この「青銅蓋付丼」はどういう器であろう?何の簋であろう?
その名も頌簋(しょうき)である。見たところ仏跳墙盅(ブッチョウショウチュウ、ぶっ飛ぶほどの旨煮の壺)のようではないか。もしあなたがそれについて色々面白い推測をするならば、急いで「簋」とは何かという知識をget=採る必要がある。本日はこの頌簋を紹介しよう。
二千年前の「青銅蓋付丼」である
簋は商周時代に流行した一種の食器であり、それは王宮貴族が宴会に招かれた時に、席に着くとテーブルに簋が置いてあった。キビ(大黄米)やアワ(小米)などの煮炊きした主食を盛り、人々にとって食べさせた。西周中後期に、簋には蓋があり、蓋をひっくり返して、取皿として惣菜を盛り付け、簡単に言えば「碗皿セット」であった。
示意図
「青銅蓋付丼」頌簋の造型は秀麗であり、紋様は主に曲線で構成されている。また瓦紋と垂鱗紋も取り合わせている。
上に高く盛り上がった蓋があり、下部には小さい三つ足、両側には獣の頭に輪の付いた耳(取っ手)があり、西周後期の簋器の逸品である。
古代人は「日記」を「青銅蓋付丼」に書いてのであろうか。
頌簋が出世しただけであり、その持ち主は新しい飯丼として必要したのではなく、この青銅簋は食器として使用する以外に、重要な礼儀器具として使用された。
頌簋は、持ち主の「頌」が、「記録」を刻んだ便利な器であった。
頌簋の本体内と蓋の内側には同内容の銘文がある。
その日は、風の穏やかな日であった(唯三年五月、既死霸甲戌、王在周康邵宮⋯⋯)。〜物語はこのように始まっている。
西周のある朝、周王は頌に命じた。洛陽で新宮殿の監督造営を認知させた。また彼に黒色の礼服、馬具などの物品を贈与して激励した。「頌よ、周王はお前に成周での任務し、新宮建設の監督を命じ、官服、膝当て、旗幟と馬具を与えるので、お前はうまく利用して監督をこなすこと。」
頌は王の命令を受け、周王の跪き礼を述べ、王の恩に感謝した。王名の儀礼が終結すると、頌は感興が湧き立ち、彼はこの日の輝かしい瞬間を152文字の「記録」として濃縮し、頌讚簋の上に、その祖先を祭り後世に伝え、末永く臣下として周王に仕えることを願い、仕事の長く通達する事を求めた。
この銘文は横並びて縦に整列して、規則的な配置であり、構成が厳粛であり、西周王室が使用した標準的な書体であり、また最も金文が成熟した形体であった。銘文に刻む冊名制度は、西周地代の冊名制度に最も重要な参考価値がある。
あなたは奇数の一兄、私は偶数の二弟、「仲良い兄弟」は一生一緒である。
簋の話となれば、その「仲良き兄弟」〜鼎の話題に触れねばならない。鼎は比較的知られているが、始めは煮炊きや食器に使われた、後には重要な祭礼器具となった。
左から右まで:「后母戊」青銅方鼎(中国国家博物館蔵)、大克鼎(上海博物館蔵)、祖辛方鼎(山東博物館蔵)。
西周時代に発展した特殊な等級制度に、名付けて「列鼎制度」があった。大小、数量の異なる鼎、数量の異なる配置の簋とで、固定の儀礼器具の組み合わせが形成された。祭祀、饗宴、隨葬の時に使用し、その主人の身分地位を表した。
鼎は一般に奇数であり、簋は一般に偶数である。天子は九鼎八簋を享受し、諸侯は七鼎六簋を使用し、大夫五鼎四簋を使用した。これより類推するに、このレベルを超え使用することはできなかった。
頌簋も自分の「鼎兄弟」がある。それは北京の故宮博物院、上海博物館と台北の故宮博物院に現蔵し銘文は相当で、一組の青銅の儀礼簋に属する。残存する頌鼎は3器であり、頌簋は6器と2個の簋蓋がある。
左から右まで:頌鼎(故宮博物院蔵)、頌鼎(上海博物館蔵)。
数千年前の冊封の大典礼の➖➖の場面は、歴史の中に消え失わせた。しかし美しい銘文は永遠に刻まれ、重厚な青銅器は流伝して今に至り、人々に古代を追憶させ、歴史の瞬間を感得させている。
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