山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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2022年1月のブログ記事

  • アメリカ前大統領グラントと煙台

    北方で最初の開港都市の一つとなった。近代煙台は優越な地理位置と良好な水深のある港湾で、西洋人が中国を訪問する重要な足掛かりの一つであった。1879年6月17日、開港都市煙台は1名の神秘的な貴賓〜総統の任を降りたユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses S. Grant,1822-1885)... 続きをみる

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  • 斉中簋

    1962年に招遠県霊山郷東曲城で西周時期の一式の青銅器が出土したが、そのうち最も重要なのは2件の造形が精美な銅簋(どうき)〜斉中簋である。この2件の銅簋は1対1で、構造と、模様、大きさは全く同じで、その内1件が煙台市博物館収蔵となっている。斉中簋は通高19.7センチメートル、口径18.5センチメー... 続きをみる

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  • 近代煙台の基督教歴史(二)

    果物を家政婦として福音の道を開く〜ネヴィウス ネヴィウスは田舎に自ら設計した洋式の小屋を建て、「南楼」と名付けて、宣教師と集会の最適な場所とした。彼は山間の土地が痩せていて、農民は皆貧窮なのを見るに当たり、すぐ先進の農業科学技術を導入し、農民の収入を高め、人民の生活を改善することを決意した。ネヴィ... 続きをみる

  • 近代煙台の基督教史(一)

    山東登州は、今は煙台に属すが、清朝時期には、登州府と称して、宣教師が中国へ来た頃には、登州は地所が山東半島一体であったので、渤海と黄海に臨んでいて、近代早期には登州と煙台は山東に来る外国人宣教師の最初の逗留地で、また早期のキリスト新教教会の中心地であり、彼らはこの両地方を拠点と大本営として、山東全... 続きをみる

  • 煙台芝罘神社

    日本人は煙台山上に戦跡(せんせき)記念碑を建設したほかに、1941年に神社〜芝罘神社をも建設した。芝罘神社は煙台駐在の日本人の一つの宗教祭祀場所で、具体的には日本国家の宗教〜神道を崇拝し祭祀する神霊の社殿である。この内、神道は神社の精神的支柱である。明治維新後の日本の中国侵略拡張で、神道は重要な役... 続きをみる

  • 光復煙台記念章

    辛亥革命(1911年)時期の煙台独立の特製記念物。銀製、楕円形(だえんけい)、小径3.5センチメートル、だい径4.5センチメートル、上部に紐(ひも)があり、紐には赤色三角形の装着布結ぶ。記念章の正面中央部には中華民国の国旗と「鉄血十八星」陸軍軍旗の図柄があしらわれている。 上部に「光復煙台」とあり... 続きをみる

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  • 飛鳥形鈕蟠螭紋提鏈盒(ひちょうけいちゅうばんちもんていれんごう)

    提鏈盒、青銅製、通高10.4、口径6.1、胴径10、底径8センチメートル、太鼓胴で、高台が外に付く。字母口。蓋があり、蓋部分は全面に蟠螭紋を付け、蓋頭には鳥形のつまみがあり、鳥形は非常に迫真していて、羽を広げ飛ばんとする様子である。両側にはそれぞれ円環のつまみがあり、つまみには鎖が付き、蓋のつまみ... 続きをみる

  • 済南洪家楼教会にはどのような歴史があるか

    各地方には各地方の特色があり、北京といえば我々はすぐに故宮や、長城と天壇を思い起こし、南京といえば、我々は総統府や、中山陵等を思い起こすように、この地方の代表、その地方の名物、あの地方の珍品がある。これらの人気の地方を話し終わった後で、我々はまた済南洪家楼教会に関して話してみたい。中国の伝統と特色... 続きをみる

