山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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アメリカ宣教師の過去:「クッキーおばさん、帰国途中に餓死した。」

膠東方言に堪能なアメリカの「クッキーおばさん」のロティーは百年前の中国での出来事であった。


蓬莱の旧市街の華南地区西側の登州聖公会(アングリカン)教会にある「遺愛碑」は、外国人に捧げられたもので、「大美国慕拉第女士遺愛碑(米国ロティー・ムー女士顕彰碑)」と書いてある。
遥か海の先のアメリカ・パージニア州にも墓碑があり、墓誌銘は「40年間中国で布教した米国南部パブテスト教会宣教師ロティー・ムーンの墓」とある。二つの記念碑の共通の主人公は清末の山東登州一帯で40年近く布教したアメリカ人宣教師ロティー・ムーンで、彼女はほかの宣教師とは違って、このアメリカ女性には異なった物語がある。

バージニアから登州へ

「私が華北へ来た最初の印象は、ここは大変温和な気候で、何処でも緑豊かで、鮮やかな花が開き、私は和んで気に入りました。登州は中国でも最も美しい街で、私は澄んだ空気と十分なお日様のあるこの街の真ん中にいました。」。
1873年11月1日、独身のアメリカの女性、ロッティ・ムーンが登州に到着した時、彼女はこの未知の土地に興奮した。彼女は、米国南部バプテスト派の執行委員会の幹部であるタッパー宛てた手紙で、この山東省の海岸都市を絶賛した。
清代の登州府は、蓬莱に位置しており、東は大海に面し、西は京津を望み、北は遼東に接し、南は内陸に接しています。古くから海上シルクロードの起点となり、陸海交通が便利です。第二次アヘン戦争では、清政府と英仏米などの国々が締結した『天津条約』に基づき、登州は商業港に指定されました。その後、水が浅かったために煙台に移転しましたが、当時の煙台はまだ登州府福山県の一部でした。登州府は、商業が行われ始めてから間もなく多くの外国人が入り、伝道師達もその中にいました。
蓬莱の史書によると、1861年2月には、米国南部バプテスト派の宣教師であるヘイズが最初に登州に到着し、煙台は8月に正式に開港された。その後もたくさんの宣教師が続々とやってきました。ヘイズは翌年、北街の観音堂に建てられた教会を建設し、当時は華北バプテスト派の第一教会となりました。その後、米国長老派のニーヴィス、ゲーリーなども順次到着しました。1863年、南部バプテスト連係のクロフォード夫妻が登州に来て、三年後に南街にバプテスト教会を建立し、1872年には画河橋南西にキリスト教会を建立したが、当時のアメリカ宣教師の中国での布教の重要な場所になっていた。このような背景のもとで、南部バプテスト連盟のロティ・ムーンは翌年、つまり1873年に山東の登州に来た。
成年後のロティーは、身長が僅か4フィート3インチ、1.4米にも満たなかった。この小柄な女性が、遥か東洋の異国への布教を選んだのは、彼女の家庭と大変関係がある。1840年12月12日、ロティーはアメリカ・バージニア州のアルベール郡の植物園主の家庭には生まれた。農園は500エーカーの土地があり、兄弟姉妹7人の内、彼女は三番目に生まれた。彼女らの母親は敬虔なパブテスト信者であり、子供が小さい頃から、宗教の物語を聞かせていたが、中にはアドニラム・ジャドソンがビルマで布教に出かけた経歴も含まれていた。『聖書』の物語と比較して、ロティーは、シェークスピアの作品の方には興味があったが、周囲の影響もあって、ロティーは18歳受けた。元元聡明な彼女は3年後に文学修士の学位を取得したが、アメリカ南部で最初の栄誉を受けた女性の一人であった。1873年、アメリカの南部パブテスト協会はほうさくを緩和して独身女性が、布教のために出国することを許可し、ロティーは率直して申請しついに中国へ派遣された。そして遥々海を渡り登州へ来てから、ここで子供の目には「クッキーおばさん」として映るほどの40年近くを過ごした。

