つの港湾を保留し、埠頭は港湾の南を以て「南太平湾」と称し、埠頭が港湾の北を以て「北太平湾」と称した。埠頭の北沿いの最大水深は約-4.5メートルであり、停泊能力は約500トンであった。海関埠頭には、人力で持ち上げて回転させる5トンの固定ブーム、税関密輸防止用のパビリオン、物品検察室の三つの支援施設があります。最初の二つの施設はかなり前に取り壊されており、現在は一つの検察室のみが残っており、山東省政府によって省レベルの文化財保護単位としてリストされています。

海関埠頭が1866年に建設されてから150年の歴史があります。香港で最初の公共埠頭であり、山東省で近代的な港湾建設方法によって建設された最初の人工埠頭でもあります。それ以来、古代の港湾である太平湾は、当時、山東省で唯一外界に開かれた窓の歴史的責任を負い初めました。では、埠頭の建設が完了した後、煙台港の積み降ろし方法にどのような変更が加えられるのでしょうか?

第一に、船舶の積み下ろしや関税課税などの港湾活動は、固定された中心的な場所を持っています。煙台港の南岸は浅く平坦で、開放的緩く、船は海岸線のどこにでも停泊し、サンパンを使用して貨物を積み下ろしするため、積み下ろしの場所は決まっていません。開港前後の最初の数年間、積み下ろしは天后宮とその近くの海岸に集中していました。海関埠頭が完成した後、港の活動の中心は天后宮から海関埠頭に徐々に移りました。

第二に、港湾の荷役技術がある程度改善されている。それまでの積み下ろしは全てサンパンバージで、貨物スタック(商船)ー浅瀬(サンパン)ーサンパン(浅瀬)-商船(貨物スタック)という流れが基本でした。海関埠頭の完成後、一部の船はサンパン乗り換えを必要とせずに、埠頭に直接停泊して積み下ろしを行うことができます。大型貨物は、固定ブームで積み下ろすことができます。

埠頭の完成後、当時の英国領事は次のように評価しました、「検査をより効果的に実施し、より迅速な荷下ろしを容易にするため、様々な船が岸に寄港し、乗客の上陸を容易にしました。」

それ以来、海関埠頭は、煙台港の船舶の積み下ろしの大部分を担っています。1954年6月、煙台港が西防波堤に西埠頭を建設した後、煙台港の船舶の荷役の重心が徐々に西に移動し、海関埠頭は煙台港の船舶取扱の中心位置から次第に撤退して行きました。


以下は、密輸防止のために税関で使用されていたパビリオンの古い写真です。1912年8月21の朝、孫文は中国商船「平安」に乗り込み、巡洋艦「海晨」に護衛され、煙台海関埠頭の密輸防止パビリオンの近くに到着して上陸し、一日の巡視活動を開始しました。



作者 煙台 劉文君 劉岩