  • 煙台の流行病百年史

    1860年代、チャールズ・ホールというイギリスの宣教師が夫人と女児を連れて煙台に来た。 当時太平天国の乱が猛威を振るっていて、彼ら(チャールズ)は戦乱を避けて、あるオランダ船籍の汽船に避難したが、思いがけないことにその場にコレラが爆発して、煙台市街にも大規模に蔓延した。チャールズはかつて1862年... 続きをみる

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  • 旅順のこの洋風の白亜(はくあ)の建物は「医学専門学校」の附属病院である

    日本の植民地統治の時期には、旅順に三ヶ所の高等教育機関が建設された。すなわち元の406病院にあった旅順工業大学、海軍基地司令部にあった旅順高等学校、海軍某部署の兵站部(へいたんぶ)にあった旅順医学専門学校である。旅順医学専門学校は、黄河路に位置した。日本の帝国主義が満州を侵略して、満州国を建設して... 続きをみる

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  • ロシア軍の旅順での道路修理

    旅順龍河の河口の未開発の状態は大変に広々としていた。清末に、水中に石ブロックを敷き詰め沈下橋を形成した。潮が引いた時には、通行人も車馬も皆通過できた。満潮時には小船が料金を取って対岸に渡した。 上記の古写真中の道路と橋梁(きょうりょう)は、ロシアが旅順大連を強制租借してから、太陽溝新区を開発するた... 続きをみる

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  • 漢奸張本政伝

    張本政(1865〜1951)、字は徳純、祖籍は山東省文登県、遼寧省大連市旅順黄泥川屯姑子溝の人。中国北東部で一番の売国人である。 清の同治4年(1865年)12月12日生、父親は普通の漁師で、中年で落水しなくなり、妻と3人と2人の娘を残した。当時、家庭は貧しく、かつては4年間私塾にで学んだが、その... 続きをみる

  • 威海の旧英国領事館跡地

    威海の旧英国領事館は1901年に建てられ、現在は一つの建物だけがよく保存されている。以前は、イギリスの傭兵部隊の副指揮の住所、中国連隊の、いわゆる華勇営の副指揮官の住所であった。華勇営が解散後、イギリス当局の中国担当部局となった。後の、1930年10月に中国政府が威海衛の主権を取り戻した後、イギリ... 続きをみる

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  • 秦嵌銅詔版鉄権- -棹秤(さおばかり)の錘(おもり)

    底径24.7センチメートル、高さ20.5センチメートル、重さ32.5キログラム。 鉄の鋳物(いもの)、半球状で、平底、上部は半環形のつかみとなり、分銅の側面には銅の詔勅(しょうちょく)版がはめ込まれている。銅の詔勅版は長方形であり、長さ11.08センチメートル、最大幅8.8センチメートル。上面に秦... 続きをみる

  • 煙台の都市記憶

    近代に煙台に通商港が設けられて(1861年)以来、経済社会は空前の発展で地域規模が、急速に拡大し、中国最初の民族工業を育成して、特色が鮮明な近代文化を形成し、中国北方沿海の重要な都市の一つとなった。 煙台博物館は煙台民族博物館と伝統文化の研究と継承、文化遺産の保護と利用に力を注ぎ、2010年から民... 続きをみる

  • 金州南山の四灯明

    旅順に南山坡山記念碑があり、金州に南山戦跡記念碑があり、文字の標記がない情況では、この二基をどのように区別するのであろうか。比較的広大で、先頭で、上部に装飾物のあるのが南山戦跡記念碑である。 金州南山は金州市街の南1キロメートルにあり、海抜116メートルである。山は高くはないが、金州地峡中間の要害... 続きをみる

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  • 日本の一家が二〇三高地重砲兵観測所の記念碑を参観

    日露戦争後、二〇三高地は日本国内で大変有名となり、旅順を訪問して戦跡を参観する日本人は二〇三高地を最初の場所として、彼等は乃木が題字を書いた「爾靈山」記念碑に駆けつけた。最近発見した古い写真は、日本の一家が日本軍重砲兵観測記念碑を参観しているもので、これは旅順地区で最初であった。 この写真は大変鮮... 続きをみる