此処で子供の目には「クッキーおばさん」

宣教師としての特殊な身分で登州に来たが、彼女が街に出ると現地人につばを吐かれ石くれを投げられ、大変憎悪な言葉「洋鬼子」とヨバレルほど、少なからぬ迫害を受けた。このアメリカの裕福な家庭の千金少女は西洋の礼儀フウゾクの習慣を投げ捨てて、中国の藍色木綿のゆったりした大袖に墨色緞子の大掛を着て、頭髪も髷髪に結い、仕女のような平易な姿で村民の面前に現れた。
同時にロティーは自信の言語能力に天賦の才能を現した。若くアメリカにいた頃から、彼女はラテン語やギリシャ語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語などの多くの言語を使い熟した。登州へ来てからロティーはすぐに当地の方言を修得して、当地の人々との交流の機会を探索した。ロティーは一近所の子供を呼ぶため教会を開放してビスケットを置いた。次第に子供達を通じて母親達とも接触して、料理、裁縫、洗濯、水運びなどの些細なことから、民衆達との繋がりを通じて次第に彼女らの生活に入り込み、彼女らに受け入れられた。後には当地の子供らの目にはもう洋鬼子ではなく、「ビスケットママ」「ビスケットおばさん」として映っていた。
特筆すべきはこの高等教育を受けたアメリカ女性は、始めて中国社会に接触した時に、女性の地位の卑微を体感し、最初に中国の婦人の纏足風俗を見た時に、訝しんだロティーは思わず「彼女らの満足に歩けない様子の、あの変形した両足は、彼女らの考え方が古い証拠である。」と訴えた。その後ロティーは地元の女子に纏足の障害について喧伝し、纏足の傷害に開放を説得した。1878年2月に、彼女はラテン語や登州で寄宿学校を開港したが、学生の大部分は貧窮した家庭の女子であった。ロティーは女子学校でも纏足をやめたものを入学させ、纏足の反体運動を展開したので、纏足をやめることを入学の先決条件としたので、地元人にとって一定の啓蒙作用となった。

帰国途中に餓死

登州で十年余り生活した後、1885年にロティーは新しい布教地区を開拓するために平度一帯に出かけたが、仕事が多忙で彼女はほとんど帰国する時間が殆ど取れなかった。
1894年に、ロティーは再び登州へ戻り、長年働いた故郷は大変親しく思えて、彼女は、「この頃私は毎日この市街に出かけているが、私はこれほど和やかて喜ばしい気持ちになったことがない。」と日記に記している。この時彼女はこの年と一体になっていた。
時間が経つにつれて、ロティーの評判もうなぎのぼりであった。今なお蓬莱には袁世凱が布教を聞きに来たと伝えられているが、当時の山東巡撫も袁世凱の名を慕って教会に来たが、夫人のための座席に座っていたので、ロティーは彼を適切な席に案内した。
義和団の変が勃発後、ロティーはしばらく中国から離れており、年配で健康状態も以前より悪かったが、登州へ戻ると主張した。残りの年月は布教のほかに、被災民を救助するために奔走した。
ロティーが登州に着いた時、友人に宛てた手紙にはロティーの善行が記してあった。「あなたが私にくれた5円50銭は、5円を2年分の食費としてリチャードに渡し、残りの50銭をお腹を空かせた物乞いに与えました。」1912年に平度県で疾病が発生した時、ロティーは銀行の貯金をすっかり提出し、また給料をやりくりして被災者を救済した。みんなで平度県の寄捐会を開いた時には、彼女は自分の食べ物さえも周囲の人に分け与えた。長期の栄養不良と心神衰弱により、ロティーの健康状況は次第に悪化し、その年の12月24日のイブの夜、日本の神戸を通過する船の中で亡くなった。
ロティーが亡くなると故郷のバージニア州に埋葬されたが、彼女の一生は米中両国人民に敬仰された。1888年から始まったアメリカパブテスト教会の例年の生誕祭チャリティーはロティー・チャリティーと称された。1973年に、ロティーが登州到達100周年を記念するために、アメリカはロティーに関する映画を撮影した。
ロティーが40年近く過ごした登州の旧市街では、当地の民衆も彼女を忘れることはなく、彼女が亡くなって数年後の1915年に、登州の民衆は彼女のために「大美国慕拉第遺愛碑(アメリカ人ロティー・ムーン顕彰碑)」を建立した。ロティーは登州に来た宣教師の中で唯一碑文に記録された一人となった。