山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台の開放と海参崴(ウラジオストク)航路の繁栄


煙台の開放は、清朝政府が受け入れることを余儀なくされた西洋世界によって中国に課せられた製品でした。しかし、煙台港の開港により、山東省が外の世界と通信するための扉が開かれました。近代における煙台の開港は中国人の屈辱をもたらしただけでなく、山東省の開放と社会の進歩を促進し、同時に山東半島と海参崴(ウラジオストク)間の航路の繁栄を促進した。


煙台

唐の時代、海参崴(ウラジオストク)周辺は渤海に属していた。当時、渤海王国は山東半島と航路で頻繁に交流していました。山東半島の登州にも「渤海館」があり、渤海からの客人を特別に迎えています。山東半島の海岸沿いの港には、業務を行う「渤海国家通関船」も頻繁に停泊しています。「通関船」とは、通関検査や納税が必要な船のことで、唐代に山東半島と海参崴(ウラジオストク)の交流が盛んに行われていたことがうかがえます。



清朝海参崴の満州族

五朝時代、山東半島と渤海国、黒水靺鞨等の国々も経済と貿易を維持し、「五朝新史」の多くの場所に記録されています。唐末期から五朝初期にかけて渤海王国は、現在の丹东、長春、ハルビンの東、現在のロシアのウラジオストク一帯、現在北朝鮮の平壌清川江の北の朝鮮半島一帯に含まれていた。五朝時代の黒水靺鞨は現在のロシア東アジアの国境内にあります。北宋以降、海参崴(ウラジオストク)一帯は遼、金、元、明、清朝に属した。海参崴(ウラジオストク)一帯と中国の往来は山東半島を経由せずとも、陸路に改めて通行できるようになった。1861年、煙台が開港すると、海参崴(ウラジオストク)から山東半島への航路が長年の沈黙の後活躍を始めた。


海参崴市

1860年、『(清露)北京条約』を根拠に、海参崴(ウラジオストク)を含む烏蘇里江(ウスリー江以東の地域は、ロシアに割譲された。ロシアは海参崴をウラジオストクと命名した。煙台は近代山東半島で最も早く海参崴(ウラジオストク)と通商したとして、1994年、煙台とウラジオストク市は友好都市の関係を締結した。ただし清末の史料と煙台開港以来、煙台税関は海参崴と称したので、本文でも海参崴と称した。


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1858年、清朝政府とイギリスは『北京条約』を締結前、山東半島の登州を西洋列強の中国内陸への通商港とした。1861年、イギリスはまた清朝政府に迫って煙台を登州に替え通商港と変えた。これ以来、煙台は正式に開港し、東海税関を設立した。煙台は当時山東唯一の対外通商港であった。煙台開港後、山東半島と海参崴(

ウラジオストク)との航路の繁栄は、当時の煙台港遠洋航路が提供する数値が証明している。

統計の数字は、1865年から1904年に至るまで、海参崴一帯の煙台に対する貨物輸入は、毎年間断なく、ほぼ10万税関両(純銀583.3ポンドを1税関両とする)以上であり、1879年には2,282,277税関両に達した。煙台から海参崴一帯への貨物の輸出も、同様に毎年間断なく、上昇の趨勢(すうせい)を呈した。1886年は34,292税関両、1887年は39,657税関両、1888年は59,959税関両、1889年は67,550税関両、1890年は77,363税関両、1891年は、89,698税関両、1892年には、10万税関両を超して、倍に発展し、189,528税関両に達した。その後の上昇趨勢は、例えば1893年は240,930税関両、1896年は382,169税関両、1897年は491,998税関両、1898年は501,381税関両、1899年には、561,287税関両に達し、煙台開港当初の1865年の782税関両の700倍余りに達した。これで煙台開港後、山東半島と海参崴地区の海外貿易の急速発展の程度を見ることができる。


劉素芬教授は『煙台貿易の研究』書で、「ロシアに属しているシベリアの煙台への対外輸出の比重は安定に成長し、主な原因は当地を開発に行った移民の、多くが山東人で、好んで郷土の産品を使用したので、両地の往来は頻繁となり、特に光緒21年(1895年)の露清密約で東清鉄道建設が締結された時、多くの山東の労働者の出向(しゅっこう)を吸収したので、輸出が大幅に成長した。煙台から当地へ輸出された産品は、粉絲、衣料履物類、穀物と肉類が主要であった。日本は1898年からロシアのシベリアの地位を取って代わった。」と言及している。海参崴は当時ロシアのシベリア地区と煙台通商の主要な港であった。

