山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ロックハートの『山東紀行』(1)(総介➕芝罘➕蓬莱)

19世紀末、20世紀初頭に列強による中国分割の狂潮が頂点に達した。1898年にドイツが膠州を租借した後、翌年に山東省の腹地を貫通する膠済鉄道(1904年に完成し通車)の建設に着手し、山東省全体を自分の所有しようとした。このような危機に直面して、1902年12月、山東省巡撫周馥はイギリスの租借地威海衛を短期の正式訪問し、外力で制衡を希望した。1903年4、5月間、威海衛初の文官行政長官のロックハートは済南に山東省の巡撫を訪問し、孔子の誕生地曲阜に参拝し、青島ドイツ総督を訪ねた。

山東省の腹地を6週間に渡る旅を終えた後、ロックハートは自らの見識を秘密報告書にまとめ、英国政府に提出した。ロックハートは行政長官として、途中で主に威海衛経済の発展から観察し、沿道各地の経済、貿易、軍事、文化、風土などについて詳しく描写し、特に済南と山東省巡撫周馥は運河の浚渫と鉄道の建設について交流を行った。曲阜で第76代衍聖公孔令貽が孔府で迎えた最初のヨーロッパ人となり、威海衛と膠州の二つの租借地の比較も興味深い。

この旅行日記式の記録を以下に翻訳して読者に贈る。

本ブログ注: 

1、ロックハート:ジェームズ・スチュワード・ロックハート(1858年から1937年まで)、イギリス威海衛初の行政長官(1902年から1921年まで)、中国語名「駱任延」はイギリス管轄下の威海衛時代に最も良く使われていた。

2、本文が広すぎるため、このブログは、ロックハートが訪問した地〜芝罘、蓬莱、小清河、済南、寧陽、兖州、曲阜、鄒県、済寧、泰安、博山、濰県、膠州等に従って、幾つかに分けて送信する。文章中の添付図は全てインターネットから、原画は英語で表記されているが、本人の英語レベルではが限られていることや現地の状況に精通していないため、実際の状況と一致しない場合があります。

3、この文章を整理して転送し、歴史研究者や愛好家のためにのみ資料を提供し、「いいね!」とリツイトを歓迎します。

以下本文に:


歴史的に見れば、清代の18省の中で、山東省は多方面で最も有名であった。ここは中国の大聖人孔子と孟子が出生して生活した地方である。大運河の一部がここを流れている。中国の母なる大河➖黄河は山東省の海岸から大海に流れ込む。中国一の聖山➖泰山はここに鎮座している。

山東省の面積は64,105平方マイルであり、イギリスとウェールズ全土よりも7,000平方マイル広い。人口は約3,000万人であるが、信頼できる人口の実態調査は行われていない。管理の便を計って、3道、16府、96県に分割されている。

省の最高行政長官の巡撫が置かれ、中央直属の布政使、地方官の按察使、学政、塩運使と外務使の協力の下、省内の物事を管理する。各道と府、県の長官は道台と知府、知県と呼ばれた。大量の付属官員のほかに大量の専門職の協力官員があった。

目前の巡撫周馥は安徽省の人である。彼は李鴻章に認められ、太平天国時期には李鴻章の草案を担当し、キャリアを進み始めた。情熱的で、過激であるが、白内障を患っている。

去年、山東巡撫と膠州総督が公式訪問のため当省を訪れた。今回の山東旅行は彼らの再訪のためであった。


イギリス威海衛総督官邸


威海湾


威海衛街の一角

4月20日、我々一行は、威海衛華勇営の

バーンズ大尉(Captain Barnes)、中国人秘書1名、華勇営の兵士4名、下男3名、コック1名、カメラマン1名と助手の合計13人が威海衛を出発した。


イギリス威海衛総督ロックハート(1858ー1937)


威海衛華勇営士官の撮影


威海衛の街角

イギリス海軍ストークス上校(Captain Stokes )の助けで、イギリス艦「エクリプス(Eclipse )」号で芝罘港に着いた。芝罘は威海衛とは海路で40マイル、陸路で60マイル離れている。

芝罘港は1863年に海外貿易のために開港した。1902年に中国税関を通過した純貿易額は4,805,194ポンドであり、主要な輸入品は綿製品(1,309,974ポンド)、綿糸(514,121ポンド)、金属(101,820ポンド)、砂糖(291,432ポンド)である。主要な輸出品は蚕糸、麦稈真田(麦わら)、大豆かす、ハルサメなどであった。蚕糸の輸出額は586,500ポンドである。


芝罘(この写真はロックハートからの写真じゃない)


芝罘教会

山東省の蚕糸には2種あり、一つは天蚕(柞蚕)糸であり、ミズナラで生活する天蚕が吐く糸である。もう一種の黄糸であり、クワの葉で生産する家蚕の吐く糸である。山東省では、一部のカイコの繭、主にクワの葉で生活する家蚕の繭を産出出している。天蚕繭はほとんどが満州から大東溝から芝罘に運ばれている。