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  • 旅順で日本婦人の「二〇三高地」髪型の写真を発見

    1904年、帝政ロシアは積極的に「黄露計画(ロシアの中国進出)」実現した。1904年2月6日、日本は正式にロシアと国交を断絶し、2月8日夜間に宣言無く戦った。これで日露両国の帝国主義の掠奪が勃発した。 制海権を掌握するため、日本軍統帥部は旅順口をロシア艦隊の封鎖を決定した。1904年2月9日から1... 続きをみる

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  • 乃木希典の旅順でのいささかの誤伝

    旅順の民間では乃木大将を取り上げると、それぞれに伝えられて、多くの老人は、語っている。乃木は大変凶暴で、ニ〇三高地攻撃でしばらく落とすことができずに、多くの人が死亡すると、乃木は(怒りで)目を赤くして、それに軍刀で自分の次男を切り殺して、自ら日本軍を引率(いんそつ)して一緒に突撃して、やっとニ〇三... 続きをみる

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  • 近代の教会病院と教会大学(中国)

    およそ全ての良好な病院の前身は教会病院で、多くの有名大学も教会が設立したものである。 元代に、アラビア医学が中国に伝えられた。 1270年に北京に「広恵司」が設立された。 『元史、百官志』によると、広恵司の職責は二つある。 一、宮廷用の回族薬品の製造と混合(調剤ちょうざい)を掌握する。 二、当直衛... 続きをみる

  • 旅順博物館のマンモス前歯(まえば、ぜんし)

    旅順博物館のマンモスの前歯はどうしてもたらされたのか。 旅順博物館新館には長いマンモスの前歯が展示されている。このマンモスの前歯はどうして館内に収蔵されたのか。そこには物語がある。 改革開放後、民間人は船を整え、海に出て魚を捕獲することが認められた。旅順西部の海辺の一漁民が、ある日海に出て漁をして... 続きをみる

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  • 旅順新発現--ニ〇三高地のロシア軍の頭蓋骨写真

    203高地に関する文章は、多い。最近また新発現があり、203高地で戦死したロシア軍の頭蓋骨の写真が発見されている。この写真が撮影された時は203高地記念碑の建設よりも早かった。写真は日本人による撮影である。 我々が通常見る頭蓋骨は完全なものであるが、この頭蓋骨は前頭左半分に大陥没(かんぼつ)があっ... 続きをみる

  • 関東州地名の由来

    日露の旅順大連の強制租借当時の歴史を回顧すると、必然的に「関東州」に触れなければならない。その「関東州」の地名はどこから来たのか、面積は何平方キロメートルか、本文で簡単に説明する。 1898年3月27日ロシアは『(三国干渉)遼東返還」を口実に清政府と『旅順大連租借条約』を締結し、租借期間25年で、... 続きをみる

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  • 芝罘倶楽部(金海湾1号棟)

    煙台金海湾酒店(ゴールデン ガルフ ホテル)は煙台開港百年の文化の中心に位置している。金海湾酒店1号棟の芝罘倶楽部は、元はイギリス人居留者が煙台で開設した娯楽場所で、一時賑やかであった。中外の商人が往来し、各国大使館が集中し、かつては海岸の景色が果てなかった。 金海湾酒店1号棟(芝罘倶楽部)は煙台... 続きをみる

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  • 清朝中期と晩期の旅順捕雕(くまたか)の二つ場所

    雕(くまたか)は一種の大型猛禽で、タカのようで、タカより大きく、体型はたくましく、翼と尾羽は長く幅広、飛翔はゆったりとして、山岳近くの高空を旋回して飛翔し、野ウサギ、大型哺乳類の家畜の子などを捕食し、またネズミ類も好んで食べるもので、中国でよく見られる種類には金雕(イヌワシ)と烏雕(カラフトワシ)... 続きをみる

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