山東半島と海参崴の航路の繁栄は、ロシアから煙台へ進出する船舶の回数とトン数にも答えがある。

1864年、ロシアは僅か2艘の船で煙台港に進出し、トン数は500トンであった。1865年、たった1艘船が煙台港に進出し、トン数は305トンであった。1866年、5艘船が煙台港に進出し、トン数1,063トンで達した。1873年、8艘船が煙台港に進出し、トン数は3,134トンであった。1883年、8艘船が煙台港に進出し、トン数は4,246トンに達した。1893年、22艘船が煙台港に進出し、トン数は22,056トンであった。1898年、52艘の船が煙台に進出し、トン数は51,194トンに達した。1902年、ピークに達し、832艘の船が煙台港に進出し、トン数は241,420トンに達した。


1930年代の繁栄した煙台港

煙台が開港すると、海参崴の対中国貿易の繁栄を大いに促進し、宣統元年(1909年)、清朝の海参崴駐在総領事官桂芳は、清朝に呈上する上奏文に、海参崴は軍港として開港し、次に通商も兼ね、航路鉄道の往来は容易となり、商務が大変盛んとなった。ここに来る中国人は日増しに賑やかになり、商工双方で通年約4万人がいて、4組に分かれ、山東を東幫、直隷・東北を北幫、広東を広幫、江蘇、浙江を南幫と言い、東幫の人間は3万余りと言い、広南北三幫の人は1万に満たなかった。中国人が海参崴に通称に来たのは、山東人により創始され、引き寄せられたものが多いのは、往来が便利て、職も元のままであったからである。⋯⋯光緒29年(1903年)、大小の中国商人は利益を得ないものはなかったが、光緒30年の日露戦争から、海上国境は封鎖され、それぞれ運輸が阻まれ(はばむ)た。光緒31年(1905年)に軍事が平穏となると、各所で防備が撤収され、中国商人の運輸する物資は順調となり、利益は数倍となった。これにより、家業を起立するもののそれぞれの商人は、うわさを聞きつけ奮起して、足を継いてくるものは肩をぶつけて込み合い、込み合った勢いがあった。全国その他の地区で、海参崴を包括する東北地方にいる人の総数は山東の四分の一に満たなかった。これは、海参崴の対中国貿易が、山東半島から開始して、山東もずっと海参崴の対中国貿易で絶対的優勢を示したことを説明している。この一切は、煙台の開港に利を得ている。

煙台開港以来、山東半島と海参崴航路の往来の繁栄は、当時の煙台港の遠洋航路が提供するデータからも証明することができる。


煙台大馬路のロシア領事館旧址

1873年、海参崴から煙台に移動した人は僅か38人であり、煙台から海参崴へ移動した人は35人であった。1881年、海参崴から煙台に移動した人は僅か488人であり、煙台から海参崴へ移動した人は524人であった。1885年、海参崴から煙台に移動した人は1,287人であり、煙台から海参崴へ移動した人は671人であった。1897年、海参崴から煙台に移動した人は12,691人に増加し、煙台から海参崴へ移動した人は8,686人に増加した。1900年海参崴から煙台に移動した人は28,653人に大幅に増加し、煙台から海参崴へ移動した人は21,911人に増加した。1906年、海参崴から煙台に移動した人は何と60,662人に増加し、煙台から海参崴へ移動した人は21,872人となった。

山東半島と海参崴の海外貿易の繁栄と人員の往来の増加で、ロシアは1881年に領事代理人を設置し、ロシアと関連する業務を処理した。しかし最初はイギリス領事館が代理となり、1904年にやっと煙台にロシア領事館が建設された。山東半島から海参崴へ向かう中国人は、必ず煙台駐在のロシア領事館で通行証明を取得し、その発行料金は一枚毎に1ルーブルであった。日露戦争の1906年に、これ多くの人が海参崴から煙台に入港したのは、日露戦争が拡大して帰国避難した中国人と関連がある。

山東半島と海参崴間にこれほど多くの中国人が往来したことには、重要な原因があり、清の咸丰10年(1860年)以前には、黒竜江以北と烏蘇里江(ウスリー河)以東の広大な地域は、まだ中国の領土で、海参崴地区には清国の人民がまだ住んでいたことによる。同じ言語、同じ血統で、煙台が開港したことにより、必然的に両所の人員と商業の往来が加速したのである。


