山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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新建環翆楼碑記外伝

威海博物館に日清戦争時期の文化財が有ります。その一つは海軍船匠福島秀光の作ー「新建環翆楼碑記」の拓片,もう一つは海軍編修書記瀬戸晋は福島秀光の拓片に跋文をします。 福島秀光の作成ー「新建環翆楼碑記」拓片

威海博物館収蔵品 瀬戸晋の題跋文

威海博物館収蔵品

瀬戸晋の跋文(訓読篇)

明治乙未春二月,威海既失守,劉公島亦相継陷,我軍处之亦。越三月,余陪鮫島少將往覌威海城,城明永樂年間所建,虽規模不甚雄偉,負山面海,亦足以為一方鎮。遂登山,山頂有楼,曰環翆楼。

前有断碑,写文字漫滅,有往往不可⚫️者,土人曰:貴軍之始到此地也,看次為不祥,怒倒之余地,,乃两段如此亦。

海軍船匠福島秀光多能之士也,一日欲往摹之,次為字体貼。有客難之曰:甚哉!子之好奇也。碑文称我曰倭寇、曰倭夷,無禮亦甚亦,子豈非忘我国体醉異鄉文物者乎!秀光縱容曰:是知其一, 未知其二者也。夫禹域之俗,唯我獨尊,視異邦人猶禽獸然矣,其称我曰夷曰寇,不足复怪也。而今也一敗塗地,上下倉皇,割地請和,称曰上国,何其快也!故今我摹之,次示泰西人士,侮我者⚫️明前車之鉴,亦不善呼。

遂飄然駕軽舸去,此夕携摹本⚫️⚫️来示余,并征文,余乃不顧⚫️文擧前言次易跋雲尔。

明治廿八年晚夏于扶桑艦

海軍編修書記瀬戸晋識并書

明治乙未春二月,威海既に守りを失い,劉公島も亦た相ひ継いで陥る,我が軍之に処るなり。超えて三月,余、鮫島少将に陪いて往きて威海城を観る,城は明の永楽年間に建つる所なり、規模は甚だしくは雄壮ならずと雖も、山を負いて海に面し,亦以て一方の鎮為るに足る。遂に山に登る,山頂に楼有り,環翆楼と曰う,前に断碑有り,写せる文字は漫く滅し,往々にして【】べからざるもの有り,土人曰く「貴軍の初めて此の地に到るや、次(ほとり)?を看て不祥と為し,怒りて之を地に倒せり,即ち両断すること此くの如し」と。海軍船匠師福島秀光は多能の士なり、一日往きて之を摹して、次で字体貼?を為らんと欲す。

客有りて之を難じて曰く「甚しきかな!子の奇を好むや。碑文我を称するに倭寇と曰い倭夷と曰う,礼無きこと亦た甚し,子豈に我が国体を忘れて異郷の文物に酔う者に非ずや」と。

秀光、従容として曰く「是れ其の一を知りて,未だ其のニを知らざる者なり。夫れ禹域(*)の俗は,唯我獨尊にして,異邦の人を視ること猶お禽獣然の如し,其の我を称して夷と曰い寇と曰うのは,復た怪しむに足らざるなり。而るに今や一敗地に塗れ,上下倉皇として,地を割きて和を請い,称して上国と曰う,何ぞ其の快なるや!


故に今我之を摹し、次いで泰西(*)の人士に示さんとす,我を侮る者は【】明前車の戒めにして,亦た善からざらんや」と。遂に飄然として軽舸を駕してさる。

此の夕べ摹本を携えて【】【】来リて余に示す,并びに文を征む,余乃ち【】文を顧みず前言を挙げ次いで跋に易えて云うのみ。

明治廿八年晚夏扶桑艦に于いて

海軍編修書記瀬戸晋識し並びに書す

*土人:現地の住民

*禹域:中国

*泰西:西洋

威海衛城の旧風景

注:威海衛城は、明の洪武31年(1398年)、倭寇(海賊)の襲来に備えて衛城を築いたのが始まり。倭寇(海賊)に対する防衛の為に建設された城壁都市の一つで、明朝の三大衛城の一つです。明朝は倭寇の害を防ぐため、全国の防衛拠点に「衛」(5600人からなり指揮官を置く)、「所」(1120人からなり千戸官を置く)。嘗ての威海海岸には2.5キロに煙墩(狼煙台)を置く、5キロに堡城を置く。「威海衛」は威震海疆の意味から、一番目の規模のものということになります。威海衛城は城壁と池に囲まれ、城内には兵士が詰め、兵営や練兵場、食料庫、指揮所などがありました。威海衛城南北長さは870㍍、東西長さ632㍍、面積55ヘクタール。衛城城壁は煉瓦作り、高さ3丈(10㍍)、厚さ2丈(6㍍)、城周3キロ28歩、城池1丈5尺(5㍍),4城門を設置,28個駅伝を設置していた。北京の紫禁城は明の永楽4年(1406年)なので、それより8年前です。

1406年倭寇船隊来襲、劉公島を拠点としては威海衛城を直接攻撃して、戦闘は三日間続けて城を陥落せず、明朝の援軍がどんどん増援し、やむを得ず倭寇が撤退します。これをきっかけに倭寇来襲の事件が次第になくなりました。

附录:登環翠楼·七言排律

威城楼枕翠微巔,環翠名楼一扁懸。

百尺崚嶒台奈古,数層縹緲閣凌煙。

棟樑金碧翚仍革,斗拱玲瓏麗且堅。

明淨八窗紛洞達,清虛一闥絕塵緣。

登臨有興襟懷闊,瞻望無邊景物鮮。

聊伏雲霞開境界,不須閬苑覓神仙。

銀河皎皎天連海,綠水茫茫海接天。

眾派朝宗難畫量,群山奔赴類擎拳。

火精冰鑒扶桑出,白練紅綃渤澥湔。

島嶼参差還蕩漾,龜龍出沒更盤旋。

任時旱澇潮何變,隨月盈虧信罔愆。

聲韵大驅雷鼓震,浪頭高卷雪花顛。

乾坤都向寰中括,星斗移来波底瀍。

蜃現楼台微雨后,鵬搏霄漢大風前。

漁舟倚港垂綸釣,鹽鑊沿汀拾鹵煎。

山鳥徒勞填木石,麻姑浪說變桑田。

城中煙火千家屋,城外膏腴萬頃阡。

松柏行台堅晚節,杏桃遶郭斗春妍。

閣頭堪折蟾宮桂,山麓頻觀玉井蓮。

一帶金湯嚴保障,三齊疆田樂安恬。

旌旗影里排干羽,鼓角聲片雜管弦。

文德誕敷因被遠,夷航通貢递爭先。

區區倭種而今遁,赫赫神威自昔宣。

分寸微勞慙未效,文和椽笔謬蒙編。

太平臣子無多事,但祝皇圖億萬年。

弘治四年春朔旦,山東按察司奉敕巡海御史、蜀瀘趙鶴齡書。

威海博物館は日清戦争時期の文物が欲しいです。中日友好の為に頑張ります。