山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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北洋残砲の前世今生

劉公島の北洋艦隊提督署(海軍公所)の大門の両側に、2つの大型鋼鉄文化財が露天展示されている。東は砲管の残片の大砲で、どんな種類か、威海衛のどの砲台から来たのかは知られていない。

西側は4つの構造が同じ鋳鉄部材であり、どのような部材で、何の用途で作られたのか、どこからもたらされたのか考究(こうきゅう)が足りていない。これらの疑問が解決しなければ、文化財としての体面は判然(はんぜん)としなく、文化財の価値も確定しがたく、歴史沿革も曖昧なのである。

北洋艦隊提督署大門東に露天展示されている20センチメートル口径(こうけい)の大砲残片。

筆者は2件の文化財の現地測定を行い、大量の日清戦争威海衛戦役の文書を紐解き(ひもとき)、関係者を訪問し、複数の情報を総合して、最終的に、大砲残片は日島砲台に配備されたもので、中国で模造されたイギリス式アームストロングの半地下塹砲で、4つの鋳鉄部品は日島砲台の2門の半地下塹壕砲の昇降架台であることを確認した。

大砲残片の弁疑

大砲残片が日島砲台に配備された中国で模造されたイギリス式アームストロング砲と認めれたのには、三つの根拠がある。
証拠の一つは、残片大砲の尾部(びぶ)尾栓(遊底、ボルト)の特徴が、イギリス式アームストロング砲に属すことである。
アームストロング砲はイギリス式砲で、発明者のウイアム・アームストロング士爵(ナイト、ししゃく)(Sir WIlliam Armstrong )の名を取って命名された。両社の特徴で、最も明白な区別は尾部の遊底(ゆうてい)で、前者は後ろに開く「断続的ねじ山式」の尾栓で、後者は側面に開く「横楔ねじ栓式」の尾栓である。
残砲尾部の尾栓(遊底)は既に欠損していて、上図より、尾部の6個の穴は、尾栓を固定するねじ穴が見て取れ、尾部砲管内のねじ溝は明らかに「断続的ねじ山式」尾栓に属している。これより、残砲は疑いもなくイギリス式アームストロング大砲に類型するものであると考えられる。
下図では日清戦争後日本軍が描いた日島砲台の半地下塹壕砲で、砲身尾部はイギリス式アームストロング大砲の「断続的ねじ山式」尾栓であり、ドイツ式のクルップ大砲の「横楔式」尾栓ではない。

ここに2枚のクルップ大砲の画像を選択したが、その尾栓の構造と開放式のアームストロング大砲の差異は一目瞭然である。

尾栓(遊底)が開放状態のクルップ大砲と、側面開放の「横楔式」尾拴、これがクルップとアームストロング大砲を区別する明らかな特徴である。
威海鹿角嘴砲台の24センチメートルクルップ大砲は、尾栓が取り外され、横向きの開口部が露出している。
大砲における尾栓は、ライフルの尾栓(遊底)と同様に、大砲の核心部分で、尾栓上には「鋼底鋼縁」と呼ばれる重要部品があり、火薬の燃焼ガスの漏出(ろうしゅつ)を阻止し、尾栓が高温で融解(ゆうかい)するのを軽減する二重の作用がある。
威海衛戦役の前夜、北洋艦隊提督丁汝昌は南岸の大砲が守備を失った後に日本軍に利用されることを恐れて、砲台守備陸軍と、「各砲台に準備している鋼底鋼縁から取る、島上に置く計画」を検討したが、実施不可能。遂に大砲は敵の資材となり、防御の大局は壊滅して収拾のつかないものとなった。
証拠のニは、残砲の尾部に残るマークが、この大砲が中国で模造されたイギリス式のアームストロング大砲である事を示している。
残砲の尾部砲筒上の円弧(えんこ)面にある、ぼんやりした円形の図案で、腐食の為細部はもう擦れて(擦れる)はっきりしないが、同心円の輪郭(りんかく)と左側の元宝(馬蹄銀貨幣)形の図案が珍しいもので証明できる。この図案と清末の上海江南製造総局の円龍マークは全く相似(そうじ)している。PS(Photoshop)技術で二枚の図を重ねて比較すると、幾つかの特徴点が一致するので、この残砲上の図案が将(はた)に円龍のマークであり、これにより、残砲は江南製造総局の製造したものに属し、日本軍の記載した清国模造と相符合して適応している。
証拠の三は、大砲の類型と口径を根拠に、残砲は日島砲台20センチメートル口径の半地下塹壕砲と認められる。
中国側史料と日清戦争後の日本軍の実地調査記録を検討すると、威海衛にある陸海の砲台で、日島と劉公島北口だけが半地下塹壕式砲台である。その為残砲はこの二基の砲台の一つにしか属している。日島半地下塹壕砲台に配置の2基は中国模造のイギリス式アームストロング大砲で、口径20センチメートル、砲身は35倍口径(7メートル)、中央回転軸方式であり、劉公島北口半地下塹壕砲台に配置の2基はイギリス製造のアームストロング大砲で、口径24センチメートル、重量23.5トンである。残砲の口径は20センチメートルなので、劉公島北口の24センチメートル口径のアームストロング大砲と符合している。〜上記の通りで、残砲は江南製造総局の模造イギリス式20センチメートル口径のアームストロング大砲で、日島半地下塹壕砲台に配置されたものに属すべきものである。