1902年、(山東省への)カイコの繭の輸入量は毎籠30,000個の繭が25,000籠に達した。前年の天蚕糸の生産量は80,000袋であり、ほとんどの天蚕糸はニューヨークと日本へ運ばれ、さらに大量の家蚕糸はリヨンへ販売された。


芝罘湾


煙台山


芝罘街の一角


芝罘

芝罘には20軒の天蚕糸を生産する撚糸(ねんし)工場があり、その内2ヶ所の撚糸工場が外国機器を使用していた。一ヶ所はドイツ人が部分所有する会社であり、もう一部は英中の合弁(ごうべん)である。大量の生糸が芝罘で紡が(つむぐ)れて、日本、トーストラリアとヨーロッパへ輸出された。これまでは手で糸繰りされていたが、中国人は外国機器を使用するつもりであると聞いている。ほとんどの天蚕繭はここで関税を支払い芝罘に運ばれ、また絹糸を輸出する時も税の支払いがあるので、威海衛が免税港として絹糸貿易の中心とならない理由はないようである。ここでの唯一の難点は熟練工が不足していることであるが、中国人を訓練してこういう操作を進めることは簡単である。

1902年には、37,080ハンドレッドウェイトの麦稈真田(麦わら紐)が輸出され、その価値は183,943ポンドであり、大豆粕(かす)は汕頭や日本とそのほかの地方に輸出され肥料とされ、貿易額は242,590ポンドに達した。カイコの繭同様に、大豆も大量に芝罘へ輸入され、輸入税が徴収され、その製品である大豆粕の輸出にも輸出の関税が徴集されたので、威海衛がこのような免税港として大豆粕貿易のセンターとなる事は難しいことではないはずであった。

このほかハルサメを大量に輸出し、1902年の貿易額は166,188ポンド。ハルサメには純正緑豆(リョクトウ)、緑豆とそのほかの豆類で作ったもの、緑豆とアワから作ったものの三種があった。香港へ大量に輸出され、香港からカリフォルニアとオーストラリアへ輸出された。現在威海衛にハルサメを引き伸ばす機器の導入が検討されているが、今のところ何も行動に移されていない。もし機器の使用が確定すれば大量のハルサメ貿易ができるので、免税港として(威海衛は)芝罘とハルサメ貿易の競合ができるはずである。


1902年の芝罘


1901年芝罘

1863年の開港以来、芝罘は山東省と直隷湾の主要な貿易センターとして発展してきた。ただドイツが膠州から建設した鉄道は芝罘の交易の一部を担うことができるので、この点については以後再検討が必要で、煙台ヘ向かう途中に我々は龍門港を通過したが、龍門港の一部はイギリスの勢力範囲であり、中国政府により海軍基地としての使用が検討されている。

『威海衛租借に関する中英条約』には、中国軍艦には中立非中立に関わらず、イギリス政府が租借しているこの水域の使用権があるが、今のところ中国政府はこの水域を使用していない。政府の観点から、中国は『租借条約』に従って自国の権利で彼らにさらに遠方の港湾を捜すよう迫った方が良いように思われる。

龍門は適切な港ではなく中国政府は、我々が芝罘から羊角溝へ向かう途中の、当省北部の廟島の港湾の利用を検討していると聞いている。

芝罘に到着すると、英国領事のブレイディ氏が我々を迎えてくれた。彼は山東省巡撫が道台(芝罘にある道台役所)に「靖海」号を我々の使用に提供して、小清河の河口ヘ送るよう指示したと聞かされた。小清河に沿って巡撫役所のある省都済南ヘ行くことができる。


「靖海」号(ロックハートから取った写真、1903年)


「靖海」号船員(ロックハートから取った写真、1903年)

「靖海」号は日清戦争で日本軍に接収されていたが、後に中国により買い戻された。中国政府は現在それを海賊の鎮圧に利用している。この船は通常「捕盗船」と呼ばれ、王船長は香港の中央学校の学生の校長であり、王大佐は流暢な英語を話した。

我々は「靖海」で眠り、4月21日に火曜に出向した。

正午ごろ上陸して蓬莱閣を見学した。この有名な廟宇からは登州府内を俯瞰する格好の地であった。蓬莱閣は八仙に因んで名付けられ、中には蘇東坡の像がある。蘇東坡は中国の大詩人であり、ウィリアム王がイギリスの国王であった時に、蘇東坡の任期は短ったが登州知事であった。この廟の建物の一つには、登州の有名な景観「海市蜃楼(蜃気楼)」を描写した蘇東坡の詩が刻まれている。この詩の序文には、蘇東坡が年の暮れに登州に到着した時、蜃気楼は春夏の時期にしか発生しないので縁がないと知らされたが、彼は海神に祈ると、海神は季節を問わずに蜃気楼を出現させ、彼の願いを満足させた。



蓬莱(ロックハートから取った写真、1903年)

4月22日水曜、我々は朝の6時半に出発し、午後6時45分に小清河の河口〜羊角溝に到着した。