漢字初の解釈:醍・醐
「醐」は、『説文解字』に、醐は、醍醐なり、酪の精なる者なりという。乳清からバターを取り除いたものを指す。酒ではないが「酉」を意符としているのは、「醍」と対を為すためと考えられる。「胡」は音符であり、あるいは「糊」の省略であり、醍醐が糊の様子に似ていることを表す。
醍醐は乳清に固まった油分であり、牛乳から練り上げたエッセンスである。『本草綱目』に、「酪上の一重に凝る者を酥と為す。酥上の油の如き者を醍醐と為す。甚はだ甘美なり。」と解説している。但し、現代人には既に無くなったかあるいは名が変わってしまった「甚はだ甘美なる」をどう察すればよいのか。それには曹操が楊修を「怨めしく」思わせた「一合(一人一口)酥」〜「塞北より酥一盒を送り至る」は、北辺の国境地帯から鄴城まではるばる千里を運ばれた、たった一盒(箱)は明らかに「進物」であり、酥とはそういう価値のものであり、練り上げた醍醐の金宝に匹敵する旨さであったと理解できるのである。
醍醐は現在よく使われる熟語に「醍醐の潅頂」があるが、これは知恵を潅いで人を語らせることで、また細かな道理で最大の啓発を与えることの例えでもあり、本来仏教では醍醐は最高の語りを比喩して使われる。『涅槃経・聖行品』に説いている。「譬えば、牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出すが如し。醍醐は最上⋯⋯仏もまた是くの如く、仏寄り十二部経を出し、十二部経より修多羅(しゅたら)を出し、修多羅より方等経(ほうどうきょう)を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す。なお醍醐の如く、醍醐を言うは仏姓を喩えるが如し。」。
このように、仏教では醍醐の「最高」、「至極甘美」だけではなく、この「最高」「至極甘美」に到る精進〜牛乳から乳清を作り乳清から精錬するように、つまり智慧は日々の実践修行から得られるものであると説いている。この甘美で極秘の醍醐を頂には「潅」ぐことは、喝を入れることと春風に身を置くような教えを兼ねていると考えられる。〜人はまるで早春の夜明けに春の息吹を嗅い(かぐ)で、無上の知恵が天から降りてくる籠のようにすっぽり覆い、突然大変爽やかで深く清冽に覚醒させるのである。もしそれが一流の人材であれば、さらに心が動き、精を出して精を求め更に高みに登る願いを発生するのである。
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