山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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中日友好50周年/斉徐福ゆかりの煙台で行うツアー(毎日)


08:00 日本語ガイドがお出迎え、煙台ホテルをご出発

09:00 煙台龍口徐福故里ご到着

10:00 莱州紅布村の曲松齢故居、西由天主教教堂

11:00 莱州博物館

12:00 莱州郷土料理の昼食(1時間)

14:00 蓬莱閣、蓬莱街

786元/1人(日本語ガイド、昼食付き。ご予約は前日午後15:00前にお願いします)

*現地事情により日程を若干変更させて頂く場合もございますので、予めてご了承くださるよう、お願い申し上げます。

担当: 李君

営業時間:18660355510(微信同)

メール:lijun _ueihai@yahoo.co.no

注1:徐福祠

『史記』の「秦始皇帝本紀」に「徐市等費以巨万計、終不得藥」、「淮南衡山列伝」に「遣振男子三千人、資之五穀百工而行、徐福得平原広沢、止王不来」のことが載っています。漢代に設置された徐福県は、徐福が仙薬を求めたことからこの名があり、現在の煙台龍口市の徐福鎮に当たります。そこに徐福祠があり、本堂に徐福の像が安置されています。民間伝説では、徐福が秦の始皇帝を説得して「長生不老の薬」捜しに、3000人童男童女百工を連れて日本へ渡ったと伝えられています。
徐福が文字、農業そして医薬を日本に伝えた話は日本でも有名で、「徐福上陸の地」の伝承地が佐賀、和歌山、千葉などに今も見られます。


曲松齢の故居

注2:莱州の田舎では清末民初の段階で大量の「関東行き」「崴子(ウラジオストク)行き」の民衆がいて、異郷で発展して仕事をして、故郷で家を建てたので、莱州の田舎には立派な家が多い。


紅布村でも伝統的色彩の豪商が居て、彼の名は曲松齢と言った。資料では、曲松齢は青島で仕事をして、視野を広げて、故郷を離れ海参崴(ウラジオストク)で挑戦することを決定した。村の老人は私の曲松齢は誤って人を傷つけたので、田舎を離れなければならなかったとも語ったが、どんな原因にも関わらず、あの時代は階級も固定化されず、何処に行ってもチャンスに満ちていた時代で、努力と冒険が人の運命を変えることができた。極寒の新世界はこの青年を温かく迎え入れ、またこの世界はこの野心盛んな青年に更に相応しかった。彼はロシア語を真面目に学び、貿易に足を踏み入れ、「永和盛」という植物油工場を創業し、海参崴(ウラジオストク)で最初の内燃機関自動車を買い、自動車学校の修理センターを設立し、海参崴(ウラジオストク)中華商会の会長となり、彼の従事した事業は伝統と流行のはざまをスムーズに転変した。彼もまた故郷で留守をする夫人のために田舎に流行していた豪邸を建てることを忘れなかった。

膠東の清末、民国時期の建築で最も人気のあったのは中西折衷の建築であった。曲松齢の旧居は二階建てが囲う二棟が連結する四合院であった。二つの建物は東が高く西を低くした、高低の順序のある伝統を継承した。東棟の大門は建物の東南側に開き、中国式の伝統吉祥の記号が、「外壁門戸」と山型の壁や照壁(入口の目隠し)の随所に見ることができた。


教堂東側面


教堂の付属建物、嘗ての郷村学校と神父の休息所

注3:西由教堂は田舎にあり、姿は繊細ではなくゴシック式の「スタイル」で、礼拝堂、宿舎、鐘塔、附属学校などが一大「家族構成」となっている。


神様の霊で、私の保護神と欲しい。

1901年ドイツの神父梁振鐸が建築を統括し、建築が始められ、彩色硝子を嵌め込んだバラ窓(ステンドグラス)、壁や天井には絢爛な絵画を描き、四階建ての尖塔型の鐘塔には300斤(1.5トン)の銅製のベルが掛けられ、ベルの音は周辺10里(5キロメートル四方)に鳴り響く。


その後、教会は学校に改められ、鐘塔は崩壊し、銅製のベルは売却された。今日幸いなことに当時建立された教会建築の刻銘が依然として壁面の保存されている。考証によれば、これは中国国内でも数少ない「帝王教会」である。


今回の考察は我々の一つの疑問、つまり教会鐘塔の位置が何処であったのかを解決した。無人機(ドローン)で撮影した写真には鐘塔の跡がはっきり映っているが、やはり問題解決には一定のレベルに立つ必要がある。


鐘塔の痕跡

教会の前に立ち、建造時期の場景に進入すると、建築家が湾曲した木製のアーチを設計し、大工たちはアーチを切り出して、レンガ職人が、足場を通してレンガと石材を一つ一つ積み上げ天空に向かい建てたが、おそらくその中には少なからぬ理想主義者の貢献精神がその中を貫通したのであろう。


礼拝堂


集合写真

関係資料を研究する時、ある一つの問題が私を困惑させるが、プロテスタントが人員を異国へ派遣する時は夫婦が共に出かけ、互いの面倒をすることが求められた。一方カトリックでは「一人で異国の異郷人」となり、活動の地は僻地が多い。資料では、莱州地区を担当する神父は中外の人士が各々一人づつで、西洋からの交通は比較的便利であったが、常駐している外国神父はたった一名であった。山東省の東部では布教している神父は、殆どがフランス、ドイツ、カナダなどの国から来て、私が嘗て見た神父の家族の写真は、彼らは本国での生活環境は恵まれていたと言えるが、百年余り前の中国での仕事は、彼らはどのように大きな生活の格差を克服したのであろうか。文化的衝突の心理的圧力をいかに解消したのか。1910年代に西由教会の前での集合写真では、中外の人物が20人近くで、主宰の羅漢光が(神父の)正装をしている以外は、そのほかの人は長い中国服に、白靴下、布靴、現地人の扮装と異ならず、見たところ長年の生活で東土の中に溶け込んでいるようである。初め問題には答えがあるようである。



煙台海草屋

注4:蓬莱は徐福に第一回東渡の出発港であり、ここで準備と集結を完成し、最後の検査を完了した後、紀元前219年に蓬莱港から長島列島を経由して遼東半島の南端へ出航した。当時斉の船隊は遠洋航海の経験があり、北航路〜沿海航行(遼東半島を経由して、朝鮮半島を経由して日本へ渡る)を選択し、神様を宿るの国(日本)へ目指して南下した。蓬莱は秦の始皇帝の命で日本へ渡ったとされる徐福の出航の地としても知られている。

蓬莱港がも遣隋使、遣唐使の上陸の港であります。蓬莱は小野妹子、円仁法師などの使節のゆかり街であります。中日友好、中日文化交流、中日経済交流の重要な一環としての役割を果たした。


作者 煙台 曲徳順