山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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旅順黄河路の冠水

『旅順志』によると、旅順中心河は長さ4.9km、集雨面積は5.3平方km、上流斜面の比落は45.6%、下流の水路の比落は8%、上流と下流の高低差は35.3米とされている。元々は自然の川でした。1937年、上溝石場橋からダムまで、石造りの人工水路が海に沿って建設されました。この区間は全長3351米、高さ1.9米、幅7〜30米で、旧市街を流れる最も長い川である。

書面の言葉では川ですが、庶民は昔は溝と呼ばれるのに慣れています。旅順旧市街の上溝、下溝の地名はこの川に因んで付けられた。


30年代、旅順中心河の様子

日本の植民地支配下では、川溝の両岸に壁が改造され、木々を植えるなどの改造が行われた。清国時代やロシアによる旅順大連強制租借時代に建設された簡素な木橋を全面的に改修した。

幹線道路につながる橋は全て鉄筋コンクリート造で、簡易な歩道橋はプレハブパネルで建てられている。上溝から下溝の海へ入り口まで、大小10数本の橋が架けられた。


中心河入海口の海岸橋

1986年には中心河(旅順黄河路)の改造工事の実施が開始された。まず期間を区切り、鉄筋コンクリートの型枠構造で中央河川への暗渠化工事を連携採用して、計画通りに暗渠蓋上に道路や、広場と緑化工事を実施した。八つの段階を経て、20年に渡る持久戦で、中心河川の暗渠化工事は勝利で完成した。


中心河両側の緑化樹木

当時のメディアの報道は、道路が広くなった、視界が開けた、環境が改善された、街が綺麗になったなどなどで称賛の嵐であった。人々がこの傑作を祝おうという熱気が高潮した時に、大雨が降ろうとしていた。これまでの雨水は様々な方向から直接川に流れ込んだが、今では流れ込む河川を見つけられず、街路上を奔流して、低地に向かって寄せ集まるしかなかった。民主橋駅から友誼公園の数百米の路上は膝まで水没して、車両は正常に通行できなくなった。人は水に出口をあげず、水は人に情けを掛けず、この一点は中心河を固く暗渠にした後に苦い結果を与えた。排水量を増やすために、毎回大雨が来る前には政府職員が皆で道路沿いのマンホールの蓋を全部開けて、急流を低減した。黄河路の「黄氾濫地区」に面して、人々は当初利用していた露天の河川排水の規格がいかに多くの科学的に厳密であったのか、そしてのちに固く蓋をしたのがどれだけ草卒(そうそつ)で盲目的であったのかを理解した。

1990年代半ば、旅順の教育局は夏季幹部会議を招致し、北京の教育専門家に報告を請う(こう)た。彼は旅順の人で、故郷の小さな町に愛着があった。当時中心河は暗渠化が進行していて、これに対して、彼は大会で、都市建設は同前出来るだけ旧の風防を保留すべきであるのとの個人意見を発表した。彼は、川がない都市盛り、都市を精神的にするために、財力の運用を惜しまず人工河川を開いて、都市に水を引き込んでいるとも語った。我々には河川があるのに、神経的に保護もせず、河に蓋をするのは、一種非科学的な方法で、早晩大自然の懲罰を受けるであろう。後に道路冠水し、ニューマート(新瑪特)の地下一階に水が入り、北京の専門家の認識した批評が正確であったことを証明した。


2018年8月の大洪水

当時、進行していた暗渠化工事に対して、ある老人は、もし1960年代初めのような大洪水が来たら壊れると言った。1960年7月23日午前、旅順に豪雨が振り、河川が膨張し、当時ちょうど中心河は河口から満潮が入り、英武橋下の橋脚は洪水が引き倒した樹木や流れた草で塞がり、10分で中心河は両岸まで氾濫した。英武橋の東に住んでいた戴長寿と言う人の家では、屋内の飼い(かう)馬の車で、製粉所を開いていたが、急流の河水が彼の一間を流し、大きな箪笥(たんす)が水に流された。河水が引いた後、戴家の父子は馬車を引いて友誼公園一帯に出かけ家中で洪水被害に遭った物品を探した。良かったのは現在では過去のような大雨はなかったことである。

道路の浸水問題を解決するために、そこで、人々は中心河にその排水機能を発揮させるのは自然の発想であった。当時白玉山トンネルを建設したその区長は、次の工程は中心河に再び空の太陽を見せ、小さな橋の流水の景観を回復させることであった。この数年、車両の激増により、元々拡幅された道路はすでに渋滞に堪えられず、どうして河を修復した道路を取り去ることができたのであろう。当面唯一の方法は浸水する道路の排水構造を改善するしかなかった。

果たして、我々は長期的に考え、投資旧市街を改造した時の、中心河両側の建築を5米を下げて、多くの空間をとどめ、両側の双方通交を形成するかのは、それで小橋流水の景観を回復するのは全くのおとぎ話ではなかった。


2018年8月の大洪水

著者 旅順 李華家