旅順汽車駅
旅順汽車駅は旅順口区井崗街8番地に位置し、東は白玉山の麓の民間建築、西は龍河、南は旅順軍港、北は駅のアパートです。東省鉄道の最南端にある周(水子)旅(順)支線の終点です。
旅順駅は1900年10月にロシア人によって建設され、1907年に日本人によって拡張されました。駅舎は、西から東に向かう典型的なロシアスタイルの木造バンガローで、待合室、乗務員室、プラットフォームプロムナード、トイレなどで構成されており、待合室の正中にはロシア風の鉄皮魚鱗瓦塔楼があります。敷地面積は420平方メートルです。軍事及び海陸運送の必要性の為に、ロシアは旅順軍港の近くにサイトを選択します。
1898年5月7日、ロシアは清政権にピーターバーグで「中露旅大续訂租地条約」に署名するよう強制しました、第3条は、東省鉄道の支線が旅順口と大連湾で終わると規定しました。同年7月6日、清朝特別使節団の徐景澄、楊儒、ロシア東省鉄道公司はピーターバーグで「東省鉄道更新契約」を締結し、その内の一つは東省鉄道が旅大に建設され、東省鉄道南満支線と名付けました。1899年、六工区及びハルベンと旅順双方向から建設されました。1902年11月、南満支線正式開通、全線長61キロメートル。1903年7月14日、東西主幹線(満州里ーー浽芬河)正式開通。
1905年9月、日露が「ポーツマス講和条約」を結び、日本は終戦まで長春ーー旅順の南満支線を所有しました。
1945年8月22回、ソ連軍は旅順を占領、旅順駅も占領して接収し、中ソ両国は連合して経営しました、中国長春鉄道管理局に管理しました。
1952年12月31日、中国正式接収管理し、瀋陽鉄道局大連分局周水子車務段管轄の二等駅です。(中国歴史文献「東省鉄道」と名付け,日本文献「東清鉄道」と名付け、後「東支鉄道」と名付け,ロシア「中国東部鉄道」、「中国東方鉄道」と名付けました。)
2006年5月25日、中国国家級文物保護ユニットに登録しました。
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