山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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婚約13年でも全く会ったことがなかったが、胡適はわざわざ江冬秀に会いに行ったが、彼女はカーテンを引いてどうあっても嫌がった

1927年、胡適は27歳であった。彼と江冬秀は婚約13年目であったが、全く会ったことがなかった。念願を叶えるために、彼はわざわざ江家を訪ね、面会を求めた。江家の人は口を揃えて賛成したが、江冬秀は唯一人でカーテンを閉めて、どうあっても嫌がった。

江冬秀は胡適より1歳上で、二人が婚約した時、江冬秀は14歳、胡適は13歳であった。

彼らは親戚で、胡適の姑は、江冬秀の母方の叔母であった。

二人の婚約は、言わば、ドラマチックであった。

当時、江冬秀の母親が親戚宅に行き、偶然13歳の胡適を見かけた。

彼女は胡適が生来眉目秀麗であるのを見て、娘を彼の許嫁(いいなづけ)にしたいと思った。

しかし、胡適の母親は表明することを躊躇っていた。

胡適の母親が躊躇ったのは、主に三つの理由がある。

第一に、江冬秀は胡適より1歳年上で、不相応であった。

民間には「男性は10歳年上でも良いが、女性は1歳上でもいけない」という言い方がある。

第二に、江冬秀は虎(寅年生)に属し、胡適は兎(卯年生)に属した。

胡適の母親は、虎に属する人は生辰八字が強く、このため「母老虎」なのは利害がある。そして胡適は兎に属し、二人の五行相克(占いの相性)が心懸かりであった。

第三に、胡適は既に没落しており、出世が望めなかったことである。

実際は、前の二つの理由は、見せかけの行動である。本当の理由は、胡適の母親は胡家が既に暮らし向きが衰退しているのに、江家は正に日が高く登っているようで、(格差に)高望みせず、吉凶に走って都合したのである。


だが、江冬秀の母親は胡適が大変好みであった。

彼女は特に胡適の叔父に口利きを頼み、また江冬秀の私塾の先生胡祥鑒に仲人を頼んだ。

最終的に、胡適の母親は同意を渋り、ようやく四柱推命で見ることを答えた。

占い師は運勢を占って、胡適の母に「これは一門に良いご縁である。」と説いた。

胡適の母親はそれでも安心せず、再び江冬秀の八字(四柱推命)を竹筒に放り込み(ほうりこむ)、その後敬虔に竈神を拝んで、竹筒を振り、落ちて来た八字は、正に江冬秀のものであった。

この大波乱の後、胡適の母親は両家の結婚に同意した。

二人は婚約し、14歳の江冬秀は、家で覚悟して嫁入りを待っていた。

一方胡適は上海と、アメリカに行き学問を求めた。


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彼らはずっと顔を合わせることはなかった。

ただ新式の教育を受けた胡適は、どうして父母が独断した婚姻を平然と受け入れられるのであろうか。

そこで、彼は「引き伸ばす」という奥の手を使って、婚約に対処した。

1908年、両人この婚約3年目、江家では嫁入り道具が揃ったので、嫁ぐことになった。胡適の母親も新居を準備し、陰陽師に吉日を選ばせ、胡適の帰宅を待って結婚した。

17歳になった胡適は、恋に憧れる頃であるが、母親に「この仕事は今年はまだやらないでください。」と言った。

その後、彼は手紙で、陰陽師を罵倒して、6条の決行しない理由を列挙した。
当然、母親の傷心を避けるために、母親の承諾を受け、留学中に秘密で結婚することはないとした。留学を終え帰国すると、江冬秀を迎えに来た。
しかし、学究の道は、大変ゆっくりで、この延長は、13年もかかった。
時間が延長するにつれて、故郷ではいろいろな噂が流れた。
なにか胡適はアメリカに彼女があるとか、なにか胡適は外人女性と結婚したとか、子供まで生まれているとか……。

しかし江冬秀は最後まで、平然と、心静かに結婚を待った。

そして、胡適の希望に従って、纏まった小脚(纏足)を開放し、嘗て学習した習字で、胡適と文通しようとした。

丸々13年、彼女は胡適に遇うことはなかったが、二人の婚約を守り、諦めようとは思わなかった。

1917年、胡適は博士号を取得し、研究を終えて帰国し、北京大学最年少の教授となった。
彼は自ら江家に行き、婚儀を相談し、未婚の妻にも会いたがった。江家の人は大変喜び、この博士の婿を留めて、一層もてなしたのである。
食事後、江家の人は胡適を案内して江冬秀に合わせた。
初めは、江冬秀の兄が胡適を付き添い、彼を江冬秀の寝室の入口に連れて行き、その後に妹が出てくるように人を遣わした(つかわす)。
しかし江冬秀はどうしても出てこなかった。
その時、江冬秀の七番目の叔母がやってきて。彼女自ら江冬秀の説得に入って言った。

昔の決まりでは、未婚の男女は婚前に会うことはならなかったが、既に民国年間となっていたので、一部の思想解放をした女子は、学校へ進学し、男子と共に勉強し、作業もした。

叔母さんは申し訳なく思いながらも、手を伸ばして、強行に天蓋を押し開けようとした。この時、胡適は慌てて手を振り彼女を止め、その後ゆっくりと退室した。

出発前に、胡適は江冬秀に手紙を残していたが、その手紙には「故郷の風俗がこのようになったのは、姉様方の所為ではないので、決して姉さまを責めてはいけません。」と書いた。

お預けをくらい、面目を無くしたが、胡適は依然穏やかで礼儀正しい態度を保った。

張愛玲は嘗て、「胡適と江冬秀は、古風な婚姻でも珍しく幸せな例である。」と言った。
胡適は穏やかで礼儀正しく、面目を無くしても、意のままに怒ることなく、反対に、彼は江冬秀の難点を理解し、彼女が旧習を破って、自分と会うことができないことを理解していた。
そして江冬秀も感服に値する。
胡適と結婚してからは、彼女は封建的な習慣に固執することなく、却って文字を学び、胡適の好みを尊重し、彼に相伴(しょうばん)する努力をした。
好ましい感情は、きっと相互を尊重し、かれこれ思いやる過程にある。

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