1985年、威海市北洋海軍提督署文物管理所が成立し、威海文化館文物(文化財)管理組織がこの残砲を接収した。これによってそれは劉公島に運ばれた。当時其れ文化管理所所長戚俊傑が、運搬(うんぱん)過程は紆余曲折(うよきょくせつ)し、この重量級の鋼鉄文物を運搬する為に、大型クレーンと開放ブランドのトレーラーと運用して、残砲をトレーラーに載せたが、鋼鉄のスプリングが圧断(減し折りへしおる)され、別のトレーラーに載せ換えるしかなく、その後海軍の上陸用舟艇に載せ劉公島へ運び、北洋海軍提督署正門前左側に据え付けられた。今日劉公島を訪れる人々は、これ(残砲)が日清戦争で「三ツ口大将軍」海防大砲の真相を目の当たりにできるのは、当時の大砲保存、運搬した文化財作業者の努力に他ならないのである。

疑惑にさせる問題は、もともと日島砲台の物であった大砲が、とういう理由4,000メートルも海を隔てた北岸の祭祀台付近に埋まっていたのかである。

数トンにもなる残砲は、相当規模の吊り上げ運搬設備がなければ、このような海を隔てた遠距離をするのは不可能である。結局いったい誰が、何時日島から遠くここへ運んだのであろう。

日本側の日清戦争資料を調査すると、威海衛戦役の後、日本軍は捕獲した大砲などの戦利品と砲台を計画的な処置を進行した。取り外しの容易な大砲部品は、皆収集してまとめ日本へ送られたが、取り外しや運搬の困難な特別大きいものや、あるいは利用価値のない砲は皆爆破したり海中へ投入された。

日本陸軍は南北両岸の砲台と大砲の破壊と当地区の戦利品の収集を担当した。そして日本海軍は島上守備に不要な武器と価値ある戦利品を収集して、日本国内に運搬した。

劉公島を担当した臨時要塞(港)の司令官であった小田亨は、1895年2月24日より開始し、4月15日に終了するまで、劉公島の方面は、砲台大砲砲機と機器部分機械、その他の戦利品の運送をほぼ終え、砲台大砲の運搬作業は砲台と、隠顕砲台と黄島砲台の大砲と台2基を、分別(ぶんべつ)して桟橋に運び、4基の大砲は既に「観音丸」に積載(せきさい)されたと、報告している。このことから、黄島砲台の4基のクリップ大砲、劉公島北口の半地下塹壕砲台の2基のアームストロング半地下大砲と砲座が、皆日本に運ばれたことがわかる。

日本軍の3月13日の日島に対する踏査(とうさ)報告では、大砲機器はまだ残っていて、4月28日に諦め切られた任務報告には、日島砲台機器を搬送した記録がない。これによれば、日島砲台の機器はその後運搬されたとするべきである。

その該当する砲台機器の処理の結果は次のようになろうか。6基の2.6インチ簡易機関砲は運送の部類に入れるべきで、2基の12センチメートル副砲も、運搬の難易度はさほどでもなく、やはり搬送の部類に入れるべきであるが、1898年に撮影された日島砲台の写真は、1基の12センチメートル副砲は日本軍により遺棄されている。2基の20センチメートル半地下塹壕砲は、戦時中に損傷した1基は遺棄され、完好な1基は日本に運ぶことが可能であるが、やはり運搬は困難で爆薬で破壊されたのであろうが、歴史的資料の証拠が不足している。

筆者は劉公島の旧住民劉元倫(1936年生まれ)を訪問したが、彼が13歳の時に日島砲台に登った時、砲台上部の鉄器はもうなかった。また、1949年になって、この遺棄された副砲内の大砲機器は、全てもう跡形(あとかた)もなかった。