民国時期中国駐海参崴(ウラジオストク)領事館

海参崴は中国語に訳すと「海辺の漁村」あるいは「海辺の網干場」である。清時代、関東を超え海参崴へ行った山東や、華北の人はこの里を「崴子(湾曲地)」と呼んだ。当地はナマコが多く生産されたので、「海参崴」と中国語訳された。この説明は当時海参崴に行った山東人は大変多く、山東人が海参崴へ行くには開港後の煙台港からの出発を選択した。清朝の光緒の『平度志要:戸数と人口)』には「ロシア人がシベリア鉄道を経営し、人民の海参崴、ハルビンに赴くものは、船を芝罘に求めて、日々市場のよう(に立て込んだ)であった。」と記載する。当時、威海衛の戚氏5家族がロシアの海参崴に転居した。1918年4月13日の『大公報』には、ロシアの10月革命の影響は海参崴に波及し、海参崴の社会治安は悪化し、当地の「居民の惊恐は異常」である。各国は船を出して自国民を撤退させ、中国の海参崴駐在員も外交部に電信で、商船を派遣し、中国人住民を接収することを要請した。電報は「清の光緒30年(1904)の海参崴の内乱は、嘗て赤十字会が招商局の海定汽船を借用して華僑の危険から救出しに行き、当時の華僑は全て登州(現在の煙台、威海、青島)、莱州、青州の人々であったので、船は煙台に至り、煙台招商局(煙台赤十字支局)が華僑の人々の故郷と移動距離の遠近を調査し、船賃等を渡して郷里へ帰した。今回赤十字会は旧規に従って、煙台招商局への為替送金を旧処理通りにする予定であった。」と言及した。これは、清の光緒30年(1904年)に、当時海参崴に居た華僑は主に山東半島の登州、莱州、青州の3都市からで、今の淄博市臨淄区以東の山東半島地区を統括し、今の青島、煙台、威海、濰坊4都市の全部の県市区、及び淄博市臨淄区と広饒等の区県を包括した。1918年なっても、「煙台招商局の旧処理」により、光緒30年(1904年)の作法で船を派遣し海参崴から華僑を撤退させたが、当時海参崴の華僑に山東籍のものが多いことを説明し、そして煙台招商局は当時山東で海参崴に往来した主要な事務機構であり、これは、煙台、青島と開港後両所の人員の往来が極大に躍進してきて、山東半島と海参崴の海上航路を繁栄させたと見ることができる。


1894年に勃発した日清戦争は、中国北部における日本の経済拡大の好機となった。日本の商社は、自国産の安価な商品と、山東半島に近く、輸送が容易な条件により、山東市場の覇権を争うために、英国、米国、そのほかの国の競争により、日本の経済・軍事力を急速に拡大しました。山東半島とロシア海参崴との海外貿易の急速な発展は、1904年勃発した日露戦争によって抑制された。「光緒三十年煙台口華洋貿易状況論」は、「ビジネスが低迷し、商品が停滞し、商人が足止めを恐れる」と記ししている。日露戦争が勃発すると、ロシアは敗北し、中国北東部の支配権を失い、山東半島と海参崴の海上貿易と人的交流にも影響を与えた。1904年、ロシアの煙台への貨物輸入は5225税関両に急落し、1899年の561,287税関両の10分の1以下となった。1903年以来、ロシアは煙台港に出入りする船舶の数とトン数を大幅に削減した。1903年には、440隻の船が煙台港に出入りし、トン数は143,334トンでした。日露戦争が勃発した1904年、駆け付けた40隻の船は煙台港に出入りして、総トン数は11,036トンであった。ロシアが敗戦した1905年、たった4隻の船が煙台港に出入りし、総トン数は僅か3,962トンであった。その後数年間は上昇したとは言っても、数10万トンであった。これは、日露戦争が山東半島に対してロシアとの海外貿易に重大な影響を与えたと見て取れる。一方日露戦争の戦勝国日本は、対中国の貿易と貿易往来は増加した。山東半島と日本の海外貿易も噴水のように発展した。


今日のロシアの都市海参崴(ウラジオストク)は、当時の海参崴であり、依然数万人の中国人が居住しており、彼らの多くの人は当時煙台開港後海参崴で商売をしたり労働者として働いた人々の子孫である。現在、山東一帯の老人の記憶には、依然多くの当時の記憶が残っている。筆者は嘗て膠東一帯の老人が海参崴(ウラジオストク)を「崴子」というのを聞いたが、彼らは当時多くの人が「崴子に行く」って海参崴(ウラジオストク)で商売をしたり労働者となったのである。彼らはまたはっきりと当時のウラジオストクの中国街、北京街、绥芬河街などの中国地名で命名した街道を記憶している。しかし今日ロシアのウラジオストクを旅行観光した中国人には、もう中国の影を見ることはない。第一世代の老人が亡くなると、この嘗ての経験は資料の中にしか残らなくなっている。


作者 煙台 劉鳳鳴