山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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気の置けない仲間と、喧嘩で仲たがいするが、まさか友情は偽りであったのだろうか。


秦代の張耳、陳餘は良い友達であり、二人はもともと魏国の名士であり、秦朝の官吏の追討を避けるために、姓名を偽っ(いつわる)て民間へ逃れ、二人は苦楽を共にして深い友情を結んでいた。しかし、後にある戦いで二人は反目する仇敵となってしまって、友情という小船は不意を突かれてどうしようもなく大揺れした。

張耳と陳餘は共に魏国大梁の人であり、陳餘は年下であったので、彼は張耳の舎弟となり、張耳を父親のように慕っ(したう)た。しかし間もなく秦国が魏国を消滅したので、彼ら二人は当時の名士でもあったのですぐさま秦国の重要指名犯となった。秦国は千金を張耳の懸賞、五百金を陳餘の懸賞としたので、両名は名を変え逃亡し、最終的に陳県のある村で門衛となった。逃亡の過程でも、張耳と陳餘は堅い友情を結んで、苦難を共にして気の置けない仲間となっていた。

紀元前209年、陳勝と呉広は反旗揚げし、武装蜂起の軍隊は陳県を攻略して大本営を置き、陳勝は自ら「張楚王」と称した。張耳と陳餘はちょうど陳県に居たので、彼らは陳勝の軍に入った。すぐに、陳勝は武臣を北上させ燕代を掠奪しようとし、張耳と陳勝も共に北上したので、これから龍門を登り壮大な大戦の海へ躍り出た。

それぞれ挫折を経て、最終的に両名は趙国を建設し、趙王の後裔趙歇を扶助して趙王と仕し、張耳は趙国の宰相を担当し、陳餘は趙国の将軍となった。二人は片や文官、片や武官となり、秦末の乱世の一角を占めた。しかし良いことは続かないもので、引き続き起こった戦役で、二人は徹底的に反目を導き出し、いわゆる友情は跡形もなく打ち捨てられた。

当時秦の将軍章邯は真っ直ぐ東方へ向かい、破竹の勢いで多くの反乱軍を殲滅した。彼は迅速に趙国へ向かい首都邯鄲を攻めた。張耳は趙王歇を引き連れすぐさま巨鹿城に逃れた。章邯、王離は巨鹿城を厳重に包囲したので、張耳と趙王はここから逃れるのは困難となった。この時陳餘は何処にいたのであろう。

陳餘は巨鹿城までは逃げずに、趙国の敗残将兵を厚目に出かけ、数万人を収拾した。しかしながら陳餘は張耳を救援せず、巨鹿の北に駐在して、重々しい秦軍を遠望するだけで敢えて救援には戻られなかった。

この時王離の軍隊の兵力は充実し、糧秣も豊富であり、猛烈に巨鹿を攻撃していた。巨鹿が城内の食料は枯渇し、形勢は風前の灯火であったので、趙耳は何度も使者を陳餘に送って救援を求めたが、陳餘は自身の軍隊の人員不足が秦軍と均衡していないことを考慮して、救援には行かなかった。張耳は大変憤怒して陳餘に怨恨を生じていた。

張耳は将軍張黶(エン)、陳沢を陳餘の追究に派遣して、「我々は以前に生死を共にしようと誓ったではないか、いま私と趙王は風前であるのに、陳餘君は明らかに数万の兵力があるのに、まだ勝利を獲得する望みはあるかもしれないのに、どうして秦軍と死戦を決してくれないのか。」と言わせた。

陳餘は、「もし軽率に秦軍を攻めれば、趙国と救えないばかりか、全軍が消滅するであろう。私が救援に行かないのは、趙王、張耳に仇を打つ必要があるからだ。もし私が出かけて一網打尽となれば、飢えた虎に肉を送るようなものであるが、何の利益があるのだ。」と答えた。

張黶、陳沢は延々と聞き入れるので、陳餘は大変頭にきて、張黶、陳沢に5,000の兵馬を支給して秦軍の攻撃を試みた。その結果張黶、陳沢は二人とも戦死し、5,000の兵馬も全軍潰滅したが、秦軍の歯に物を挟むには充分であったろう。

この巨鹿の救援は項羽の目にもとまった。項羽は釜も船も捨て背水の陣の構えで、兵士を引き連れ猛虎のように下山し一騎当千の勢いで秦軍の主力を徹底的に潰滅し、最後の勝利を勝ち取り、巨鹿城は終に安全を獲得した。

張耳は陳餘と再会し、陳餘が救援に来なかったことを責め、張黶、陳沢の落命を追究したが、陳餘は腹を立て、「張黶、陳沢は共に果てることを望んだので、私は彼らに5,000兵馬を派遣して秦軍を攻めさせたが、結果は一人も残らず潰滅したので」と言った。考えられないことに張耳は根本的に信用しないばかりが、陳餘が彼らを殺したものと思い込み陳餘を追究した。

陳餘は激怒して、「あなたが私をそんなに誤解してるとは思ってもいなかった。私が将軍の地位を棄てられないと言えるのか。」と言い終えると、将軍の印章を腰から取り外して張耳に還したが、張耳は大変驚いて受け取りを拒否した。ちょうどこの時、陳餘は腹痛ですぐにトイレに行こうとした。ちょうど居合わせた客分が張耳に「天からのたまものを受け取らないと、災難に見舞われると聞いている。陳餘の印章などを受け取らないのは天の意思に背くものであり、不吉なのでお受け取り下さい。」と言った。そこで張耳は陳餘が帯びていた大印を、彼の部下に受け取らせた。

陳餘はトイレから戻ると、張耳が彼の大印を腰に下げているのを見て茫然としたが、陳餘は旧友張耳に徹底的に失望し、親近数百人を引き連れ大本営を離れ再び帰って来なかった。それ以来、かつて良好であった友人は、それぞれの道を歩み始め敵対することとなった。

数年後彼ら二人は戦場で兵戈を交わし、韓信が引き連れた張耳は井陘(セイキョウ)で背水の陣を敷き、陳餘を斬殺した。