1895年から1949年の半世紀には、戦乱で、砲火が引き続き、一般大衆はこの重量無比(むひ)の廃鉄を運搬する能力や意思がなかった、あるいはイギリスの威海衛租借時代にイギリス軍が行ったのか、さらに分析すれば、前者の可能性がやや大きく、日本軍が威海衛を占領した当時に発生した可能があると推測される。 日島砲台、6名イギリス海軍士官は日清戦争威海衛の戦いの遺留の口径12センチメートルの副砲を観測

日清戦争の後、日本は清国が戦争賠償金を返済する担保として威海衛に駐留し、3年に達する長い期間に、欲しいままに占領地の資源を掠奪し、鋼鉄材料を収集する為に、人間を派遣して、沈没した「定遠」などの艦船を引き上げ、また劉公島の鋼鉄製埠頭を解体しようとした。

鉄埠頭解体のことは、中国側が外交筋に抗議を紹介した為取りやめになった。日清戦争で破壊されたいくつかの残砲は、皆高品質の鋼材であり、日本は当然見逃すことが出来なかった。海中に投げ込まれ(なげこむ)なかった残砲は、北岸の魚雷部隊の付近の埠頭に集められ、その後船積みされ日本へ送られた可能性が高い。日島の残砲はこの期間に日本軍より祭祀台に運搬され、なぜここに残された可能性がある。しかし、より確実な資料が発見されていないことを鑑みる(かんがみ)と、その謎は解決が待たれるだけである。

半地下塹壕砲架の由来

北洋艦隊提督署門前西側に陳列展示してある鋳鉄部品は、日島砲台の2基の半地下塹壕砲台の昇降架台である。
1980年代初期、威海湾南岸の海埠村の村民が日島砲台の浜辺でニ揃いの砲架を発見したが、砲架はもともと海砂に埋もれていたものであった。海の波によって洗い流され、その上引き潮が大きかった為、砲架が現れた為、村民達はどういったものかわからないまま、海から掘り出し、廃鉄とするため海埠村へ持ち帰った。威海市北洋海軍提督署文物管理所が情報た後、すぐさま人を派遣し、調査後日島砲台から出土し、日清戦争の重要の歴史文化財と確認した。村民達は大変合点(がってん)して、遺物を文化財部門に寄付した。
砲架は半地下塹壕砲の昇降を制御する核心部分で、その地下塹壕砲の作用を、人間の両腿のようであり、もし砲架の支持を失ったら、地下塹壕砲は完全に機能しなくなる。下面の2枚の構造支持図を通して、砲架構造と運転原理を基本的に理解することができる。
半地下塹壕式砲の砲架は主に上下両部分からなり、上部は砲身を上下昇降を制御する昇降砲架で、下部は砲身回転を制御する旋回砲架であり、昇降砲架と旋回砲架の間に斜対面する支持機は油圧シリンダー支柱であり、砲身尾部と旋回砲架の間の部材は、大砲の発射角度を制御する連結器である。大砲発射時に発生した反動力を利用して、支持器の油圧ピストンを圧縮(あっしゅく)し、さらに昇降砲架を制御し落下を復帰し、再び砲弾を装填(そうてん)する。砲座の最下部に固定された円形の底座(ていざ)上には環形のギヤ軌道があり。回転砲架上のギアとか見合い、旋回砲架上の手動駆動のギアの回転を通して、ギアは砲架と砲身を再駆動して全体で旋回し、360度全方向射撃をするのである。
測定の結果、その砲架の砲耳部分のたがの内径は23.5センチメートルで、前述のアームストロング砲の砲耳は22.5センチメートルで、両者には1センチメートルの差がある。
これは、砲耳(トラニオン)と砲架の耳たがの間に、さらに厚さ約0.5センチメートルの銅製ライナリングがあり、耳たがの錆付きと熱冷による膨縮(ぼうしゅく)を回避して、砲管昇降の機敏性に影響するためである。一歩進めてその昇降砲架と残砲は相互に付帯していることを証明している。
両基の半地下塹壕砲砲架は、すべて上部の昇降砲架部分であり、下部の旋回砲架は行き先がわからない。両揃いの昇降砲架は日本軍により海中に放棄されたもので、下部の旋回砲架も同僚の運命にあったとすべきである。
これに反して、両基砲架は皆打ち捨てられたが、そんな、戦中に損傷を受けていないアームストロング大砲は、おそらく大重量のために、運搬に不便で遺棄された可能性が大きい。例えば先進的な金属探知機を使用して、日島砲台の周辺海域を探索することは、重大発見につながるかもしれない。ある日いつか、海中の日島砲台のその他の機械が日の目を見ることが期待される。

著者 煙台 王記華

日本文資料整理 威海 李君